最終回その10「邂逅」
今回もハッピーエンドです。
読者さんのリクエストで出来上がった内容になっています。
タイトルは「眠るみつばち」というサイトの「邂逅」という曲の曲名を使わせていただきました。
彼女は彼にメールを送った。
明日Y駅前で待っていると。
明日は彼女の誕生日。
世界で一番愛する人に祝ってもらいたい日。
もうそんなに嬉しいという歳でもなかったけれど、それでもやはり誕生日となると心がわくわくしてくる。
彼女は明日着ていく白いワンピースを用意するために立ちあがった。
明くる日、ベッドルームの窓にかけられたカーテンの隙間から朝陽が差し込み、彼女は目覚めた。
あまり気持ちのいい目覚めではなかった。
何か嫌な夢を見たような気がする。
あの悪意の塊のメールをもらった時のような、そんなどす黒い物が心の底で渦巻いている。
今日は彼に逢うのに。
誕生日なのに。
なんて最悪な朝。
彼女はそう思いつつ、重く感じる身体を起こした。
寝巻きのままリビングに行ってみるが、やはり夫は昨夜も帰って来てはいなかった。
それもそのはず、夫は帰る時には必ず連絡を入れてくる。
昨日はそれがなかったので、帰っては来ないだろうということは彼女にはわかっていた。
だが───
「それでも、帰って来て欲しかった……」
夫に止めて欲しかったのかもしれない、と彼女は思う。
しかし、その気持ちは夫には届かなかった。
もう遅い。
彼女はひとつため息をつくとリビングを後にした。
ベッドルームに戻り白いワンピースに着替える。
鏡台に座り、ふわりとした肩までの髪を丁寧にブラッシングし整えた。
「………」
ふと、鏡に映る背後のベッドが目に入った。
それはダブルベッドで、結婚した時に自分たちの共通の友達が家具屋だったということもあってそこで購入したものだった。
彼女はあまり大きな家具は必要ないと思っていたのだが、夫はいつまでも彼女と一緒に寝床を共にしたいと言って聞かず、しぶしぶ買ったのだ。
歳を取っていけば、いずれは寝る部屋も別々になったりして、それぞれのベッド、あるいは布団で寝るようになるかもしれないのに───彼女はそう思ったのだが。
「俺たちは歳取ってもずーっとラブラブだもん」
夫は子供のようににっこり笑うとそう言った。
彼女は夫のそういうところが大好きだった。
「…………」
彼女は無理やり視線をベッドから引き剥がし、立ちあがる。
鏡台の上に昨日判子を押して用意しておいた離婚届を置いた。
それは丁寧に折りたたんであり、一見してそれとはわからない感じであった。
それをじっと見つめてから、彼女は左薬指にはめていた銀の指輪を外した。
折りたたんだ紙の上にそっと置く。
そして彼女は家を出た。
彼女は団地から大通りに出て、タクシーを止めようと思った。
だが、それをやめにし、彼女はゆっくりと歩き出した。
今日はそれほど暑くない。
彼女は薄いピンク色の日傘を差し、白いワンピースに合う籐風のショルダーバッグを肩にかけ歩いていた。
彼女はゆらゆら揺れるそのバッグを見つめた。
これは確か一年目の結婚記念日に夫が買ってくれたものだった。
「変ね。そんなこと今まで忘れていたわ」
彼女は呟いた。
どうして今日という日に自分はこのバッグを選んでしまったのだろう。
「そういえば……」
彼女は再び思った。
このピンクの日傘は、身体があまり丈夫ではない彼女のために「夏はこれを差して出かけるんだぞ」と言われて買ってくれたものではなかったか。
「…………」
カヲルへのメールに、夫は自分のことをまったく考えてくれないということを書いたけれど。
本当にどうしたのだろう、今日は次から次へと忘れていた記憶が思い出されていく。
彼女は不安を感じながら、それでもカヲルに逢えば、そんなことはすべて忘れられると半ば強制的に頭を振って夫のことを頭から追い出そうとした。
夏の日の午前は静かに過ぎていく。
Y駅にはそれから30分ほどで辿りついた。
時間は10時過ぎ。
平日ということもあって、あまり駅前には人ごみがあるというわけではなかった。
ただ、スーツ姿のサラリーマンや制服姿の高校生らしき子供たちが時々通る程度だった。
「…………」
待ち合わせているSLのオブジェの前に彼女は立ち、そんな人々をぼーっと見つめる。
カップルだろうか、制服姿の男女が通り過ぎていった。
「やだー、セイジったらー」
「なんだよー、お前だって」
幸せそうに笑い合いながら向こうへと行ってしまう彼らを、彼女は魅せられたように目で追った。
「私たちもあんな日があった……」
彼女は思い出していた。
友達たちの集まり。
そこで夫に見初められ。
猛然とアタックしてきたのは夫だった。
彼女はどちらかというと恥ずかしがり屋で。
それでも、それまでに好きな人もけっこうできた。
だが、どうしても気持ちを伝えることができずに儚く消えていった恋の花。
夫に想いを打ち明けられた時、本当は他に仄かに恋心を抱いていた人が職場にいたのだが。
いつものように、まったく彼女は想いを告げられず、しかも相手はまったく彼女を恋愛の対象に見ていなかったということもあり、彼女もうまくいくなどということは考えてもいなかった。
(あの人は、私のようなのはタイプじゃないって言ってた)
その好きだった人は、自分に信念を持ち、自分の気持ちを大らかに表現できる強い女性が好みだと、いつだったかの飲み会のときに言っていたのだ。
スラリと背が高く、さらさらとした茶髪ヘアーがとても良く似合う、すっきりとした目をした人だった。
その人は銀縁の眼鏡をかけていて、だから、彼女も銀縁をかけている人を見るとドキリとするようになったものだった。それは今でも変らなかった。
「仕事を辞めてしまってから、もうずいぶんと経つわ。あの人ももう結婚して幸せに暮らしているのでしょうね……」
そう呟いたとき。
「あの…しもらーさんですか?」
「!!」
背後から男の声が。
彼女はドキッとしてから、おそるおそる振り返った。
そして───
「あ…あなたが…カヲルさん……?」
彼女は再び驚いた。
心臓が止まってしまうかと思った。
「あなたは……」
「……」
彼女は驚愕の目を相手に向けた。
だが、相手の男性は苦笑しつつ彼女を見つめているだけ。
(だって…だって…そんな……そんなことが?)
彼女はあまりにも驚いてしまったため、手に持っていた日傘を落としてしまっていた。
すると、すぐにその男性はそれを拾い、彼女に手渡した。
「ごめん、黙ってて」
「あ…ありがとう……まさか、あなたがカヲルさんだったなんて……って、どうしてあなたは知って…あ、そっか…」
彼には本名や住所を教えたんだった。
ああ、だから「驚かないで」と言っていたのか。
彼女の目には一人の背の高い青年の姿が映っていた。
(変っていない……)
少し短くなったが、茶髪のさらさらヘアーはそのままだし、銀縁眼鏡もあのときと同じ。
眼鏡の奥の目も、あのころとまったく変らず優しい───が。
(…………)
何だろう、と彼女は思った。
彼の目は確かに変らず優しい。
けれど、じっと見つめていると、悲しい気持ちになってくる。
以前はこんなこと思ったことなんかなかったのに。
「立ち話もなんだから、あそこのサテンでも入らないか?」
彼はにっこり笑うとそう言ってきた。
彼女も頷き、ふたりはそこを移動した。
「本当にお久しぶり。君が結婚してから……ああ、もう3年が経つんだ、早いもんだなあ」
「…………」
彼女は黙ったままで、彼の言うことを聞いているだけだった。
だが、ちらちらと彼を見ると、とても優しそうに見つめている彼の目と合って、真っ赤になってうつむいてしまった。
「変ってないね、君」
彼はふっと表情を変えて言葉を続けた。
その表情は何となく悲しそうだった。
「僕ね、君のことけっこう好きだったんだよ」
「え…?」
彼女はびっくりした顔を彼に向けた。
思わず言う。
「だ…だって、あなた、引っ込み思案な女は嫌いって……」
「そうだね。確かに僕はウジウジしたのは嫌いだった。だけどね、なんでか君のこと気になってたことは自分でも気付いてた。だから、君に告白しようとしたら、横からさらわれてしまって……」
「…………」
彼女はどう答えてよいかわからなかった。
自分たちは両想いだったのだと今更言われても、どうしようもないこと。
確かにあの頃は好きだった。
けれど、今は純粋にあのときの気持ちを抱いているわけではない。
「こんなこと今更言ってもしょうがないんだけどね」
そんな彼女の気持ちが伝わったのか、彼はそう言った。
「ごめん。でも、いい機会だから話してしまった」
「ううん……いいわ。私も聞けて嬉しかった」
それは嘘。
そう言わないと、なぜか惨めな気持ちになるから。
「…………」
すると、なぜか彼は彼女をじっと見つめた。
何となく居心地が悪い気持ちになる彼女。
どうしてそんなに見つめるの──と。
「それで、旦那さんとはどうするの?」
彼がいきなり核心をついてきた。
彼女は言葉が出ない。
「実はね、僕は君の離婚を止めにきたんだ」
「え……?」
彼女は驚いて顔を上げた。
彼は真剣な目をしている。
そのまま彼は続ける。
「メールや掲示板でのやり取りは嘘だったとは思って欲しくない。あれはあれで僕の本当の気持ちだ。掲示板での君の書きこみを見て興味を持ったのも本当のことだし、ホームページの日記を読んだりして最初は僕の好みだったということでだんだんと惹かれていったんだ。けれど、メールなどを長い間交わしていくうちにだんだんと君に抱いていたイメージが変っていった。ただ、それは悪いほうではなく、なんというか、理解していくことの嬉しさともいうべきものだったな」
「理解していく……」
彼女は呟いた。
それを受けて彼はさらに続ける。
「そう。理解だ。実はね、僕は君が仕事を辞めてしまったあと、ちょっと自暴自棄になった時があってね。そんなにも君のことを想っていたのかと自分でも驚いたが。そのせいで一人の女の子を追い詰めることになってしまったんだ」
「追い詰める?」
「そう。その子は出向でやってきた子だった。君と同じように内向的な性格で、君によく似てたな。顔がっていうわけじゃなく持っている雰囲気がね。別に顔がマズかったわけじゃない。けっこうかわいい子だったよ。でも、僕は君に失恋したあとだったし、少し荒れていたということもあって、彼女にはひどいことをしたと思う。僕を好きになってくれて、それで告白してきたんだよ。あの性格で告白するのはとても勇気がいっただろうにね。それなのに僕は手ひどくフってしまったんだ」
彼はその時のことを思い出したのか、顔を歪ませた。
「今ではよく覚えていない、彼女に何て言ったのか。毎晩ひどく酔っていたからな。もしかしたら無理やり彼女に何かしたのかもしれないし……」
「何かって…?」
彼女は何となく想像ができるなと思いつつ、ついそう聞いた。
案の定、彼はあまり言いたくない感じで、
「したっていうか……やりかけたんだと思う……その…襲うとか……でも、たぶんひどく抵抗されて、事無きを得たと思うんだけど……僕はよく覚えてなくて……ただ、そのあと彼女は自殺未遂起こして、命には別状なかったけど今は実家に帰って療養しているということだよ」
「…………」
うなだれてしまった彼を見つめる彼女。
それはとても痛々しく、彼女の胸は潰れそうだった。
彼のあの文章が心に浮かんだ。
それは彼が掲示板に書いていたもので「虜」というタイトルがつけられていた。
そうだよ
知ってて書いたんじゃないか
だが悪い気はしなかっただろ
僕はあんな男になりたい
もう二度と失いたくないからね
繋がっているためなら
僕はなりふりかまわず引きとめようとするよ
僕は言葉で君を虜にする
自分の力を信じて
君を引き止めるからね
そして、それが以下の詩。
扉の前で迷う僕
君は泣いている
入ろうか
どうしようか
そこで僕は
扉をノックした
「何しに来たの」
と君は聞く
用などない
僕は君が心配なんだ
そんな僕に
笑いかける君
僕は君の笑顔で
少し安心する
君とともにいつまでも
歩いて行けたらいいのにね
僕は願っているよ
いつもね
そうか。
あれは私のことだったのか───と彼女は思った。
虜にする相手は「しもらー」で、けれど失ってしまったものは「私」だったんだ。
「なんてかわいそう……」
思わず呟く彼女。
だが、彼は顔を上げ、
「いいんだよ、君がそう言う必要はない」
すでに彼の顔から苦悶の表情は抜け、不思議なほど清々しい表情になっていた。
「僕はすべての人に笑って幸せに生きて欲しいと思う。けれど、僕はそんなに強くもないし優しいわけでもない。確かに、君が旦那さんに理不尽なことをされているなら、もちろん君のことは好きだからどうにかしてあげたいと思うよ。けれど、本当に彼は君のことを思っていないのだろうか。僕は一度だけ結婚式の時に彼に会ったことがあるが、こいつなら君を幸せにできるなって思ったよ。もう一度彼と話し合ってみないか? それでもどうしようもなかったら僕のところにおいで」
(ああ……)
彼女は眩暈がしてきそうだった。
この人は間違いなくカヲルだ。
こんなに思い描いていた通りのカヲルはいないとまで思った。
なんて優しい。
なんて慈悲深い。
この人のことを好きだったことを誇りに思う。
けれど───
彼女の頭に浮かんだのは、やはり夫の顔だった。
「ありがとう。私戻ります」
彼女は立ち上がった。
「きっと、あなたのところには戻らないと思う」
「ああ」
彼は優しく微笑むと頷いた。
そして、彼女は彼を置いたまま店を出た。一度も振り返ることなく。
それでも彼女は、真っ直ぐに家に帰ることができず、しばらく街をあてもなくさ迷っていた。
そして、ようやく決心して帰ってみるとすっかり日は暮れてしまっていた。
通りから見える団地の窓には明かりはついていないようだった。
やはり夫はまだ帰っていないらしい。
それならそれでいいと思った。
あの離婚届と指輪を見られていないと思うから。
彼女は鍵を開け、中に入った。
入って、すぐのところにリビングがあるのだが、そこも真っ暗だった。
「?」
だが、彼女は不審に思った。
リビングにはカーテンはしていなかったはず。
カーテンをしていなかったら、外の街頭で仄かに室内が見えるはずなのだが。
と、彼女がそう思った瞬間。
「お帰り」
リビングの明かりがパッとつき、彼女の夫が満面の笑みで彼女を出迎えた。
「あなた……」
彼女はびっくりし、呆然とした。
見るとリビングのテーブルには大きなケーキが置かれてあり、彼が作ったのであろう料理の数々が並べられ、シャンパンとグラスが置かれてあった。
そして、夫は傍らに置いてあった大きな花束を抱え、入り口で突っ立ったままの彼女に近づき、その花束を渡した。
「…………」
彼女は渡された花束に目をやった。
彼女の誕生花である白いユリの花だった。
「誕生日おめでとう」
彼女は顔を上げた。
二重瞼のはっきりとした大きな目。
黒くて少しウェーブがかかっている髪。
彫りの深い、見ようによっては外人っぽい目鼻立ち。
視力がとてもいいので、眼鏡を夫はかけたことがない。
何もかもカヲルとは違う。
けれど───
彼女はもう止められなかった。
あとからあとから涙が溢れてきて、抱えたユリの花に涙の粒が落ちていく。
「…………」
だが、夫は優しく見つめているだけで何も言わない。
「あなた、ああ、あなた!!」
彼女は花束を足元に落とすと、夫の胸に飛び込んでいった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
彼女はそう言いながら泣きじゃくる。
そんな彼女を夫は抱きしめ、静かに優しく彼女の頭をまるで子供のように撫ぜていた。
「淋しい思いをさせてごめんな」
まだ泣きじゃくる彼女の耳に、夫の快い声が聞こえる。
すると。
「でももう大丈夫。お前に淋しい思いはさせない。辛い思いはさせない」
少し落ちついてきた彼女。
泣くのをやめて彼の胸でじっと言葉を待つ。
「仕事は部署を変ったよ。定時に行って帰ることができるようになった。それから、兄貴を説得した。こっちに戻ってきて父さんたちと一緒に暮らしてくれることになった。だから、お前が俺の親の面倒見ることはない。これで少しは心の負担がなくなるだろう?」
「…………」
彼女は顔を上げ、信じられないといった表情で夫の顔を見つめた。
「俺はお前を愛している」
夫は続ける。
「きっとお前が俺を愛する以上に、俺はお前を愛していると思う。いろいろお前には辛い思いをさせたが、これからはもっと本音でぶつかっていこうよ。言いたいことがあったら遠慮なく言えよ。俺も言うからさ。それできっと喧嘩することもあるだろうけど、俺たちだったらすぐに仲直りしてうまくやっていけると思う。そう思わないか?」
彼女は頷いた。
「ええ、ええ……思う、思うわ」
彼女は再び泣き出すと、彼の胸にもう一度顔を埋めた。
「あなた、愛しているわ、すごく、愛している」
それから。
しばらくして落ちついてから、彼女は服を着替えるためにベッドルームに入っていった。
見ると鏡台の上には朝置いたままの離婚届の紙と指輪が。
動かした形跡がなかったので、もしかしたら夫はこれを見ていないのかもしれない。
そう彼女は思った。
ほっとする彼女。
彼女はそれをビリビリと破るとごみ箱に捨てた。
そして、部屋着に着替えると、指輪をはめた。
ふと思い立って彼女はノートパソコンの電源を入れメールチェックをした。
すると、やはりカヲルからメールが届いていた。
それを複雑な気持ちで開く彼女。
そこには───
君の未来に幸あれ
僕も決心するよ
彼女の元に行くことにした
僕を許してくれるか
それはわからないが
今度こそ
僕は逃げない
僕のために
祈っててくれるかい?
今度逢う時は
楽しい邂逅にしたいね
邂逅───
本当にそうだなと彼女は思った。
巡り巡って
私たちは出逢った
人と人の巡り合いとは
偶然のようでもあり
また
必然のようでもある
ただ
言えることは
人と人との出逢いは
それがどんなものであれ
素晴らしいことなんだと
私たちは
永久に巡り合う
何かを成すため
何も成さぬため
出逢いとは
そういうもの
出逢いとは
そういうものなんだ
そうして彼女はパソコンの電源を切り、愛する夫の待つリビングへと向かった。
あとには、電源を切られたパソコンが一台、主のいなくなった部屋でぽつんと淋しそうにしているばかりであった。




