第230話
「明後日から二月ですよ、先輩」
「! な――――」
「先輩、一ヶ月以上廃人同然だったんですけど、何も覚えてないっぽいですね。海音君にめちゃくちゃ迷惑かけたんですけど、その記憶もなしですか?」
慶史の問いかけはいつもの挑発的な言い方じゃなかった。
それを虎君も感じたんだろう。何も言わず頼りない眼差しで僕を見下ろしてきた。今の慶史の言葉は本当なのかと尋ねるように。
「今日は、1月30日だよ。……もうすぐ31日になりそう、だけどね」
僕は虎君の頬に手を伸ばし、伸び放題の無精ヒゲに触れた。
虎君はそれに何か気づいたのか、僕の手を追うように自分の頬に触れ、驚きに目を見開いた。
「な……、なんで、こんな―――」
「一カ月以上お前は抜け殻だったんだよ」
「海音……」
驚きのあまり、虎君の腕から少し力が抜ける。僕は、それでも僕を放さない愛しい人の首に腕を巻き付け、より傍にいるために抱き着いた。
虎君は僕の髪を撫で、海音君に説明を求めた。自分はこの一カ月どうやって生活をしていたのか。と。
海音君は苦笑交じりに「生活なんてしてねーよ」って涙声を返し、自分が居なければ今頃衰弱死していたと虎君の空白を伝えた。
「俺らが必死に呼んでも正気に戻らなかったのに葵が呼んだら一発って、お前のブレなささはスゲーよ、本当」
分かってた事だけど、親友としては凹ませてもらうからな。
そう言葉を続けた海音君に、僕の心臓がドキドキしてしまう。
きっと沢山の人が虎君を心配して此処を訪れたんだろう。でも海音君が言ったように、誰も虎君の時間を動かすことができなかった。
けど、僕はそんな虎君の時間を動かすことができた。それは他でもなく、虎君が僕のことを深く愛してくれているからこそできたこと。
言葉よりもずっとずっと深く虎君の愛を感じることができた僕は、ドキドキと早く鼓動する胸に息苦しさを覚え、身悶えたい愛しさのまま虎君にまたしがみつく。
「『俺ら』って、まさか藤原も……?」
「! 俺は今初めて此処に来たんで違いますけど!?」
虎君は僕を抱き締めたまま『違うよな?』って言いたそうな声を上げ、慶史は『違うにきまってるでしょ!?』って呆れた声を返した。
「俺は葵のために此処にいるだけで、間違っても先輩のためじゃないですからっ!」
「『葵のため』って……、藤原、どういうことだ?」
「! そ、そんな凶悪な顔して凄んでこないでくれますか!? 嫉妬丸出しでみっともないですよ!?」
虎君の声は押し殺されていて、その声色だけで怒りを感じる。
どんな表情をしているかは僕には見えなかったけど、あの慶史がたじろいでるから、怖い顔、してるんだろうな。
僕は虎君の無精ひげの生えた頬っぺたにチュッとキスをすると、「虎君」ってその名前を呼んだ。
慶史と仲良くしてって意味を込めたことに気づいてくれたのか、虎君は僕の名前を呼び返すと唇に近い頬っぺたにチュッてキスを返して、慶史に「悪い」って謝ってくれた。
「いや、謝る前にナチュラルにいちゃつくのやめてもらえません?」
「慶史、ごめんね。本当に、本当にありがとうっ」
「言ったでしょ? 俺は葵の笑顔のために頑張ってるんだから、『ありがとう』だけでいいの! 『ごめん』は明日、悠栖と朋喜に言ってあげな」
「! うん、うんっ……」
優しい親友に涙ぐんでしまう僕。虎君はそんな僕を優しく抱き締め、涙で潤んだ目尻に唇を寄せて、キスで涙を拭ってくれる。
優しい虎君に、僕は甘えて擦り寄る。散々迷惑をかけた慶史には呆れられるかもしれないけど、でも、それでも僕の幸せを喜んでくれるって信じてる。
「海音君が言った『俺ら』って言うのは、先輩のご両親とかのことですよ」
「! 父さん達、帰って来たのか……?」
「帰って来てたよ! なんならお前の状態見てツアー中止にするとまで言ってたからな? 後で正気に戻ったって連絡入れとけよ!?」
実の親すら認識してなかったなんてマジでお前ブレないな!?
そう呆れる海音君は、虎君のお父さんとお母さん以外にも多大な心配をかけた相手の名前を上げ連ねる。
僕の家族も勿論それに入っていて、違うって分かってたけど姉さんの名前が出た時はちょっぴり胸が痛んだ。
「ていうか、先輩、そろそろ葵のこと放してもらえません? いい加減葵が可哀想なんで」
胸の痛みはただの勘違いだと言い聞かせて虎君にしがみついていたのは僕なのに、慶史は虎君に対して僕が迷惑していると言いたげな言葉をかけてくる。
当然僕はそれに怒ろうとしたんだけど、慶史だけじゃなくて海音君まで「そうだそうだ」って同調してきて、困惑。僕は全然嫌じゃないし、むしろずっとこうしていたいって思ってるから。
「だいたいお前も嫌だろ? 葵の前でそんな小汚い格好のままなんてさ」
「そーそー。何日風呂入ってないかとか聞きたくないレベルで汚いですからね? 今の先輩」
そう言った慶史は、いつの間に傍にいたのか、僕を虎君から引き離すように肩を力強く引いてくる。
僕はそれを嫌だと思ったけど、虎君は僕を引き留めてはくれなかった。それどころか、慶史に僕を預けるように身体を僕から引き離してしまった。
「ご、ごめん、葵っ、俺、俺―――」
「やだっ! 慶史放してよっ! 虎君、ヤダ、やだぁっ!!」
真っ青な顔してる虎君。僕は拒絶されたと勘違いして、本気で慶史の手を振り払って虎君を追いかけてまた抱き着いてしまった。
虎君はすごく困った顔をして僕の名前を呼ぶ。でも、僕をちゃんと抱き留めてくれる……。
「ちょ、葵その態度酷くない!? なんか俺が悪者みたいなんですけどっ!?」
「まぁまぁ。落ち着けよ、慶史。葵はこんな小汚い虎でもいいって言ってるわけだし。……まぁ虎はすっげぇ複雑そうだけど、これはこれで面白いからいいじゃねーか! な?」
慶史と海音君の声を聞きながらも、僕はどうしても虎君から離れたくなくて虎君が困っていると知りながらもずっとずっと抱き着いていた。




