最終回その7「summer sky」
今回はハッピーエンドです。
タイトルは「秋姫」のka-koさまのピアノ曲のタイトルを使わせていただきました。
ありがとうございました。
彼はパソコンの電源を切った。
狭いアパートの窓から朝の光が差している。
白いレースのカーテンが引かれている。
六畳一間でTVも置かれていない、薄汚れた部屋ではあるが、室内はキチンと整頓されている。
レースのカーテンも真新しいものではなかったが、それは何度も洗濯がされたらしく、くたびれてはいたけれど清潔そうな白色だった。
「今日は天気が良さそうだ」
彼はポツリと呟いた。
その言葉の通り、窓から見える空はすっきりと青く、今日一日が真夏の空になることを教えていた。
「青いワンピースを着てくると言っていたな」
彼はじっと窓の外に広がる青空を見つめた。
それからノロノロと立ち上がると彼女に出会うため、身支度を始めた。
同じ頃、彼女は自宅のリビングで離婚届に判を押していた。
彼女はほっそりとした身体に青いAラインのワンピースを身につけて、肩までの髪をカールさせ可憐な感じがまだ少女のようだった。
彼女は泣いていた。
それもそのはず、昨夜久々に帰って来た夫が、彼女がもっとも聞きたくなかった言葉を言ったからだ。
「君ならもっとうまくやってくれると思った」
いつものように、彼女が姑に投げつけられた心無い言葉を涙ながらに訴えたのを、夫はその一言で片付けてしまったからだ。
彼女は悔しくて、悲しくて───確かに完璧にやってたわけではないけれど、でも、何もそんなふうに言わなくてもいいじゃないかとそう思った。
(私はいったい何?)
(あなたは私を愛してくれてたわけじゃないの?)
(私はあなたの都合のいい家政婦じゃない)
彼女だってわかってはいた。
結婚するということは、愛する人だけを見ているわけにはいかないことを。
結婚とは確かに当人同士が重要ではあるけれど、でもやはり両方には親もいれば親族もいる。
天蓋孤独ならいざ知らず、そういうしがらみからは逃れるのは難しいと。
だが、彼女は社交的でもなかったし、どちらかというと引っ込み思案で自分の殻に閉じこもりがち。
そういう彼女の性格を熟知していたら、結婚しようなどと思わなかったばす。
それとも、最初はそれでも彼女のことを愛していたから気にならなかったのか。
「私のことをちっとも理解してくれてなかったわけね」
彼女は初めて思っていたことを夫にぶちまけた。
自分がどれほどさみしかったか。
姑の言葉や態度にどれほど傷つけられてきたか。
だが───
「俺だって仕事で傷つけられているさ。だけど、家族のために頑張っている。自分ばかりがそうなんだって思わないでくれ。君には家庭のこと、親のことを全面的に頼んでいた。それに、同じ屋根の下では気疲れするだろうからと、わざわざマンションも借りてやっただろう? いったい何が不満なんだ」
(そうじゃない、そんなことじゃない)
彼女はただ首を振るだけで、もう何も言い返す気力もなかった。
そして、再び出かけようとする夫に、
「どこへ行くの?」
「今晩は実家に泊まる。君も頭を冷やせ」
「あなた!」
彼女はそれから一晩中リビングのソファに座っていた。
途中真夜中にノートパソコンの電源をつけ、メールを一通送った。
朝───
鳥のさえずりが聞こえ出し、レース越しに朝陽が差し込んでくる頃、彼女はやっとソファから立ち上がり、カーテンを開け窓を開いた。
空は青かった。
今日一日が夏空になることを彼女に教えていた。
泣きはらした顔ではあったが、今や彼女の顔は晴れ晴れとしていた。
うっすらと微笑みさえ浮かんでいる。
それでも、やはり離婚届に判を押す段階になると、どうしても涙をとめることはできなかった。
だが、ようやく決心し判を押した。
置手紙を一緒に起き、彼女はハンドバックをひとつ手に持つと静かにリビングを後にした。
置手紙には、
『もうやっていけません。落ちついたら連絡をしますので、それまで私の荷物を置かせてください。さようなら』
──ゴトゴトゴトゴト……
「……………」
彼は汽車に揺られて車内から流れ行く風景を見つめていた。
汽車は冷房がきいていたが、彼は汗を流していた。
ポケットからハンカチを取り出し、額や首の汗を拭う。
(本当によかったのだろうか)
彼は不安でしかたなかった。
文字だけの付き合いで、相手の顔も見えなかったが、だが、彼女のことをどうしようもなく好きになってしまった。
彼女が結婚していることが許せなくて、幸い彼女も夫に不満を持っていたということで。
それで相手を離婚まで追い詰めてしまった───いや、追い詰めたというわけではない。彼は思う。
(僕は確かに彼女を心から愛している)
たとえ、彼女が老婆だとしても、醜女だとしても、必ず彼女を愛することができるという自信がある。
彼女の文章には彼女の内面がちゃんと描かれていた。
確かに卑怯だ。
確かに馬鹿だ。
確かに浅はかだ。
確かに独り善がりだ。
確かに───
(けれど、どうしようもなく愛しい)
その気持ちは止められない。
だが───
彼にはひとつだけ不安があった。
果たして彼女も自分と同じ気持ちを抱いてくれているだろうかと。
それが心配な彼であった。
昼近くの某駅前。
彼女は青いワンピースを着て立っていた。
そこへ近づいてくる一人の人物が。
彼女は気付かない。
「あの……」
その人物は彼女に声をかけた。
声が震えている。
彼女は振り返った。
「…………カヲルさん……?」
「はい……そうです…………」
「……………」
彼女の目に映るその人は───
お世辞にもハンサムとは言えない人物だった。
彼は彼女より背が低かった。
158センチの彼女より10センチ近くは低かっただろう。
それと、かなり太めだった。
夏であるということもあって、汗があとからあとから流れてくるのを、白いハンカチでせわしくなく拭き取っていた。そのハンカチはもうずいぶんと汗を吸ってしまったらしく、だいぶくたびれていた。
(ああ、だから夏が嫌いって言っていたのね)
彼女はなぜかそんなことを考えていた。
そして、そう思ったことで心の中で苦笑した。
「驚いたでしょう」
「え?」
突然彼が小さな声でそう言った。
「僕の書いていた文章と姿のギャップ………」
「ああ……」
彼女はそう返事してから、
「ここは暑いでしょうから、ちょっとそこの喫茶店にでも入りませんか?」
彼女の言葉に二人はそこから移動した。
喫茶店で向かい合って座る二人。
目の前にはふたつアイスコーヒーが置かれている。
「…………」
「…………」
しばらく沈黙が流れた。
昼前ということもあって、店内は混んでいた。
だが、二人のテーブルだけはまるでそこだけが次元が違う感じであった。
「あの…」
「えっと…」
同時に二人は言葉を発した。
「どうぞ……」
彼女は彼に譲った。
彼は少し考えてから、
「ネットっていいよね」
ゆっくりと喋り出す。
「僕は姿がこんな感じだし、昔からよく周りの者から苛められて生きてきた。家族さえも疎ましかったらしくて、優しくされた記憶なんてなかった。確かに運動嫌いではあるし、あまり俊敏に動くことなんてできないから、どうしても体型も変るなんてことできなかったしね。それに人間自体にもう愛想をつかせていたところもあるんで、なかなかこの年になっても会社に就職するなんてことできなくて」
「…………」
彼女は静かに彼の言葉を聞いている。
「実はまだフラフラしてて、アルバイト生活をしている。人間関係がとてもわずらわしいから」
「でも、ネットで私に声をかけてくれたわ」
「…………」
彼は黙り込んだ。
「私、自分にとても自信がなかったから、だから、とても親身になって話を聞いてくれたあなたにとても感謝している」
「感謝……」
彼は呟いた。
──カラン……
なぜだろう。
周囲の音がうるさかったはずなのに。
聞こえるはずがないのに。
目の前の氷の動く音がした───と彼は思った。
「あのね……」
彼女は言葉を続ける。
「あなたも私がものすごいブスだったらって思わなかった?」
「え…?」
「あなた、そんなにぶさいくじゃないわよ」
「………」
「あ、もしかして自分の姿を見た私が、手のひら返したような態度取ると思ったの?」
「………」
彼女はふっと表情を柔らかくすると、
「私の大好きな作家が言ってたんだけど、文章って驚くほど内面が現れるものなんですって。どんなに隠して綴ったとしても、ちゃんと文章にその人の本質が出てしまうものなんだそうよ。私、やっぱりあなたの文章って好きだわ。ネットのお友達もみんなそう言ってた。ただ、あなたの持つ独特な雰囲気が何と言うか近寄り難くて、それでみんななかなか話しかけにくいって言ってたけれど。それは、やっぱりあなたの心に、人を信じきれないところがあるからなのかもしれないわね」
そう言いつつ、彼女は探るように彼の顔を覗きこんできた。
「でも、私のことは信じてくれたじゃない。あなたって、そんなに人間が嫌いってわけじゃないと思う、ね、そうでしょ?」
「…………」
彼は黙り込んでしまった。
彼の心の中は戸惑いと嬉しさでぐしゃぐしゃになり、何だか悪酔いしそうな気分になっていた。
「私ね」
すると、彼女の声色が少し変った。
大事なことを話すという感じに。
「私ね、とうとう今朝離婚届けに判押して、書置きして出てきちゃった」
「えっ?」
彼は驚いて顔を上げた。
さばさばとした表情の彼女の顔がそこにはあった。
「私、あなたを愛しているの。現実のあなたを見て、ますますそう感じた。あなたなら私を幸せにしてくれる……ううん、私もあなたを幸せにしてあげることができるって」
「……しかし……僕は定職もなくて……君を養って行くことなんか……」
「あら、私も働くわよ」
彼女はにっこり微笑むと、立ち上がった。
彼は、そんな彼女をオロオロと見上げるばかり。
「さあ、あなたの家に連れてってちょうだい」
「……六畳一間なんだよ……狭くて君の住めるところなんて……」
「あら、十分よ。ちゃんと屋根がついてるだけマシだわ」
「君の布団だってないし……」
「一緒に寝ればいいじゃない」
「!!」
店内がシンとしたのを彼は感じた。
そっと周りを見渡すと、店内の客や店員がじっと彼らを見つめていた。
好奇心に満ちた目であった。
すると───
「私たち結婚するんです」
彼女が誇らしげにそう言った。
あまりにも晴れ晴れとしたその言い方に、一瞬呆気に取られた人々は、次の瞬間、
「おー、それはめでたい!」
「お幸せにねー」
「このー、こんなかわいい人捕まえて、俺と代われー」
「ヒューヒュー」
さかんにヤジが飛ぶ。
そんな中、彼女は硬直してしまった彼の手を取ると、さっさとお金を払って喫茶店を出た。
「あ」
すると、店を出てすぐに、彼女が思い出したように鋭い声を上げた。
それを不審に思った彼はうつむいていた顔を上げた。
彼の目に少し非難するような眼差しを向ける彼女が映った。
「あのメールの女」
「あ……」
彼も思わず声を出す。
それを聞きとがめる彼女。
「あの女、いったいどういう関係なの? それをはっきりさせなくちゃって思ってたのよ私」
「えっと……」
彼は冷や汗を流した。
(あれは……)
彼も彼女とだけメル友をしていたわけではなかった。
何人かの女友達とメール交換をしていたのだ。
ほとんどの女は、彼のその独特な雰囲気があまりにも気障だということで、すぐに離れて行ってしまったが、中でも彼女ともう一人の女だけが残ったのだった。
だが、ちょっとしたことで彼女の存在をあの女に漏らしてしまい、そこから始まった嫌がらせメールだったので、多少なりとも罪悪感を感じていたのだ。
「そうだったの……」
それを聞いた彼女は、少し考えてから、
「だったら、私もあなたもアドレス変えてしまいましょう。そうすればあの女ともおさらばだわ」
「…………」
彼は不思議な思いで彼女を見つめた。
こんなにもさばさばとした性格だっただろうか。
あの文章を見てる限りでは、もっとこうなんというか、うまく言えないのだが、うじうじと泣いている───そんな感じがしたのだが。
「…………」
だが、彼はそれを新鮮な発見として嬉しく思った。
やはり実際に逢ってみると違うものだと。
「さあ、どの汽車に乗ればあなたの町まで行けるのかな?」
「あ、そうだ」
今度は彼のほうがあることを思い出した。
彼はポケットから小さな包みを取り出した。
「え? これを私に?」
彼女はそれを受け取り「開けてもいい?」と言ってからその包みを開けた。
「あ……」
中からユリの形をしたプローチが出てきた。
彼は照れくさそうに言った。
「お誕生日おめでとう」
そう言ってからさらに、
「本当は指輪を用意したかったんだが、それくらいしか買えなくてね」
「ありがとう!」
彼女が満面の笑みでそう言った。
その笑顔はとても眩しくて、まるでバックの青空のようだと彼は思った。
まるで彼女が、すっかり真っ青になった青空に溶けてしまったかのようにも思えた。
彼はこれから一生忘れないだろうと思った。
この日の空の青さを。
夏の空。
青く青く、彼女の心のように澄み切った青さの空を。
そして彼は思った。
(彼女のためにもう少し頑張ろう。仕事も、そしてダイエットも。背はどうしようもないけれど)
そんな彼と、いつまでも手を繋いでいる彼女の上で、夏の空はどこまでも青く続いていた。




