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メラバ  作者: 谷兼天慈
39/51

最終回その1「悲しみよ さようなら」

ここまでお読みくださいましてお疲れ様でした。

それでは、最終回その1としまして、手始めに嫌な気分にはならないであろう内容をお届けいたします。


では、ハッピーエンドな最終回をどうぞ。

 ピチョン、ピチョンと水の滴る音がする。

 あたりに反響してエコーがかかり、そこがどうやら浴室であることを告げている。

 浴槽いっぱいに張られた湯───ではないようだ。

 暑い時期とはいえ、湯であれば湯気がたつ。

 蛇口からはちょろちょろと水が流れ出して、浴槽から水が溢れ出している。

 彼女はその浴槽にもたれかかり、左手を水にひたしていた。

 よく見ると浴槽は本来の青っぽい透明な水ではなく、不安をあおり立てるような赤さを見せていた。

 彼女の顔は浴槽の色とはまったく逆で真っ青だった。

 いつからそうしていたのだろう。

 時は夕方近く。

 その日は彼女の誕生日。

 家には誰もいない。

 普通なら、彼女がこの世に生まれたことで、家族が友達が愛する人が、彼女のためにお祝いを祝う素晴らしい日となるはずであるのに、彼女は一人ぽつんと死に行こうとしている。

 何が彼女の上に起きたのか、それは誰にもわからない。

 愛する者に裏切られたのか。

 己の弱い心に負けたのか。

 それとも歌ではないが、世間に負けたのか。

 それを知る者が果たしているのか。

 そして、時間は刻々と過ぎていく。

 このまま彼女は誰にも見つからないまま死んでしまうのだろうか。

 と、そのとき。

──ガチャリ

 玄関の扉が開く音がした。

 誰かが来たようである。

 いや、勝手に扉を開けたということは、訪問者というわけではないだろう。

 それはおそらく彼女の知り合い、もしくは家族。

「ただいま」

 ほら、やはり。

 若い男の声だ。

 彼女の兄弟か、恋人か、あるいは夫か。

 しばらく、パタパタとあちこちの扉を開け、誰かを探しているようだ。

 おそらく彼女を探しているのだろう。

 彼女はここにいる。

 早く見つけなければ取り返しのつかないことに。

 と───

「かおるっ!!」

 浴室の扉が開き、男が叫んだ。彼女の名前を。

「どうしてっ……どうしてこんなことをっ…」

 彼は悲痛な叫びを上げた。




 誰かの声が聞こえる。

 ああ、これはカヲルの声だ。

 いつも私の耳に聞こえている。

 起きているときも寝ているときも、いつもいつも囁きかけてくれてたその声。

 私の愛する人の声。

 愛するあなたの───

 かおるは目を開けた。

 白い天井が見える。

「ここは……」

「お目覚めですか、お姫さま」

「!!」

 驚いて彼女は声の主を見つめた。

 少し青い顔をした面長の男が傍らに座っていた。

 彼女の手をしっかり握り締めて。

 彼はおどけた調子でそう言ったが、半分泣き出しそうな表情をしている。

「…………」

 彼女は掴まれた手に視線を落とした。

 左手首に真っ白い包帯が巻かれている。

「私……」

「大丈夫、もう大丈夫だよ」

「……あなた…?」

 彼は彼女の夫だった。

 涙で目が潤んでいる。

 夫──こんな人だったっけ──と彼女は思った。

 この優しそうな顔をしたこの人が?

(カヲル……)

 思い出した。

 夢の中に出てきたカヲルは、この人だった。

 彼女はだんだんと思い出してきた。

 メール交換をしていたカヲル。

 そのカヲルと夢で何度も逢瀬を重ねた。

 だが、夢の中のカヲルは自分の夫の姿だった。

「よかった…間に合って」

 搾り出すように彼は言った。

「あなた……」

「僕だったんだよ、カヲルは」

「え…?」

 彼女は大きく目を見開いた。

「あなた…が…?」

「最初はわからなかった。けれど、何度か君の悩みを聞いていくうちに、もしやと思ったんだ。何度目かのときに君が本名や住所を教えてくれただろう。それでやっと確信した、しもらーは君だって」

「そ……そんな……」

 だが、彼女はそう思いつつも、本当は心の底ではカヲルは自分の知っている人間ではないかと思っていたところがあったのだ。

 まさか己の夫であるとは考えてもみなかったが。

「君がそんなにも悩んでいたとは思わなかった。精神的にもろいところがあるってわかっていたはずなのに……僕が子供が好きだと言ったことやら、仕事で家に帰れないことなど……すまなかった、本当に。でも信じてくれ、僕は本当に心から君を愛しているんだ、それだけは神にかけて誓える。信じてほしい」

「あの女は?」

「え?」

 彼女の鋭い声にハッとする彼。

「あのメールの女よ。あの女、あなたが好きだって言ってくれたって言ってたわよ。それでも私一人を愛しているって言えるの?」

「違う、違うんだ」

 慌てて彼は叫んだ。

「確かに、君だけじゃなく何人かとメールはやり取りしていたよ。女性だって何人かいた。そして、みんな確かに好きだったさ。だけど、それは友達としての好きであって愛じゃない」

「…………」

 彼女はじっと彼の目を見つめた。

 ああ、この人のこの目が好きだったんだ。

 いつからかこの目を覗きこむことがなくなって、それで不安が増大していった。

 彼のこの目に見つめられ、口づけをかわし、愛を囁かれ、全身で彼の愛を受けとめた──とろけるような時間。

 彼の目を見つめていると、どこか自分の奥深いところが熱くなり、ほてり、しとどになっていくのを感じる。

「うん……それわかる」

「かおる……」

 彼女は静かに語り始めた。

「私もネットでいろんな人に好きって言ってきた。女の人だけじゃなく、男の人にもためらいなく好きって。だって、本当に好きなんだもの。好きで好きでたまらなくって、私も相手に好きになってもらいたくて、それでよけいに熱を入れて好きって言っちゃうの。それだけが私たちの合言葉とでも言うように。だけど、その好きという言葉を何かそれ以上のものと取ってしまう人もいるのよね。それは私も同じことだった。カヲルが私に好きだよって言ってくれて、ああ、この人なら好き以上に愛することができるかも、愛してくれるかもって幻想を抱いてしまったのね」

「かおる……」

「みんなそうなのかしら。逢う前から言葉だけのやり取りで相手を愛することができるなんて思っている人いるのかしら。少なくとも私は愛せるけれど、でも、そうじゃなかったらメールで起きる悲劇的な事件なんて起きるはずないものね。現にいろいろ起きてるんだから、きっと私のように、そしてあの女のように、幻想の愛を信じてしまう者もいるでしょうね」

 彼女は弱々しく笑って、自分の夫を見つめた。

「私、カヲルがあなたで本当によかったと思う。みんながみんな、メールの相手があなたみたいな人だったらいいのにと思うわ」

「かおる」

 手を伸ばしてきた彼女を、彼はしっかりと抱きしめた。

「ああ、よかった。こうやってカヲルに抱きしめてもらいたかったの。夢じゃなく、現実に」

 彼女は彼に強く抱きしめられながら、窓の外に広がる青い空を見つめた。

 雲ひとつない真っ青な空。

 26年前に彼女はこの世に生を受けた。

 その日もこんな風に青く抜けるような空だったという。

 ちょうど梅雨が明けたところで、空は澄み切っていたと。

「私、半分心が壊れかけていたのかもしれない。幻聴が聞こえたり、記憶がふっつりとなくなってたり……いろいろあったわ。でも、私、こうやってまたあなたの愛を感じることで強く生きていけると思う。ずっと愛してね。ずっと」

「もちろんだよ」


 彼の言葉を快く聞きながら、悲しみも辛さもすべて青い空に吸い込まれていくようだ───と彼女は思った。

 夏の空は、青い空は、見つめているだけで心が洗われるようだ。

 すべての不浄なものをその青で洗い流し、清浄なものに変えていく。

 それはあたかも精神を病んでいた者が正常に戻っていくかのように。

 しかし、それは空という自然だけの力ではない。

 その人を愛する人の心が、そして、その人自身の人を愛する心が治癒に手をかしているのだ。

 信じればいい。

 ただ信じれば。

 それだけで人は幸せになれる。

 それだけで人は簡単に悲しみとさよならができるのだ。

 彼女は目を閉じた。

 強く抱きしめられる力を感じながら。

 今彼女は人としての一歩を歩き出す。


──悲しみよ さようなら───


 どこからか彼女の耳に声が届いた。

 それは自分自身の声だった。

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