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ミッシング・ピース  作者: ぱせ
二章 琴里
9/36

3

 

 薄い水色に澄み渡る空を、わたしはぼんやりと見上げていた。大きな庭の縁側に腰掛けて、虚ろな瞳に捉えた雲が徐々に変化していく様子を眺めていた。

 今は何時だろうか。

 何日だろうか。

 何曜日だろうか。

 時間の感覚など、とっくになくなっている。

「琴里、そんな格好じゃ風邪引いちゃうわよ」

 祖母がわたしに赤色の半纏を羽織らせた。どうやらパジャマのままだったようだ。寒いという感覚すらなくなってしまったのだろうか。わたしは祖母を見て笑顔をこぼしたが、祖母は少し悲しそうな顔をした。

 両親の死は、殺人事件として連日ニュースで報道されていた。犯人はまだ逮捕されていない。遺留品や目撃者が少なく、警察の捜査は難航しているようだ。

 両親の遺体と、その傍らに放心状態でへたり込んでいるわたしを発見したのは、家を訪ねてきた祖父だった。わたしはなぜかスケッチブックを抱えていたらしい。

 いまいち記憶がはっきりせず、わたしはいつの間にか自宅からほど近い、母方の祖父の家にいた。

 祖父母はわたしの精神状態を心配している。なぜなら、わたしは両親が亡くなったにも拘わらず、一度も泣かなかったからだ。そして、同時に言葉も発しなくなった。

 正確には『言葉を発しない』のではなく『声が出なくなった』が正しい。

 病院でわたしは『心因性失声症』と診断された。ストレスや心的外傷などによる心因性の原因により、声を発することのできなくなる心の病気らしい。

 両親の死に対して、なぜ涙が出ないのか。自分でも分からなかった。タロが死んだときにはあれだけ泣いたのに、なぜだろう。実感が湧かないせいだろうか。わたしは特にふさぎ込んだりすることもなく、努めて明るく振る舞った。それが無理をしているように見えるのだろう。そんなわたしを見て祖父母は悲しそうな顔をした。

 縁側から室内を振り返り、和室の隅に置かれた両親の遺影を見る。いつだったか、母が言った言葉を思い出した。

『辛いときほど笑いなさい。笑顔が幸せを運んでくれるから』

 わたしは母の言葉を体現しているだけなのかもしれない。

 現在の日付を確かめようと携帯電話を手に取る。おびただしい数のメールが着信していた。すべて友人たちからのようだが、内容は確認していない。日付は十二月二十九日。事件から五日も経過していた。

「じいちゃんも日向ぼっこしようかな」

 そう言って、祖父が隣に座った。祖父母も娘を殺害されたわけだから、相当ショックを受けているだろう。犯人に対して激しい怒りも湧いているだろう。それでもわたしには優しく接してくれる。

 祖父はわたしが羽織っているものとは色が違う青色の半纏を着ていて、顔には深い皺が年輪のように刻まれている。祖父は長方形の木片を取り出すと、それを小刀で削り始めた。昔から、木を動物の形に削ってはわたしにくれた。この木彫り細工はあったかくて、とても好きだった。祖父の右手に握られた小刀がリズムよく動く様子をぼんやりと眺めて、その日は過ごした。


 年が明けた。相変わらず、わたしは縁側にいることが多かった。庭にどっしりと根を張っている大きな桜の木にひっきりなしに鳥がやっているので、それを観察したりした。この桜の木は春になると、見事なピンク色に染まるので毎年楽しみにしている。今年も綺麗な花を咲かせるのだろうか。

 背後から賑やかなテレビの音が聞こえる。ニュース番組のようだ。動物園で双子の白熊が生まれたとか、芸能人同士の電撃入籍などが、小さなテレビから垂れ流されている。やがて、楽しげだった女性アナウンサーの声のトーンが重苦しくなる。両親が殺害された事件の続報だった。未だに犯人像が浮かんでこない事件に対して、犯罪に詳しい専門家の先生が『犯人はこんな人物だ』と推測する音声のみが耳に入ってきた。

 今でもたまに事件のことに関して警察が訪ねてくることがある。わたしは訊かれたことに、首を縦か横に振って答えていた。しかし、わたしは一つだけ警察に嘘をついていることがあった。『不審人物を目撃したか』という質問に対して、わたしは首を横に振ったのだ。

 だが、わたしは見ている。事件直後、自宅から出てくる人物を。

 縁側から立ち上がり、和室のタンスを開ける。乾いた血がこびりついた、トートバッグが入っていた。バッグの中からスケッチブックを取りだし、ページをめくる。

 そこには、目つきの悪い男の顔が描かれている。

 わたしはこの人物画を描いた記憶がない。でも、たしかにわたしの絵だ。筆圧のコントロールの仕方、濃淡の表現から自分の絵だとわかる。おそらく、両親の無残な姿を見た後、傍らにあったトートバッグからスケッチブックを取り出して無意識のうちに描いたのだ。

 わたしが帰宅する直前に家から出てきた作業着姿の男。運送会社の作業着だったと思うが、やたらと汚れていたのを記憶している。おそらくあの汚れは返り血だろう。

 わたしは、なぜこのことを警察に伝えなかったのか。

 この人物を目撃したとスケッチブックを渡せば、すぐに逮捕されるだろう。それなのに警察に言わなかった理由はなんなのか。それはきっと、心の奥底に沸々と湧き上がる、今までに感じたことのない感情が関係しているのかもしれない。その得体の知れない感情は、わたしの心を黒く蝕んでいくようだった。


 冬休みが終わり、中学校最後の三学期が始まった。

 このまま、卒業まで休んでいた方がいいのではないかと祖母は言ったが、わたしは学校へ行くことにした。気が紛れると思ったし、それに学校でやるべきことがあったからだ。

 始業式の朝、わたしが玄関で白いスニーカーを履いていると、祖母が心配そうにわたししを見ていた。大丈夫だと身振り手振りでアピールするが効果はないようだ。このままでは学校に行けない。そんなわたしを見かねたのか、祖父が奥の居間から顔だけを出してこちらに声をかけた。

「ばあさん、わしの小刀知らないかね? 見当たらないのだが」

「知りませんよ。どこかに置いたまま忘れてるんでしょう?」

 祖母の注意がわたしから逸れたのを見計らって素早く玄関を出る。祖母の心配を無下にしたようで気が引けたが、仕方ない。心の中でごめんねと謝って学校へ向かって歩き出した。

 学校の付近までやってくると登校中の生徒を何人も見かけた。わたしをじろじろと観察するような視線が、いくつも投げつけられている気がする。中には知っている顔も見つけたが、以前のように声をかけてくることはなかった。

 校庭、下駄箱、廊下。その視線の雨は止むことはなく注がれ続ける。みんなにはわたしの姿はどう映っているのだろう。両親を殺害された悲劇の少女だろうか。それとも、真犯人ではないかと疑われているのだろうか。

 通い慣れた教室に入ると、ざわついていた教室が一瞬、張り詰める感じがした。しかし、すぐにいつもの賑やかな教室に戻ったので、特にそれを気にすることもなく自分の席に向かう。

 窓際の後ろから二番目がわたしの席だ。椅子に腰を下ろすと窓の外を見やる。よく、授業中にこうやって物思いに耽ることがあった。

 校舎に向かってぞろぞろと歩いている生徒たちが、体内を循環する血液に思える。心臓から動脈を通じて送られ、静脈を経てまた心臓に戻っていく。自宅が心臓だとすると学校はなんだろう。毛細血管だろうか。

「琴里ちゃん」

 ふいに教室に入ってきた女子生徒三人に声を掛けられた。仲の良いクラスメイトだ。

「大丈夫だった? 心配したんだよ。メールも返ってこないし」

 わたしは彼女たちに笑顔を向けて「大丈夫だよ」と言おうとしたが、やはり声は出なかった。その様子を見て、彼女たちは不思議そうな顔をする。わたしは鞄からノートを取り出すし『ごめんね、声が出なくなったの』と書いて見せた。

 彼女たちは少し困ったように顔を見合わせる。そして、当たり障りのない会話をした後、わたしの周りから去っていった。彼女たちは興味の対象を失ったような、そんな目をしていた。その後にも、何人かの友人がわたしのもとへやって来たが、いずれも同じ反応だった。

 予想はしていたことだ。メールを返さなかったのも、着信したメールの内容がすべて、わたしに対する心配ではなく、事件への興味にしか見えないものばかりだったからだ。

 わたしには親友がいない。アドレス帳に入りきらないほどの友達はいたのに、親友と呼べる相手は一人としていないのだ。それを思い知らされた。

 わたしは携帯電話のアドレス帳から友達の名前を消去していく。メモリに重さなんてないのに、右手に収まったピンク色の携帯電話が軽くなった気がした。


 始業式が終わり、下校する生徒たちを横目にわたしは学校の図書室へ足を運んだ。この学校の図書室は非常に大きく、生徒が自由に使えるパソコンも置かれているため、調べ物をするのは最適な環境だ。巨大な本棚の中に無数に並ぶ本には目もくれず、奥へと向かう。デスクトップ型のパソコンが置かれた一角は少々埃っぽく、誰もいなかった。

 わたしは三台並んでいるパソコンのうち、一番右端のパソコンを選ぶ。マウスを左右に動かすと、モニターがスクリーンセーバーの画面から復帰した。ブラウザを起動してインターネットに接続すると、思いついた運送会社の名前を入力し、検索する。

 運送会社のホームページから自宅に近い営業所を探し、住所をノートにメモしていった。自分の住んでいる区にある営業所だけではなく、隣接する区にある営業所もすべて羅列していく。有名な運送会社を次々と入力して、同じことを繰り返していった。

 図書室を後にする頃には、お昼を過ぎていた。校舎内にほとんどひと気はない。しんと静まりかえった廊下に、冷たい靴音だけが聞こえる。途端に不安な気持ちに襲われた。それが孤独感からなのか、それとも自分の行動に対するものなのかは分からなかった。


 わたしは灰色の大きなマンションの入口にある植え込みに腰を下ろしていた。植え込みからは細長い木が蛇のように伸びており、今にも落ちてしまいそうな枯れ葉が揺れている。

 強い風が吹き、あまりの寒さに首をすくめた。もう、かれこれ二時間はこうしている。目の前には道路があり、それを挟んで動物のシルエットのようなロゴマークが印象的な会社が建っている。

 その場所でわたしがすることは単純だ。配達用の車や従業員が行き来する門に目を凝らし、従業員の顔を確認する。それだけだ。

 お腹がぐうと鳴る。そういえば昼食を食べていなかった。お腹をさすると、またぐうと鳴ったので、鞄をお腹に押し当てて空腹を誤魔化した。

 その後、午後六時までそこに座り続けてから祖父の家に帰った。帰りが遅かったので祖父母は心配していたが、わたしは二人に笑顔を向けて『心配いらない』という素振りを見せる。きっと友人と遊んでいたのだろうと思ったのだろう。祖父母は安心したような表情になった。

 それから三日間、同じ場所に座って従業員の顔の確認を続けた。そして、目的の人物がいないことを確認すると、ノートに書かれたその運送会社の営業所にペンで横線を引き、消した。


 空がどんよりと濁っていた。見たこともない景色の中をわたしは進んでいる。手に持ったノートに目を落とすと、横線が引かれた箇所はすでに八箇所となっていた。

 最近、方向感覚が養われてきた気がする。地図を頼りに目的の場所まで移動するという行為を繰り返しているからだろうか。最初は迷いながら時間をかけて目的地まで移動していたが、最近では初めて行く場所でもすんなりと辿り着けるようになっている。方向音痴だったわたしからは考えられない進歩だ。

 今回はかなり遠い場所だったが、目的の営業所が見えてきた。大手の運送会社だ。抽象的なデザインの企業ロゴで、おそらく風をイメージしているのだろうと思われる。風のように迅速に配達しますよ、という意味が込められているのだろうか。

 営業所の前に小さな公園があったので、そこに向かう。滑り台とブランコ、そして砂場しかない簡素な公園だった。公園内のベンチから営業所の入口を確認できないかと思ったが、いい場所が見つからない。結局、公園の入口に立って確認することにした。

 寒い。身体が小刻みに震える。二月の風は残り少なくなった冷気を絞り出すように、容赦なくわたしに吹きつけた。

 鞄の中を探ると、硬いものが手に触れた。携帯電話だ。事件前と事件直後はひっきりなしに着信を報せていた携帯電話も最近ではうんともすんとも言わず、ただの時計と化している。失声症が治れば、また友達ができるだろうか。

 わたしは鞄の中から切り取られた紙切れを取り出す。折り畳まれたそれを開くと、鉛筆で描かれた男の顔が現れた。目つきの悪い男。わたしが探し求めている男だ。この男の顔を見る度に、心の奥がちりちりと焦げる感じがする。

 開いた紙の上になにかがふわりと落ちて小さな染みになった。顔を上げると、雪が静かに降り始めていた。

 また、雪。

 事件の日も雪が降っていた。わたしはこれから先、雪を見る度に事件を思い出すのだろうか。

 そんなのは悲しすぎる。溜息を一つ落とすと、白い息が舞って消えた。


 携帯電話を確認する。時刻はまもなく午後六時になろうとしていた。営業所からは何人かの従業員が出入りしていたが、目的の人物は確認できなかった。今日はもう帰ろうかと、頭や肩に積もった雪を払って回れ右をしようとしたときだった。

 営業所から出てくる人影があった。作業着を着た男が疲れた足取りで歩いてくる。営業所の門に取り付けられた電灯が、気怠そうなその表情を照らした。なんだか、スローモーションに見えたその映像と、事件の日に自宅前で見た映像が重なり、一致する。

 見つけた。

 心臓がどくんと大きく弾ける。それを合図にするように、脳の前頭葉から四肢に命令が発信される。静かに歩き出せ、と。

 男の後をこっそり尾ける。男よりも少しだけ速く歩き、距離を縮めていく。男は自販機の前で立ち止まった。飲み物を買おうとしているようだ。その横顔を凝視する。自販機の灯りでくっきりと浮かび上がるその顔は、あの日見た男に間違いない。そう確信すると、鞄の中を探る。右手で滑らかな木の感触を確かめると、それを取り出す。木製の柄を握り、鞘からゆっくり引き抜くと鈍い光を放つ刃渡り九センチほどの刃が現れた。

 祖父が木彫り細工で使っていた小刀を、鞄に忍ばせておいたのだ。

 この手で両親の仇をとる。

 この瞬間のために、警察には何も言わなかったのだから。あの男が警察に逮捕されたら、この瞬間は二度と訪れないじゃないか。

 透明な水に一滴の隅が落ちるように、心が急速に暗黒の色に染まっていくのを感じた。

 蒸気機関車さながらに口から白い息が激しく吐き出される。一歩、二歩とわたしは両親を手にかけた男に近づいていった。


 わたしは眠れなかった。半纏を羽織り、縁側に座っていると夜が明けた。右手を見ると、まだ少しだけ震えている。庭の桜の木にとまり、可愛い声で鳴く雀を見つめてみる。すると、すぐに飛んでいってしまった。わたしのことが恐ろしかったのだろうか。

 縁側から和室に移動すると布団の上で膝を抱えて座り、テレビをつけた。あの男がどうなったのか、気になった。

 ちょうど、朝のニュースが始まったところだ。番組のイメージキャラクターが時刻を告げる。そして、最初に報じられたニュースで、何度も見たあの目つきの悪い男の顔が映し出された。

 殺人事件の犯人が逮捕されたニュースだった。


 わたしは殺せなかった。小刀を握り締めて三歩目を踏み出したとき、ふいに恐怖に駆られた。相手の反撃にあい逆に殺されることが怖かったのでもなく、殺人者になることが怖かったのでもない。例え憎い相手とはいえ、殺害することを考えた自分が怖かったのだ。自分自身が堪らなく恐ろしかった。

 気がつくと、わたしは走ってその場から逃げ出していた。どこまで走ったのか分からないが、とにかく走った。息が続かなくなり、足がもつれて転倒すると、強烈な吐き気に襲われて嘔吐した。

 がたがたと震えながら起き上がると、しんしんと降る雪の向こうに赤いランプが見える。

 交番だ。わたしはよろよろとした足取りで交番に向かう。そして、そこで事情を説明した。事件直前に本当は不審人物を目撃していたこと。その人物を自身で探し、見つけたこと。それを筆談ですべて警察に話した。

 しかし、殺害しようとしていたことだけは言えなかった。そんな恐ろしいこと、とてもじゃないが話せるはずもなかった。

 薄暗い部屋でニュースをぼうっと見ていると、犯人の男はあっさりと犯行を認め、自宅から血液の付着した作業着も見つかったとのことだった。犯行の動機は、ただ殺人に興味があっただけだと供述しているらしい。

 そんな理由で、わたしの両親は殺されたのか。そんな理由で――。

 おぞましい、と感じた。

 わたしの中にも一時的に芽生えた黒い感情。それが誰の心の中にも息を潜めているのだろうかと考えると、気温によるものとは明らかに違う寒気に襲われた。怖くて堪らなくなり、テレビのスイッチを叩くように消すと、布団に潜り込んだ。

 両親は、わたしに仇をとってもらいたかっただろうか。父と母を思い浮かべる。『琴里は優しい子ね』そう言ってわたしの頭を撫でる母。『どんなことがあっても、人を傷つけるような人間になってはいけない』真っ直ぐな、強い瞳で言い聞かせる父。

 これでよかったんだよね?

 声は出なかったが、口をそう動かして遺影を見る。写真の中で優しく笑う父と母の顔に、涙がやっと溢れ出した。

 会いたいよ、お母さん、お父さん、寂しいよ。心の中でそう叫びながら、涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃの顔を隠すようにして毛布にくるまる。そして、自分では気がつかなかったが、相当疲れが溜まっていたのだろう。まるで、気絶するように深い眠りについた。


 それから数日後、わたしは心療内科を訪れた。事件後にも何度か来た場所だ。犯人が逮捕されたことで失声症も治るかと思われたが、未だに声は出ないでいた。失声症はほとんどの場合、一週間ほどで治るものらしいが、まれに一年以上かかることもあると聞いた。それは鬱を併発したり、他の精神病を発症した場合に起きる現象だという。

 鬱や精神病。わたしもそうなのだろうか。声が出せないこと以外は、身体も心もいたって正常に思えるが。

「そういえば、琴里ちゃんって高校はどうするの?」

 頑丈そうな机を挟み、向かい合って座っているカウンセラーの小西(こにし)先生が何気なく言った。

 高校――。学校でも担任の教師に進路について訊かれたが、全然決まっていない。わたしは首を横にぶんぶんと振ると、小西先生はなにやら考え込んだ。

 小西先生は、すらっと背が高く、白衣がよく似合うかっこいい女性だ。一見すると冷たそうな顔をしているが、話していると優しいし、さばさばしていて面白い。

 それにこの診察室は好きだ。全体的に白と黒を基調としていて。わたしの描く鉛筆画と似ていた。

「琴里ちゃん、特別支援学校って知ってる?」

 聞いたことのない単語が耳に入ってきたので、また首を横に振る。

「はっきり言わせてもらうわね」小西先生はそう前置きした後に続けた。「失声症は原因となった心理的要因が解消されれば治るものなの。でも、その原因が私には分からない。要するに私の能力不足ね」

 そんなことはない。小西先生には精神的に随分助けられた。壊れそうな心を繋ぎ止めてくれたのもこの人だ。そう訴えるような視線を向けると、わたしの言いたいことが伝わったようだった。

「琴里ちゃんは優しいね。でも、いいの。自分の力が足りないことは自分が一番理解しているつもりよ」

 小西先生は一瞬、辛そうな表情を見せた。なにかあったのだろうか。

「それよりも、ほら、これ」

 机の引き出しからなにか、パンフレットのようなものを取り出し、わたしに手渡した。

『花鳥風月』と書かれている。表紙の写真を見ると、学校のようだ。さっき言っていた、特別支援学校というものだろうか。

「その学校でね、私の知り合いがスクールカウンセラーをやってるの。私と違って優秀なカウンセラーだから、そこに通いながらカウンセリングを受けてみたらどうかな?」

 パンフレットに目を通してみる。豊かな自然に囲まれた場所にある、全寮制の学校らしい。わたしの住む街からそれほど離れていない。しかし、障害者が通う学校のようだが、一時的に声が出なくなっただけのわたしが通ってもいいのだろうか。

 わたしは机の上にあるボールペンを手に取り、メモ帳に『わたしでも入学できる?』と書いた。

「訊いてあげようか」

 そう言うと返事も聞かず、机の隅に置かれた電話機の受話器を上げてパンフレットに記載されている電話番号にダイヤルした。行動が早い人だな、と思う。時間の使い方が上手いのだろうか。わたしなんて、モタモタしているうちに貴重な時間を無駄にしていることがよくある。

 しばらく電話の向こうの相手と会話を交わした後、小西先生は受話器を置いた。

「校長と名乗る人が電話に出たから事情を話してみたら『構わんよ、小さいことは気にするな。がっはっは』だってさ。あれは本当に校長かしら」

 ひどい言いようだが、小西先生は笑いを堪えていた。電話の相手が感じのいい人だったのだなと分かる。

 どうしようかな、と少し考えて膝の上のパンフレットに目を落とす。開いていたページの写真に学校の屋上からの風景があった。小高い丘の上にある学校なのか、青々とした木々が眼下に広がっており、美しいと素直に思える景色だ。

 なんの根拠もないが、この学校でなにか大切なものが見つかるような、そんな気がした。


 四月。祖父の家の庭にある桜の木は、淡いピンク色の花を咲かせていた。桜舞う庭で空を見上げる。絵の具で塗ったような、鮮やかな青空が広がっていた。色々と辛いことがあったけど、きっと大丈夫。

 わたしは大きめの鞄を肩にかけると、新しい生活に思いを馳せながら歩き出した。笑顔は絶やさない。『笑顔が幸せを運んでくれる』母はそう言ったのだから。


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