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第210話

(え……なんで、虎君……? 僕、虎君のこと想い過ぎて幻覚見てる……?)

 この時、僕は息をするのも忘れていた気がする。

 立ち止まった僕の事など気にせず隣を歩いていた寮父さんは「おーい、弟呼んできてやったぞー」って呑気な声で手を振って虎君に歩み寄ってゆく。

 僕は、僕だけ茂斗が虎君に見えているのかもしれないと平静を保つために訳の分からないことを考えていた。

 けど、僕と同じく足を止めた慶史が僕にだけ聞こえる声で「なんで先輩がいるわけ……」って呟いたから、僕にだけ見えてる虎君ってわけじゃなさそうだ。

(嘘……。なんで……? どうして……?)

 思わず後ずさるのは、虎君と目が合ってしまったから。

「あれ? 三谷何処行った?? って、何そんなところで突っ立ってるんだよ? ほら、兄貴待たせてるんだからこっち来い」

 朗らかな声をエントランスに響かせる寮父さん。

 僕はその声に後ずさる動きすら封じられた気がして、精神が一気にグラグラと不安定になる。

「葵……」

 直ぐ隣で僕の名前を呼ぶ慶史。本当に肩が触れるぐらい近くに居るのに、声が遠く聞こえた。

 僕の視界には虎君しか居なくて、聞こえる音は自分の心音がほとんど。

 早く逃げないとって分かってるのに、身体が竦んでしまってその場から動くことができない。

 必死に浅く呼吸を繰り返す僕の息を再び止めるのは、僕の視界を占領していた虎君の唇が動いたと知った時。

 何を聞かされるのか、ただ怖かった……。

「葵、大丈夫か……?」

 僕を気遣う虎君の優しい声。それは今までと何も変わっていない。

 でも、虎君の心を知った今、その優しさにすら痛みを覚えた。

「……葵、ダメだよ」

「! け、慶史……」

 逃げろ。って自分を奮起させようとした僕の行動を予測したのか、慶史に腕を掴まれる。

 どうして逃がしてくれないんだって訴えるように慶史を見れば、慶史は少し辛そうな笑い顔を僕に見せた。

「ちゃんと先輩と話してきな。……先輩の気持ちがどうであれ、あの茂斗を抑えて寮に乗り込んでくるなんて葵が先輩にとって大事な存在だってことは変わらないから。ね?」

 虎君が僕にくれる『好き』は、僕の望む『好き』とは違う。

 でも、慶史はそれでも『好き』は『好き』だからと逃げようとしていた僕の背中を虎君の方へと押してくる。

 踏ん張る力なんてなかった僕は、慶史に押されるがまま数歩前によろめき歩いてしまう。

「葵っ……!」

 つまずいて転びそうになったせいか、虎君の心配そうな声がすぐに聞こえた。

 いや、違う。声がさっきよりも近い気がする。

 まさか……と一瞬床に落ちた視線を急いで上げた僕の目に飛び込んできたのは、駆け寄ってきた虎君の姿だった。

「大丈夫か? 怪我、してないか?」

 僕を支えるように寄り添ってくる虎君。

 最後に会ってから一週間も経っていないのに、肩に、背中に触れる虎君のぬくもりがこんなにも恋しくて愛しくて、一瞬全てを忘れて縋りつきそうになってしまった。

 感情のまま泣いて縋って、想いを隠して虎君を求めれば虎君はきっと僕が落ち着くまで抱きしめてくれるだろう。俺が傍にいるから大丈夫だよ。って優しい言葉を僕にくれるだろう……。

(虎君っ、虎君……)

 鼻の奥が熱くなって、視界が涙のせいで歪む。

 でも、それでも僕は虎君を求める言葉を口に出さなかった。

(虎君は姉さんの恋人なんだから、これ以上好きになっちゃダメだ……)

 今以上に想いを募らせてしまったら、諦められなくなる。忘れられなくなる。

 だから、どんなに恋しくても、虎君を求めちゃダメなんだ。

 って、僕が必死に自分と戦っているのに、僕の苦悩を知る由もない虎君は事も無げに僕を抱き締めてきた……。

「葵、泣かないで……」

 ぎゅっと力強く抱きしめられて、僕の五感が全て虎君で満たされる。

 泣かないでと懇願してくる虎君の声は切なさが滲んでいて、いとも簡単に僕の想いを深めてくれた。

「っ―――、とら、くん……。虎君っ……」

 お願い、こんな風に抱きしめないで。僕を思って言葉を紡がないで。

 愚かな僕は、虎君は姉さんが好きだと知っているのに、虎君に想われていると勘違いしてしまう。

 これ以上僕の心を乱さないで。お願いだから、どうか……。

「葵、ごめん。ごめんなっ……」

 言葉も碌に紡げず嗚咽交じりに泣き出した僕を一層強く抱きしめてくる虎君。

 何度も謝ってくる虎君に、僕も心の中で何度も何度も謝った。

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