夢を喰らう怪物〈下〉
誰かが叫んでいる。「公務員を目指すだ? 無理無理無理、だってお前、不器用じゃん。漫画家? やめとけ、お前、才能ないよ。YouTuber? やめとけよ、将来性ないぞ。俳優? 売れなかったらどうするんだ、なったらなったでスキャンダルとかなんとか、大変だぞ」
ふと、少年が顔を上げて「見つかりませんねえ」と言う。
誰かが叫んでいる。「パン屋ぁ? なにお前、どっかで修行でもするの? ヨーロッパ? ヨーロッパまで行くのか? 行けないよな? 家が貧乏だもんな。どっかで修行でもしないで、うまいパンが焼けるのか? 無理だろ、あきらめろよ。コンビニ店員? いやお前、そりゃ、大事な仕事だけどさあ。もうちょっと夢持ってもいいんじゃないか? 若いんだからさあ。コンビニ店員を将来の夢にするのなんてやめとけやめとけ、あんなのバイトまでだよ。建築家? でもお前、数学苦手じゃん。微分積分できるようになってからのたまえよ」
怪物は相変わらず、打ち捨てられた夢の残骸を拾い、壊す。少年の夢はまだ見つからない。
誰かが叫んでいる。「歌手ぅ? 無理無理、だってお前、声キモいじゃん。しかも音痴ときた。天地がひっくり返ったって、誰もお前を歌手と認めやしねえよ。修行とか言って駅前で歌うのやめろよ、知り合いだと思われたら恥ずかしいだろ。郵便配達だ? やめとけやめとけ、あれ一見待遇よさそうに見えるかもしれんが、提携企業の商品の営業にノルマとかあるらしいぞ、悪いことは言わねえからやめとけよ。塾の先生? なんでそんなとこ行くんだよ。学校の先生は目指さないのか? 免許取らなくて良いから塾の先生って、そんなの逃げじゃん」
ごみの山はどんどん小さくなっていって、ついには最後に原稿用紙が残るだけになってしまった。お前はそれを拾い上げ、少年に「お前の夢は小説家だ」と言う。
しかし少年は、「ええ。残念ながら、小説家も、僕が捨てた夢じゃありません」と言った。少年の夢はここにはなかったのか?
誰かが叫んでいる。「小説家? 一冊二冊とか本出しても、売れなかったらどうするんだ? それだけで一生食っていけるのか? アイディアが枯れたらどうする。もっと現実的な夢にしなさい」
お前は、さも残念そうにこう言った。「そう、か。それじゃあ、残念だが、お前が捨てた夢、は、お前がここに来る前、に、俺が壊してしまった、ってこと、だ」
少年はそこで、お前の目の前までやってくると、こう言う。「僕のことを見て、何か思い出すことはありませんか?」お前には質問の意味が分からないだろう。「どういう、意味、だ?」だから、それだけしか返せない。
「僕も、僕自身も、捨てられあきらめられた夢の一つ、なんですよ」お前は、黙るしかなかった。
「未来のことを夢見る。将来の夢を見る。僕は、諦められ捨てられた夢の一つ。『将来』、『希望』といった、『明るい未来が待っているに違いない』という、夢」
誰かが。いや、叫んでいるのはお前だ。かつてのお前だ。「お嫁さん、明るい家庭、マイホーム、子沢山、幸せな暮らし。なんだそれ、もっとまじめに考えろよバーカ。具体的にどうするんですか」
「僕は、あなたが諦め捨てた夢。『明るい未来』という、夢。『将来への希望』という、夢」少年の声は、怪物のそれとそっくりだった。しわがれているか、いないか。お前をそっくりそのまま若返らせたら、きっと同じ声で話すに違いない。
かつてのお前が言う。「お前が夢を捨てたせいで、俺は、他人の夢を諦めさせることしかできなくなった。俺だって。俺だって、何かなりたいものがあったはずなのに」
お前はもう、黙って聞いていることしかできないでいる。
かつてのお前が言う。「お前は、俺の末路だ。他人の夢を馬鹿にし嘲った俺の末路。夢を喰らう怪物だ」
怪物は「オレ、が、お前」とだけ言うことしかできなかった。
「そう。夢見ることをやめた人間が、最後に行き着く終着地点。本来捨てられた夢だけがたどり着くべきこの夢処理場にたどり着いてしまった人間」少年の声がそう響く。
「夢見ることをやめた人間だけが、他人の夢を、平気で馬鹿にできる」かつてのお前の声。
「どんな夢を見るのだって、個人の自由なのに」少年の声。
夕刻、いつもの時間にいつもの業者がやってきたことに、お前は少しほっとした。業者は車からごみ――諦められて捨てられた夢の残骸を無造作に山にする。
「おう、また捨てられた夢の追加だぞ。そろそろ探し物は見つかったころじゃないか?」
お前は黙ったままでいる。業者のほうを見ようともしない。死んでしまったか? いいや、生きている。生きているのか本当に?
「今も、その、夢を探しに来たってやつは、その辺で夢を探しているのか。そろそろ挨拶でもと思ったんだが、一度も会わないな」
お前は腕を動かすのさえ億劫だと感じている。だが、無理矢理に右腕をあげた。傍らにいる少年を指さした。「そこ、に」
業者はお前の指の先を目で追った。「あ? 何言ってやがる。これも、諦め捨てられた夢の一つだろう」確かにそう言った。
「そういうことです」少年の声。
お前は答えを知っている。お前の問いに、業者が何と答えるかをわかっている。だが、聞く。「じゃあ、こいつ、は」
「そいつもそうだよ。誰かが捨てた、夢」
「そうだよ。だから言ってるだろ」かつてのお前の声だ。
怪物、お前はわかっているのに聞くのをやめられない。そうだろう? 口が勝手に問いを発する。「一体、誰、の」
「そんなの、決まってるだろ」業者が言う。
怪物には見えている。お前の目の前で、顔見知りの業者と、夢を探しに来た少年と、かつてのお前と同じ声をした若者が、指さすのが。お前を、指さすのが見えている。
「お前のだよ」という声が三方向から聞こえた。「怪物」
少年の声だ。「将来の夢ですか? そんなこと、考えたこともないです。考えるだけ無駄ですよ、大人になったときになったものに、僕はなるんです」
それだけ言って、少年はごみの山に体を横たえた。微動だにしない。眠ったようだとお前は思っている。
若者の声だ。「ああ? うっせえな、大人が口出しするんじゃねーよ。今が楽しければそれでいいんだよ」
それだけ言って、若者はごみの山に倒れこんだ。糸が切れた操り人形のような動きだ。お前はもう、なにがなんだかわからず、叫びだしたいと感じ始めている。
「オレ、は、『未来』という夢を捨てた、怪物……?」怪物は、自分が声を発したことに気づいていない。
「そうだ。自分の夢を捨て、他人の夢を馬鹿にする人間の末路。それがお前だ。他人の夢を壊すことしかできない、そんな怪物。夢を喰らう怪物」
「そんな、の、嫌、だ。オレは、もうこれ以上、他人の夢を踏みにじりたく、ない」お前は、自分が声を発したことに気づかない。気付けない。気付こうと、しない。
「だったら簡単だろう。古い夢を、壊せば良い」業者が誘う。お前には甘美なささやきに感じられるはずだ。だが、聞かずにはいられない。あるいは一応確認しておかねば、と思ったのだろう。「それ、って」お前は聞いた。
「そうだよ。そいつらは、お前の諦め捨てた、古い夢だ」業者は、少年と若者の亡骸を軽く蹴った。「捨てられた古い夢を壊せば、その夢の持ち主は、新しい夢を見ることができる。「未来」、それから「希望」を壊せば、お前は新しい夢を見ることができるようになるんだよ」
怪物。お前は賢明だ。それがどういうことか十分に理解した。「そう、か。そうだな。わか、った」理解した。
お前はごみの山に横たわる少年と若者の首根っこを掴むと、やすやすと持ち上げてみせた。業者を一瞥すると、頷きが返ってくる。
お前は少年と若者の首を折った。……本当にそれでよかったのか、ろくに考えもせずにだ。
次に目が覚めたとき、お前はごみ捨て場にいた。「ここは、どこだ? 俺は一体今まで、何をして……?」夢捨て場ではない。町中にある、いたって普通のごみ捨て場だ。お前の尻と背中は得体の知れない汁で汚れている。お前はまったくそれに頓着しないで立ち上がった。そこで寒さを感じる。そうだろう?
「寒い。そうだ、俺は自分自身があきらめ捨てた、古い夢を壊したんだ。新しい、夢を見るために。今までさんざん馬鹿にしてきた他人の夢と同じような夢を、再び見るために」
ごみ捨て場は少し奥まったところにあった。路地裏のようなところ。左を見れば明るい街並みが見える。色とりどりの光彩に彩られた街並み。人々はみな寒そうに首をすくめて歩いてゆく。
「ほらほらお父さん、はやくはやくー!」
「お前は本当に足が速いなあ。運動不足の父さんじゃ、もうお前に追いつけねえや」
「走るのは得意なんだ! クラスでも一番足が速いんだよ!」
「そっか、すごいな。じゃあ将来は、スポーツ選手にでもなるのかな?」
「サッカー選手になる!」
「じゃあサンタさんにサッカーボールをお願いしないとなー」
「はやく帰ってサンタさんにお手紙書こう!」
「そうだな。お母さんも待ってるし、さっさと帰ろう」
お前はごみの山をどかしてスペースを作り、座り込んだ。あまりの寒さにとてもじゃないが立っていられなかった。寒いのがどこかすらわからない。
そうしてお前は、再び思索の海に沈む。お前はこう考えている。「俺は、どこに向かっているんだろう。俺の新しい夢って、なんだ? 新しくしたいこと? 今までさんざん他人の夢をけなして生きてきた。この年になってようやく過ちに気付いたが、俺が新しく見るべき夢は、いったい何なんだ?」
そのとき、お前は雪が降ってきたことに気付いた。ビルとビルとの裂け目から、ちらちらと細かい雪が舞い降りてくる。お前はそれを見ても、寒いという感想しか抱かない。そんなものより寒さを防げるものだ。そうだろう? お前はごみの山を漁り、寒さをしのげそうなものを探し始めている。
もはやお前は動いたままでも考えていた。「今まで、俺はなんて狭い視野で生きてきたんだろう。ここから見えるだけでも、夢を持った人たちが行き来して、幸せそうにしている」ちら、と路地裏から明るい表通りに視線をやってみる。
高校生くらいだろうか? お前には判別のしようがないが、眼鏡をかけた女学生風の女の子が寒そうに歩いてきて、携帯電話を取り出した。
「――お母さん? 何? 私? うん、そう、今塾の帰り。うん。……入選した!? 本当に!?」
まだ若いサラリーマン風の男も寒そうに歩いている。携帯で誰かと通話中のようだ。
「――うん、今向かってるところ! え? もうすぐ産まれそう? わかった、すぐ――」
お前はなんだか胸が苦しいんだ。横倒しになる。ごみの真横だが気にしない。
「お前は、未来という夢、希望という夢を諦め、捨て、そして、壊した。いくら古い夢を壊しても、その古い夢が未来や希望だったら、それらを壊して得られる夢は、一体何なんだろうな?」いつの間にか、業者の声が聞こえたような気がしたお前は、「暖かいものがほしい」そう言った。返事はすぐに帰ってきた。お前の背後からだ。返事は男の声で、こうだった。「ほかには」
「話し相手がほしい」「ほかには」
「食べ物がほしい」「ほかには」
「……幸せに、なりたい」
「幸せになりたい、という夢。そうだな。誰だって、幸せになるために夢を持っているんだ」
お前はもはや、自分が誰と話しているのか気にしてなんていない。そもそも自分が誰かと話しているという感覚すら薄れてきているだろう。「俺はそれを捨て、他人の幸せを馬鹿にした」
「未来と希望を夢見ているから、人間は、夢を持つことで幸せを目指せるんだ。しかしお前は、自分の未来と希望を夢見ることをやめ、他人の夢を馬鹿にし続けてきた」
お前は何も言わない。
「お前がいまさら、幸せになれると思うのか?」聞き慣れたはずの業者の声。
「お前がいまさら、幸せを求めていいと思っているのか?」
それからしばらくの間、沈黙が続いた。雪だけが降り続き、はじめはコンクリートをなめては解けるだけだった雪が少しずつ降り積もっていく。横になったお前の鼻先まで雪が積もったとき、ようやくお前は口を開いた。「……お前は、いったい、何者なんだ?」「俺? 俺こそが、本物の、真の夢を喰らう怪物。人間の夢を諦めさせ、捨てさせる」
「じゃあ、俺は」お前は指先が冷たくなりつつあるのをもう感じることができない。
「便利だったよ。俺は人間の夢を諦め捨てさせることしかできないから、代わりにお前に壊させていたんだ。だって、お前、夢を壊すのが得意だったし」
「じゃあ、俺が壊していた夢は」
「そうだよ。お前が壊したせいで、その夢の持ち主は、一度捨てた夢を二度と拾えなくなるんだ」
「そう、か」それっきり、お前はもう動かない。二度と動くことはない。そして、考えることもない。何も感じない。体の上に降り積もる雪の冷たささえ、もう感じることはない。真の夢を喰らう怪物と名乗った男はもういない。
「ここが」
「そうだ。お前はここで、俺が持ってきた夢を壊してくれ」
「夢を、壊す」
「そうだ。人間が諦め捨てた夢を壊してやることで、その夢の持ち主だった人間は、新しい夢を見ることができるようになる。大事な仕事だから、きっちりやってくれよ。適度に休みつつでもいいからよ」
「わかった。古くなった夢を壊す」
「それじゃあ俺は夢を集めてくるから。頼んだぜ」そう言い残し、業者は車に乗り込む。
「さて、今度の奴は、何日持つかな」新しい怪物が、業者の声を聴くことはない。
「薬剤師」「音楽家」「小説家」「漫画家」「大学教授」…………
今度の怪物は、働き者のようだった。