彼は狼に育てられた
彼は狼に育てられた、文字通りの狼少年だった。
彼が三歳くらいのとき、彼の母親が急死した。のちに父親が再婚すると、父親は彼を疎ましく思い、ある時山奥の羊飼いのもとに連れて行かれ、結果的に山奥に住む、年老いた羊飼いは彼を買った。
其れからの四年は激動だったが、同時に彼にとっては充実していたといえる。何故なら普通に生きるにあたってただ消費する側でしかなかった彼がそれを生産する側に回りそれを学ぶということ、生産方法を知ることは何よりも喜びと云える、そういった忙しさの中に確かな楽しみと充足を感じられる日々だったのだ。
例えば火起こしにしたって、最近はマッチやライターがあれば事足りてしまうだろう。火打石や薪に木の棒を擦り合わせるのなんか、一体世の中の子供の何割が経験しているというのか。
そういった細かい時事を含め、彼は退屈してはいなかった。父親を恨まなかったのかと云えば嘘になるが、父親を恨んでいる暇もなかった。
そうであれば、父親を恨むなどと云う時間の無駄に興ずるより、目先の新しい経験を重視した方がよほど彼にとっては有意義だったゆえに、しばらくすれば父親を恨むなどと云うそういった感情はなくなっていた。彼はそのように語っていた。
だが彼がやってきて四年もするころ、老父は天に召された。
彼に生きる様々な方法を教えた老父だったが、寄る年波に打ち勝つことはとうとう出来なかったのだ。
彼は、山奥で完全に孤立することとなった。羊の乳やチーズなどで食い繋ぐこと自体は可能だっただろう。しかしどれも日持ちはあまりしない。彼はしばらくもすれば食うにも困る有様になっていた。7歳程度が羊を食肉にするにはあまりにも彼は非力だったのだ。
やがて、腹をすかせた狼が羊を食い荒らしにやってくると、彼は死を覚悟していた。
獰猛な狼に食い荒らされる羊を見て、自分もまたあの羊のようになるのだろうと漠然と理解して、だが彼は死ななかった。
彼も理解していなかったことだった。本当に気がつけば彼は狼の一家の一員となっていた。
野山を駆け抜け、池を飛び越え、獲物を追い――そういった野生の中で彼は十二年を過ごした。
メスの狼が母親代わりとなり、狼の子供たちは彼とともに狩りをし遊び、そうして彼は生きながらえることが可能だった。後年彼はこの様に語っていた。このおかげで、楽しい幼年期をすごすことが出来たのだと。
『自然の中で気高く生きる彼らの知識は老父をも凌ぎ、どのキノコを食べれば毒死するか、何が体に良い物なのか、狩りの仕方から何までも――狼たちは私に全てを教えてくれた』
彼らは自分を食料としてではなく家族として扱っていた。食べ物を口で分け与え、共に転がって遊ぶ瞬間の自由は何よりも貴かった。
そんな彼の自由はやがて終りを告げた。彼は人間に保護されたのだ。
人間の世界に戻された彼にとって、周囲にあふれる魔天楼が、排気ガスにまみれた都会の空気が、何よりも12年間も狼とすごし忘れてしまった言葉に、流行りについていけない彼はさながら浦島太郎。
人間の世界に溶け込ませようとする所謂支援者たちの支えもあって人間社会に戻ること自体は十年もあれば可能だったが、それでも、彼にとって人間世界はどうしたって地獄だった。
些細なことで同族同士で殺し合いを始めたり、気にしなければならないことが、人間の世界には多すぎる。狼の一族であったうちは、あれほど世界は単純で美しかったというのに。
人間の世界は、兎角複雑怪奇な幾何学模様で、それでも彼は今でも人間世界で生きている。生きざるを得ない。それが、人間だからだ。
『だから僕は思う。僕が人間の世界でやっていくのは、どうしたって無理なんだ。どうしたって、間違っているんだ』
そんな折、彼は森を歩いていた。狼と仲良くなる方法も、自然の知識も、未だに色あせずに彼の内には強く根付いていた。
人間世界での数十年よりも、あの十二年間の記憶はいまだに色あせずに輝き誇っている。冬の空の一等星よりもなおさら強く、強く、手を伸ばしても届かない場所で、けれど手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じられているというのに――。
『戻れるものなら戻りたい。あの輝いていた世界へ――僕が生きるべきだった、あの野生の世界へ』
表面を取り繕うのは簡単だ。外面を良くして当たるのも簡単だ。何故なら僕は人間だから、人間だからこそ、人間の真似が一番うまいのだ。
そう自虐しながら、深い悲しみの中で戻れないことを悟りながらも戻りたいと焦がれる気持ちは年を重ねるごとに、あの老父の年に近付けば近付くほどに憧憬となって彼の胸の奥を強く打ってくるのだ。若干30にも満たない彼の、切実な本音だった。
音楽活動も、身に振りかけたコロン、葉巻も、何もかも人間社会に馴染む為だった。だが今となってはそれすら意味のないことだったように思える。
『息遣いが聞こえる。彼らはすぐそこにいる。呼びかければ答えてだってくれる。けれど、決して彼らから近寄ってはこない』
それが何故なのか――しばらくの煩悶の末、彼は理解した。
――僕はあまりにも人間臭くなってしまったのだ
だから僕は森に還ってきたのだ。人間の匂いも何もかもを振り落として。
さぁ、愛しい狼たちよ、また――また家族に戻ろう。あの息苦しい世界ではなく。
その時、見なれた顔を見た気がした。母親代わりとなってくれた狼によく似た面影を残す面長の顔は、その青い瞳は紛れもなく、あの頃に野山を転げまわって遊んだ彼の兄弟たちだった。見間違えようはずもない
そして何よりも彼にとって嬉しかったのは、彼もまた、彼を覗き返していたことだった。傍らにいるのは家族だろうか、僕もそれに混ぜておくれよ――。
夢中だった。
何よりも夢中だった。十年間思い続けた理想が叶うかもしれないと思い、どうしたって駆けよらずには居られなかった。
狼同士の挨拶の遠吠えも交えて近づけば、人間の匂いが振り落とされた今ならば、彼らもまた家族になってくれると漠然と信じていた。其れに反駁することが出来るほど彼は大人でもなかった。
「GURUruruuruuuruuuuuuuuuuuu……………」
「何故だ、何故そんな目で僕を見るんだ! また家族として、もう一度やり直そう■■!」
人間の言葉ではない、まさしく動物の言語で、彼は語りかけた。しかし――
牙をむいたその狼が彼の上に圧し掛かることが、その問いへの答えだった。
噛まれることもない。瞳の奥にはいまだに慈愛の色が濃く浮かんでいる。しかしそれでも、狼は強く彼を突き放した。
延ばされる手には怪我をしない程度に、けれど痛みは感じられるように手加減ならぬ口加減をして、もはやお互い相容れないのだと。
一体どれほど、その膠着が続いていたのかは彼らには分からないことだった。しかし唸ることを止め、辛いのを堪えるような瞳で彼を見下ろす狼の瞳に嘘はなく、彼らはどちらの言葉を用いるまでもなく通じ合っていた。
のそりのそりと彼の状態を抑えている鍛えられた足が退かされると、狼は家族のもとへ向かい、木々の向こう、森の奥へ奥へと進んでいった。これが今生の別れだと。
立ち去るその背中が見えなくなるころ、狼は不意に後ろを振り向いた。
狼の両の瞳、鼻筋のあたりが薄らと濡れているのが彼には見えていた。
深い深い森の、もはや双眼鏡でもなければ見えないような距離でも、不思議と彼には狼の全容を窺い知ることが出来ていた。
狼は別れ際に遠吠えすることもなく、彼に背を向けて家族を連れ立ち森の奥へと消えていった。残された彼は、泣いていた。只管に泣いていた。
これは実在の存命人物を題材としたノンフィクション風フィクションです。このため名前を出すことはできませんが、かなり有名な方です。
そういうことで申し訳ありませんが、元ネタの人物について知りたいといった場合はご自分で検索してください。感想欄などで質問されてもお答えしかねます。