歪な二人
「東京都○○区のマンションで娘に度重なる虐待をした後、殺害したとされる○○容疑者 (38)が逮捕されました。~~~~~」
それはどこにでも流れる児童虐待と殺人事件のニュースだった。面識もない男が頭からフードを被って顔を隠しパトカーに乗り込む映像は特別珍しいものではなく、恐らく知り合い以外の人間はそのニュースを流しながら見ていただろう。
それは自分も同じだった。知り合いでもない男が逮捕された所で、自分には何も関係なく、何一つ普段の日常と変わりのない生活が待っていると思っていた。
ガラス細工の報復
「お二人で二千五百十二円のお支払いになります。支払いはご一緒でよろしいですか?」
東京都内の一角にあるカフェ。どこにでもある何の変哲もない店だが、店内はそれなりに混雑している。
女性客二人の接客を終えた男性は頭を下げ、皿洗いの業務に戻った。
街の喧騒とは無縁の大人しく上品な音楽が室内にかかり、客たちはそれぞれ食べたいもの、飲みたいものを注文し、会話に花を咲かせていた。
その光景を皿を洗いながら眺めていた男性は、横から声をかけられ、視線を客から移した。
「陽向、もう上がっていいよ。お疲れ」
「……あーお疲れっす。先輩、俺昼食ってないんすよね」
「確か新人が失敗したサンドイッチあるぞ。持って帰れば?」
失敗にも種類がある。具材の入れ間違いや床に落としたものは流石に持って帰りたくはない。表情に出ていた陽向の顔を見て察した同僚は慌てて訂正した。
「あ、いや、大丈夫だ。お客さんはBサンドが欲しかったらしいけど、間違ってAサンド作っちまっただけだから」
「オーダーミスっすか。んじゃあ、有難く受け取ります」
陽向は奥のテーブルに置かれているサンドイッチをラップで包み、持ち帰り用の箱に入れ、他の従業員に挨拶しスタッフルームに足を運ばせる。大学生特有の昼夜逆転生活のおかげで目が覚めたときは十二時を回っており、朝食どころか昼食すら食べられなかったのだ。休憩室でサンドイッチを食べてから家に戻ろうと扉を開けると先客がいた。
「あ、先輩だ。ちす~」
「まどか、今終わり?」
「うん。そうなの」
自分より年下の高校生バイトが休憩室の椅子に腰かけていた。携帯をフリックしていた手は陽向が休憩室に入ったことにより動くのを止め、口角を上げた笑顔はなんとも活発な印象を受け魅力的に感じる。
まどかと呼ばれた少女は陽向が持っている紙袋を目ざとく発見して大声を出す。
「あー!賄い!?ずるい!まどかももらってないのにー!」
「うるせえ黙れ!許可もらってんだよ!」
「ずるいずるい!まどかにも頂戴!!」
後ろでやかましく騒ぐ後輩の相手をするのも面倒で、できるだけ離れた席に腰掛け袋の中身を取り出す。そのまま全て食べてしまおうか考えたが、後輩は恨めしそうにこちらを見ている。たかがサンドイッチ一つで表情をコロコロ変える後輩があまりにも面白くて陽向は噴き出した。
「んな顔すんなよ。ちょっとだけだぞ。俺昼めしもまだ食ってねえのに」
「んえ?先輩もう十七時だよ今。早い夕飯じゃん」
「寝坊しちまったんだよ。しゃーねえべ」
苦笑いしながらサンドイッチの一部分を手でちぎるも、バケットは思った以上に固く、中に挟まっているハムも手でちぎることはできなかったためテーブルにボロボロと零れだした。それを見ていたまどかは大笑いしながら陽向の元に近づいた。
「先輩どんくさ~!」
「う、うっせーな!!ほらよ、ちぎれたぞ」
「わーい。ありがと~」
笑顔でサンドイッチを受け取り、まどかは豪快にかぶりつく。目の前に異性がいるのに、その食べ方には遠慮がなく、まるで幼子の様だった。その光景に陽向は笑みを浮かべ、自身もサンドイッチを口にした。
他愛ない話をしながら二人はサンドイッチを食していく。
「先輩、大学楽しい~?」
「まあ、それなりに」
「彼女できた~?」
「……いや」
「先輩って一人暮らしなんだよね~?家族に連絡とってるの~?」
「取ってない。男子大学生とかそんなもんだよ」
サンドイッチを食べ終わり、紙をゴミ箱に入れて陽向は立ち上がった。それを見てまどかも一緒に席を立つ。まるで陽向を待っていたかのような行動だった。
「まどかも帰ろ~っと。門限あるし~」
「十八時までだっけ。今時随分厳しいんだな」
「そだよ~まどかもう十七歳なのにさ~十八時て無理ゲーじゃんね。まどかも早く大学生になりた~い。先輩一人暮らしで羨ましいわ~」
「お前高三なのにいつまでもバイト入ってるよな。勉強しねえのかよ」
「行けるとこ行くし、しな~い」
けらけらと笑うまどかは陽向が帰る準備を終えるのを待っている。
二人でカフェを出る前に他の従業員に挨拶をして、店の扉を開けた。外は熱気に包まれており、時刻は十七時半にも関わらず、太陽が照らし、人々は額に汗をかきながら歩いていた。陽向もカフェを出て受けた直射日光に瞳を不快そうに細める。
「ねえ、今度先輩の家に行っていい?」
まどかが陽向にそう告げた。
通行人の足音や会話、交通機関の音、様々な喧騒の中でもその声は陽向の耳に届き、振り返った陽向の表情は歪んでいる。その表情だけで空気の読める人間は察することができる程度に意志が顔に現れ、まどかは苦笑いした。
「目は口程に物を言う。って知ってる?今の先輩の顔だよ」
「うっせーよ。何べん言ってもダメな。もうこの会話すんのやめようや」
冷たくまどかをあしらい、陽向は別れの挨拶もせず一人で歩いて行ってしまう。後ろからまどかが何かを言っていたが、その言葉に耳を傾けるほど、陽向によってまどかは大した存在ではなかった。関わらなくなったならば問題ない。関わるのなら最低限の世話以外はしない。話すことが嫌なわけではない、後輩としてなら面白いし相手をするのに何の不満もない。ただ ― 時々彼女の目が変わる瞬間がある。その瞬間が、何よりも陽向は嫌いだった。
街の中心部からは少しだけ離れているが都心、築十年目のアパート。大学から通うには好立地のアパートには大量の自転車やバイクが停められている。オートロックを開け、自分の部屋に続く階段をあがる。住人は学生がほとんどで、部屋からは笑い声が漏れていることもしょっちゅうだ。
三階にたどり着いた陽向は鍵を差し込み扉を開ける。室内は涼しく、今まで外にいた陽向はその快適な空間に破顔した。
「湊ー!」
部屋の住人に陽向の声は浮かれ、リビング中央の座椅子に座ってパソコンをしている人物の隣に腰掛けた。
湊と呼ばれた青年は陽向が帰ってきたことに気づき、手を振る。
「おーお帰り。今日バイトだったなそういや。忘れてたわ」
「お前来てるならマッハで帰ったのにー!クソ後輩に絡まれたんだよ!!」
「ああ、まどかちゃん、だっけ。良く話に出てくる」
陽向の話を覚えていたらしい湊の反応に陽向の表情は輝いて行く。まるで自分のことに興味を持ってくれているのが嬉しいと言う子供の様なあからさまな反応に湊は苦笑いした。
陽向と湊は都内の大学に通う学生だ。別の大学に通ってはいるが、実家暮らしの湊はしょっちゅう一人暮らしの陽向の家に転がり込むのだ。陽向も湊に合鍵を渡しているため、こうやって外から帰ってくると湊がいるという光景はすでに何度も経験していることだった。
「腹へった~陽向、ピザ食おうぜ。コーラ買ってきたからよ」
「最高!やろうやろう!L二枚いけっかな」
「余裕っしょ。男子大学生の食欲舐めんなよ」
二人のやり取りは、どこにでもある友人のやりとりだった。
***
大学生になり、実家から出て一年と少しが経過した。ようやく一人暮らしに慣れてきたころだった。生活費はかかるが、バイトと奨学金で何とか補え、仲のいい友人もできて、それなりに満足した生活を送っていたのだ。
「東京都○○区のマンションで娘に度重なる虐待をした後、殺害したとされる○○容疑者 (38)が逮捕されました。~~~~~」
ピザを食べながら何の気なしに見ていたバラエティが終わり、次の番組が始まるまでの約十分間で流れたテレビ放送だった。今日起きてテレビをつけたときも同じ情報がながれており、本日の全国ニュースのトップを飾る内容だったんだろう。淡々と情報を告げるアナウンサーは無表情で、事件の凄惨さをかき消すかのようだった。
ぼんやりとニュースを見ていると、番組が変えられ、先ほどまでの映像とは変わり女優がビールを気持ちよさそうに飲んでいるCMに変わる。チャンネルを変えた相手はつまらなさそうにリモコンを持っており、何度もチャンネルを変える。
「この時間だからどこに変えてもCMだよ。二十時まで待てよ」
「分かってるけどよ~この時間って世界で一番無駄な時間だと思うわ」
「……俺はニュースに戻してもいいよ」
「俺は嫌だね。戻す意味がねえもん」
その言葉の意味が分かり、陽向が小さく笑う。湊はこういった児童虐待などのニュースが大嫌いだ。その内容が流れると番組を変えてしまうほどに。湊は優しい、そしてすぐに感情移入する。あの無機質な文章だけの説明でも湊の不快感を煽るには十分だったんだろう。
別にニュースが見たいわけでもない陽向は嫌がる湊を諭してまでチャンネルを変えるつもりはなく、次の番組が始まるまでの間、二人はくだらない話に花を咲かせた。
***
「湊って今日は泊まんの?」
「うん。駄目か?」
「いいよ。んじゃ俺先に風呂入るよ」
持ち込んだゲーム機でゲームをしている湊をその場に残して陽向は立ち上がる。湊はまだゲームをする気満々で今日は家に帰らないと告げた。それもいつもの光景で、湊がこういう風に急にやってきて泊まっていくことも珍しくない。陽向はさして動揺することなく、クローゼットから予備の布団を出した。
床に投げ捨てて、あとは湊が準備すればいいと風呂場に向かおうとしたとき、呼び止められ後ろを振り返る。
湊はコントローラーを床に置き、こっちに顔を向けている。
「そのバイトの後輩、お前のこと好きなんかな」
「は?」
突拍子のない質問に陽向の目が丸くなる。なぜ湊がそんな質問をしてくるのかも理解できず、うまく反応ができなかった陽向を気にすることなく湊は腕を組んで考えた。
「その子、お前のこと好きなんだと思うんだよな~なあ、どんな子?」
「……俺は好きじゃないから。その話もうするな」
その一言だけを告げてシャワールームに向かっていった陽向に湊は肩をすくめた。
ゲームはとっくに負けてしまい、再戦するのも面倒になってしまった。次は陽向が戻ってきてから二人でやるゲームにしようと電源を落とすと、二十二時の報道番組が始まっており、また先ほどの児童虐待のニュースが流れていた。
コメンテーターが痛ましい事件だとありきたりなコメントを流し、事件の詳細を説明していく。
被害に遭ったのは八歳の女児。母親は再婚で女児と父親の血縁関係はなし。父親は女児を性的にも虐待していたとの報道が流れていた。
リビングから漏れてくるテレビの内容に脱衣所にいた陽向は無意識に耳を傾けていた。
こういう事件が年に何回テレビのトップニュースになるだろう、全国報道されないだけで何人の子供が巻き込まれているだろう
どちらにせよ、自分には関係のないことだった。か弱い女性と言うわけでもなし、一人暮らしをしている男子大学生だ。今更虐待なんて自分には縁のない言葉だ。再び湊がチャンネルを変えたのだろう、バラエティの笑い声が聞こえ、陽向はその音をBGMに風呂に入る準備をした。
***
「せーんぱい!」
まどかのとってつけた明るい声に陽向は顔をしかめる。大学の講義が終わってから直行したバイト先にはすでにシフトが入っているまどかがおり、陽向を見つけるなり笑顔で近づいてきたからだ。
荷物を置いて、先に入っている従業員やバイトに挨拶をして自分の仕事に入る。と言っても皿洗いに接客、会計だ。平日の夕方はお客はそんなに多くはなく、従業員同士で軽口を話しながら業務を行えるレベルの忙しさだった。そのせいか、隙を見つけてはまどかが声をかけてくるのだ。非常に迷惑な後輩に陽向は皿を洗う手を止め、まどかを睨みつけた。
「お前仕事しろよ。俺にちょっかいばっかかけてる場合かよ」
「先輩ってさ~〇〇区のアパートに住んでるんだね~」
いきなりのまどかからの個人情報の流出に陽向の目が丸くなる。まどかは全く気にしている素振りはないが、教えてもいない自分の住所が知られていることに陽向の気分は下がる一方だ。
「なんでお前が知ってんだよ」
まさかストーカーか?その一言は寸での所で飲み込んだ。たまたま居合わせただけかもしれないし、自分の勘違いだったら流石に恥ずかしすぎる。陽向は口をつぐみ、それ以上は言わずにまどかの返事を待った。当の本人はにやにや笑っており、話をはぐらかすばかりだ。
「まどか、先輩のこと何でも知ってるよ~」
「あ、そ。俺はお前に全く興味ないけどな。お前のこと、知りたいとも思わないし」
そう告げると、今度はまどかが目を丸くした。まるで確信を持っていた物が違う物だったかのような反応に陽向も面食らってしまう。まどかはそれ以上、陽向に話しかけることなく離れて行ってしまう。それに若干の疑問は湧くが、元々まどかが苦手な陽向からしたら距離を置いてくれて有難うと言ったところだったため、深く追求するのはやめておいた。
陽向の本日のシフトは夕方から閉店の二十三時まで。次の日の講義が二限からじゃないと成り立たないバイトだと陽向は思っている。二十三時と言っても、客足が減ることはなく、むしろ飲み帰りの学生でカフェはそこそこ繁盛しており、休む時間も与えられない状況だった。
ラストオーダーを聞いて回り、最終注文を客の元に届けたら、あとは片付けの時間だ。陽向は片付けをしながら客にお冷をいれてまわり、呼ばれたら会計をする。中々の業務量だが時給はそれほど高くなく、陽向はふとこのバイトより割のいいバイトを探したほうがいいのではないかと思うこともあった。
「あの……」
会計をしながら意識が飛んでいた陽向は客に呼び止められ、意識を浮上させる。目の前の女子大生ぽい客は三人で会計の前で立ち止まっており、手をモジモジさせている。会計はとっくに終了しているし、まさか打ち間違いでもあったのかと店用のレシートを確認するも、そういった形跡もない。目の前の女性は何の用があるのだろうか。
何も答えない陽向に手をモジモジさせている女性の横にいた友人は話しを聞いてやれとでも言うような期待を込めた視線を送ってくる。会計の前に居座られても迷惑なため、陽向は仕方なく女性に自ら声をかけた。
「どうされました?」
女性は顔を真っ赤にして、しどろもどろになっている。
その姿を励ましている二人の女性も相まって、はたから見たら若い女性がキャーキャー騒いでいる光景そのものだった。
反応ができず固まっている陽向に意を決したのか、手遊びをしていた女性は深呼吸するように息を吸い、目を固く瞑り、大声を出すのかと思いきや消え入りそうな声でぽつりとつぶやいた。
「格好いいって、ずっと思ってて……良ければ、連絡先、とか……」
恐る恐る目を開けた女性と視線がぶつかる。上目遣いで手は胸の前で組まれ、頬は緊張からか赤く染まり、唇は淡いピンク色のリップが塗られていた。
その姿に背筋が震えた。
別にこの女性に何かされたわけでもない、むしろ好意を寄せられたのだ。悪い意味では決してない。しかし陽向の中に生まれた感情は “嫌悪” だった。
目の前の女性が媚びてくる様子が気味が悪く、不快で、おぞましく、未知の生き物に見えた。今すぐにでも突き飛ばして逃げてしまいたい、早く消えてほしい、関わりたくない。そんな衝動に駆られた。
そう思っているのに、口は震え、心臓がうるさく、焦点が定まらない。断りの一つも入れることができない。なぜ、どうして ―
「だーめですぅ!まどかの彼氏だもーん!」
会計で腕を絡めてきたのは、すでに退勤しているまどかで、反射的にその腕を振り払った。店内もこの様子に視線が集まっており、あまりの居心地の悪さに陽向は解決策を見つけられず、黙って俯くしかない。しかしのぞき込んだまどかが演技をしろとでも言うようにサインを出して、手に指を絡めてくる。
その行為に、先ほどと同じ吐気が襲った。
しかし目の前の女性客はまどかの言葉を信じたのか泣きそうな顔を浮かべ、頭を下げて走って行ってしまった。友人の女性客はこちらに非があるかのように舌打ちをして、後を追う。店内がざわつく中、固まってしまった陽向から離れたまどかは悪戯が成功した子供のように笑った。
「あのおばさんたち、今から残念会かな~」
相手を煽る言い方を注意することもできず、こみ上げる吐気を手で覆い、陽向はまどかを突き飛ばすように振り払いトイレに駆け込んだ。
***
「陽向、お前大丈夫か?」
トイレから出たときは、時計の短針が十一を回っていた。自分のシフト終了の時間になっており、先輩が荷物を渡してくれる。
「あとはやっとくから、もう帰れ。明日はシフト入ってねえだろ。ゆっくり休めよ」
肩を叩かれて、小さく頷いた陽向はリュックを背負い、会釈をしてカフェの扉を開けた。
「先輩、待ってたよ~」
やっと家に帰れると思った陽向の前に現れたのはまどかだった。近くのコンビニに行っていたのだろう紙パックのジュースを飲みながら、まどかは陽向がカフェから出てきたのを見て立ち上がる。
先ほどの陽向を見ていてもまどかは動揺している様子もなく、陽向の汗をタオルで拭ってくる。その行為にすら嫌悪感が沸き、一歩後ろに下がった陽向を見て、まどかは笑う。
「まさ先輩に肩叩かれるのは良くて私は駄目なの?」
「は?何言ってんのお前」
まどかが陽向の何を知っているかは分からない。しかしまどかは陽向を試すような事ばかり口にする。先ほどのむかつきが再熱するように腹を焦がし、居心地の悪さに陽向は舌打ちをした。
そんな陽向を見ても、まどかは笑みを絶やさないままだった。
「先輩、私の大事な話、聞いてくれる?」
「嫌だ。きっと碌なことじゃない」
その予感は当たっている気がした。まどかが陽向にいい状況をもたらすはずもない、そんなこと、今までの経験から分かっていたことだった。しかしまどかは引き下がらず、陽向の手を掴む。
「放せ!!」
思わず大声が出た陽向がまどかの腕を振り払い、通行人は立ち止まって二人に視線を向ける。まるで男女の喧嘩が始まるのではないかと言う好機の視線にさらされ、陽向は逃げるように背中を向けた。しかしその足はまどかの一言によって縫い付けられたように動かなくなった。
「先輩、ガラスの靴……覚えてます?」
まどかの一言で陽向の足が止まる。その言葉には聞き覚えがあった。
振り返った先にいるまどかの顔は街灯と店の明かりが照らしてハッキリと見えた。この目を、陽向は知っている。この表情をする女を、陽向は覚えている。
急にまどかが恐ろしい存在に感じ、自分には逆らえないと言う恐怖すら感じる。ゆっくりと近づいてくるまどかに抵抗することもできず、再び伸ばされた手は陽向の指に絡みつく。
「先輩、お話、しよ」
その指が、まるで蜘蛛の糸のように感じた。
***
いませんようにいませんようにいませんように。
何度も心の中で祈り、携帯に何度連絡しても相手は反応してくれない。送ったメッセージも既読がつかず、陽向は焦燥感に襲われていた。もし、扉を開けた先に彼がいたらどうしよう。まどかを見られたらどうしよう。そんな恐怖が頭をめぐり、足がもつれ、いつものように歩けない。普段なら最寄り駅から十分も歩けばつくはずのアパートに十七分も費やした。
扉から光が漏れておらず、陽向のアパートには誰もいないことがわかり、心が軽くなった。
鍵を差し込みドアを開けると、自分より先にまどかが中に入っていく。
「先輩の部屋に初上陸しました~!まどか隊員、入りま~す!」
まるで軍隊のような言い回しをして、まどかは靴を脱いでリビングに入っていく。今まで湊以外の人間を入れたことのない陽向は、まどかが自分の部屋にいることの居心地の悪さに顔をしかめて後に続く。
まどかはベッドに腰掛けて、部屋の中をマジマジと観察する。
「降りろよ。ベッドにいきなり座るとか非常識だろ」
「だってここソファとかないもん。座るとこないじゃん。あ、この座椅子に座っていい?」
ベッドに居座られるよりマシだ。
座椅子を差し出せば、まどかはベッドから移動し、陽向が代わりにベッドに腰掛けた。さっさと話しを聞いて、まどかを追い出したい。その思考しかなかったが、ふと不思議に思ったことがあった。
「お前、十八時までって言ってなかったか?」
まどかは門限が十八時と言っていた。時刻はとっくに日をまたいでおり、どう考えても高校生が家に帰る時間ではなくなっていた。まどかはコンビニで買ったお菓子の袋を開けて食べながら手をひらひら振った。
「いいのいいの~別にいいの~。それより先輩、まどかね~今日は先輩の家に泊まりま~す!」
「……は!?」
時間をたっぷりかけて反応した陽向に満足したまどかがけらけら笑い、陽向の太ももに手をのせる。その動作がバイトの先輩後輩と違うかけ離れた空気を察して、陽向はまどかの手を掴み引き離す。
「帰れ。送る気ねえからな」
「帰らないよ。まどか、先輩をゲットできるまで絶対に帰らない」
ヒクリと口角が動く。まどかの露骨なアピールは陽向にも勿論届いており、嫌悪感で顔が歪むのを感じる。早くこの女をこの家から追い出せ。頭が警鐘を鳴らしている。この女と一緒にいるのは危険だ、と。なのになぜ、まどかを乱暴に引きはがせないのか。
「先輩って、そんな力弱かった?」
いつの間にか陽向の手から逃れたまどかがベッドに乗り上げてくる。そのまま肩に手を置かれ押し倒された陽向は抵抗しようと試みたが、その行動は何の意味もなさなかった。体が金縛りにあったように動かない。目をそらすことすらできず、陽向は自分に馬乗りになるまどかを見つめる。その額には汗がにじんだ。
まどかは笑った。目を細め、口元は弧をえがく。頬はわずかに上気し、唇に塗られた濃いピンクのリップが怪しく光る。
「先輩、私の物になって、ね?」
そのまま、頬を手で挟まれ、まどかの唇が陽向の唇に重なる。必死でもがく陽向の腕は空しく宙をかき、まどかの背中に持って行って引き離そうとしても、まどかが陽向の上から動くことはなかった。
流石に舌を入れるのは噛まれると思ったのか、まどかは唇をはなし、ニヤリと笑う。まどかの下にいる陽向はかわいそうなほどに怯え、顔色は悪く、全身から汗を流していた。
「先輩、可愛い……食べちゃいたい」
その一言を放った瞬間、陽向は口元を抑え蹲る。何とか耐えようとしたが、自分から香るまどかの匂いと、口に着いた赤いリップに耐えきれず、陽向はベッドの上で吐いた。泣きながら吐き気と戦う陽向に、まどかの表情が嬉々として輝いて行く。
「先輩、ねえ大好き」
その手が服に伸びてシャツのボタンを一つずつ外していく。
そこから先は陽向にとって悪夢の時間だった。一分が果てしなく長く感じた。なぜ、自分がこんな目に遭っているかもわからず、自分の上で全裸で腰を振る女を殺してしまいたいほどの殺意にかられる。
しかし全身は縛られたように動かせず、まどかの動きに合わせて反応する体も、何もかもが最悪だった。
陽向は、その行為が終わるまでの間、ずっと泣きながら謝っていた。