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ミッシング・ピース  作者: ぱせ
二章 琴里
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 生まれたとき、小鳥のように可愛い声で泣いた。そんな理由で『琴里』と名付けられた。わたしはこの名前が大好きだった。そして、この名前をつけてくれた、優しい両親のことも大好きだった。

 わたしの声には不思議な力があると、誰かが言った。きっかけは近所の犬だ。

 小学生の頃、通学路の途中の家で『タロ』という名前の大きな犬が飼われていたのだが、このタロは非常に凶暴な犬でみんなから恐れられていた。通りかかった子供に柵越しとはいえ、ものすごい剣幕で吠えるのだ。飼い主のおばさんがいくら躾けをしようとしても治らないし、あまりにみんなが怖がるので、わたしはタロのもとへ行き、こう言った。

「大丈夫。吠えなくても、タロをいじめる人なんていないよ」

 柵の隙間から手を入れると、一緒に来ていた友達は遠くから「噛まれるよ」と怯えた声を出していたが、タロの頭を撫でると、気持良さそうな顔で尻尾を振っていた。

 その日以来、タロは通行人に対して吠えなくなった。みんなはそれをわたしの声が魔法の声だからだと言った。でも、わたしはそうは思わない。タロは人間を怖がっていただけだ。だから、わたしはタロと仲良くなりたかった。友達になれば、きっと話を聞いてくれる。ただ、それだけのことだった。


 もし、本当にわたしの声が魔法の声なのだとすると、中学三年生になった今でも、それは健在だということなのかもしれない。わたしの周りにはなぜか、人が集まる。わたしの周りは絶えず、笑顔が溢れていた。携帯電話のアドレス帳のメモリはすでにいっぱいになってしまっていて何かと大変なこともあるが、毎日が楽しかった。

 友達と過ごす時間も好きだったが、わたしにはもう一つ、好きな時間がある。休みの日にスケッチブックを持って街を散策するのだ。そして、綺麗な景色を見つけたら、どこだろうと座り込んで、鉛筆でスケッチを始める。

 そうして一人で静かに過ごすのも、大勢で賑やかに過ごすのも、どちらもわたしにとって大切で幸せな時間なのだ。

 今日も朝からトートバッグの中にスケッチブックと鉛筆、母に作ってもらったお弁当と水筒を入れると自宅を出発した。今日はどこに行こうか。気分が高揚していくのを感じながら、住宅街を軽快に歩きはじめた。

 途中でタロのもとに寄る。タロは柵の隙間から鼻だけを出して、うつ伏せになっていた。わたしが近づくとタロは弱々しく尻尾を振る。

「なんだか今日は元気ないね」

 タロの頭をわしわしと撫でながら言う。空色をした三角形の大きな犬小屋には『ジロ』と書かれている。ジロとは、タロの兄弟の名前だ。

 元々、タロとジロは捨て犬だった。仔犬の時に捨てられ、心無い人にいじめられていたところを、この家の主人に拾われたのだという。二匹の名前は、実在した有名な犬の名前からとったと聞いたが、わたしはよく知らなかった。

 拾われたとき、タロは傷だらけだったらしい。ジロは臆病な犬で、いじめられても怯えるだけだったが、タロはジロを守る為に闘っていたという。タロが通行人に対して異常に警戒心が強かったのも、それが原因だったのだろう。

 二匹がこの家に拾われて暫くした後、ジロは別の家に引き取られ、現在でもそこで幸せに暮らしていると聞いた。タロが寂しくないようにと、ジロの匂いの残る犬小屋を、今ではタロが使っているのだそうだ。

「また、帰りに寄るね」

 そう言って、タロの頭をぽんぽんと軽く叩き、タロと別れた。

 赤いレンガ造りの並木道をてくてくと歩いていると、強めの風が吹き付けた。その風は少し冷気を含んでおり、肌寒い。冬がもうすぐやってくる気配がした。

 わたしは並木道を逸れて、マンションと雑居ビルの間の狭い路地を進み、広めの道に出る。すると、ちょうどバス停にバスが停車していたので飛び乗った。どこへ向かうバスなのかも分からない。そうやって最近は思い付きだけでふらふらと知らない街へ行ってしまう。歩いていける場所は、もうほとんどスケッチの被写体となってしまったのだから仕方ない。

 けれど、知らない街で素敵な風景を見つけたときの喜びは、まるで大冒険の果てにずっと探していた宝物を見つけたような、そんな嬉しい気分になる。

 しばらくバスに揺られ、気づけば終点まで乗ってしまった。バスを降りた先には高層ビル群が立ち並んでいる。どうやら辿り着いたのはビジネス街だったようだ。公園などの自然が多い場所があればいいのだが、その望みは薄いかもしれない。お洒落なカフェでココアでも飲みながら、店内をスケッチしようか。それとも、乱立するビル群を描くのもたまには面白いかもしれない。なんだか楽しくなってきた。わたしはブーツの底をアスファルトの歩道に響かせ、軽い足取りで身を翻した。


 意外なことに、ビジネス街のど真ん中に大きな公園があった。広大な芝生と池があり、滑り台やジャングルジムなどが全部合体したような巨大な遊具が目を引いた。平日ならば、サラリーマンやOL達の憩いの場になっているのだろうか。今日は日曜日なので、カップルや家族連れが多かった。たくさんの笑顔と笑い声がここにはある。人の笑顔を見ると、幸せな気持ちになる。なんて美しいのだろうと胸が高鳴る。そんな風に感じるのはわたしだけだろうか。

 わたしは木製の柵に囲まれた池のほとりに置かれたベンチに腰掛けるとスケッチブックを開き、さっそく鉛筆を走らせた。鉛筆で描くのはこだわりがあってのことだ。色を付けてしまうと、それは写真と変わらないような気がする。絵を見た人それぞれが、風景の彩りを想像してほしい。そうすれば、その絵は何通りもの色彩を放つのではないかと、そう思っている。

 それならば、白黒写真を撮ればいいと思われるだろう。しかし、風景を一瞬で切り取ってしまうのは、なんだか味気ない。今、目の前にある風景は、別に逃げたりはしないのだから、ゆっくりと自分の手で描いていきたかった。

 スケッチに没頭していたため気づかなかったが、いつの間にかわたしの隣に小学校低学年くらいの小さな男の子が座り、絵を描く様子を目を輝かせて見ていた。邪魔をしないようにと、黙って見ていた姿がなんだか可愛らしい。

「君の顔、描いてあげるね」

 わたしは人物画も得意だったので、描きかけのページをめくり、まっさらなページを開いた。男の子は、ぱっと明るい顔になる。

「何年生?」

 鉛筆を動かしながら訊ねると「三年生」と、男の子は答えた。人物画を描く場合、モデルが退屈しないように会話をしながら描くようにしているので、さらに会話を続ける。

「そうなんだ。名前は何て言うの?」

「マモル」

「今日は誰と遊びに来たの?」

「うーんとね、お母さんと、お父さんと、お兄ちゃん」

 男の子は、人懐こい笑顔でわたしの質問に答えていった。とりとめもない世間話をしているうちに、あっという間に似顔絵は完成した。わたしはそのページを丁寧に切り取り、マモルくんに手渡した。

「ありがとう、おねーちゃん!」

 似顔絵を受け取ると、マモルくんは満面の笑みを浮かべて走って行った。遠くの方でマモルくんが誰かに似顔絵を見せて喜んでいるのが見える。家族だろうか。両親と思われる男女と、お兄さんと思われる栗色の髪の少年が見えたが、遠すぎて顔は確認できない。母親らしき女性が、こちらにお辞儀したので、わたしもお辞儀を返した。

 それから描きかけの風景画を完成させると、池に一艘だけ浮かぶボートをぼんやりと眺めながら、お弁当を食べる。ボートに乗っているのはカップルだろうか。遠くて性別くらいしか判別できない。男性がゆっくりとオールを動かすと、ボートも同じだけゆっくり進む。頬杖をついてそれを見ている女性はとても幸せそうだった。わたしはさっき描き終えたばかりの風景に、ボートに乗る男女を描き加えると、満足げな気持ちでベンチから立ち上がった。

 公園内の高々とそびえる時計を見上げると、短針が午後二時を指したところだった。まだ帰るには早いかなと思ったが公園を出る。

 わたしは方向音痴なので、とりあえずここがどこなのか把握しておかないと、帰れなくなる恐れがあった。路上に設置されている、現在地周辺の地図を確認すると、近くに駅があるようなので、そこに向かってみることにする。

 駅はすぐに見つかった。切符売場の上部に備え付けられた路線図を見る。すごく遠くへ来たと思っていたが、そんなことはなかった。自宅の最寄り駅から二駅ほどしか離れていない。電車ならすぐに帰れることが判明したので、もう少し周辺をブラブラと散策しようと駅を出る。

 わずかに太陽が陰りを見せ一段と寒くなった。上着を持ってくればよかったと少々後悔する。それならば温かいココアでも飲もうと周りの景色に目を凝らすと、遠くに喫茶店らしき店を見つけた。

 店の前まで来てみると、そこはこぢんまりとした、かわいらしい店だった。ドアにぶらさがった木製のプレートに『strings』と店名が掲げられている。ストリングス。弦楽器のことだろうか。ドアを押し開けると、ちりん、と来客を報せる小さな鈴が静かに鳴った。

 芳しいコーヒーの香りと、ゆったりとしたメロディに包まれた店内は落ち着いた雰囲気だった。ちょっと大人っぽい感じの店だったので、なんだか緊張しつつ、店の隅のテーブル席に座る。

「いらっしゃいませ」

 口髭を生やした、初老の渋いマスターが注文を取りに来た。

「ココアってありますか?」

「はい、ございますよ」

 コーヒー専門店かもしれないと思ったが、思い切って訊いてみて良かった。コーヒーはちょっと苦手だったからだ。マスターは一礼をしてカウンターへ戻って行った。

 改めて店内を見渡す。まず目についたのが、壁に飾られたバイオリンやアコースティックギターだ。店名のイメージがしっくりきた。木造の店内はレトロな家具で揃えられており、窓はない。全体的に薄暗い感じだったが、間接照明がオレンジ色のあたたかな光を放っている。カウンターの向こうにはレコードプレーヤーにセットされたレコード盤が回転していた。客はわたし以外には、四十代くらいの女性が一人いるだけだ。綺麗な人だったが、なんだか悲しそうな瞳をして、カウンター席に座っていた。

「お待たせいたしました」

 マスターがココアを運んでくると、ほのかに香る甘い匂いが鼻腔をくすぐる。少し冷ましてからココアを一口飲むと、全身に幸福感が滲み渡るようだった。今までに飲んだココアとは、明らかにレベルが違う。

「おいしい」と、思わず呟いてしまったが、すでにカウンターに戻ったマスターには聞こえなかったようで、熱心にグラスを拭いていた。

 静かだった。まるでこの店内だけ、時間の流れがゆっくりになってしまったかのような穏やかな空間だ。わたしはバッグからスケッチブックを取り出し、店内のスケッチを始める。鉛筆が紙の上を滑る音がやたらと大きく聞こえたが、構わずに続けた。


 スケッチに没頭すること二時間。絵は完成した。満足する出来映えだ。しかし、失敗に気づいた。カウンター席に座っていた女性も描き込んでしまったのだが、緻密に描きすぎて顔がはっきりと判別できてしまう。

 許可もなく、個人を特定できる絵を勝手に描いてしまった。女性は三十分ほど前に会計を済ませて出ていったので、今から追いかけても見つからないだろう。どうしよう。

 別に法に触れたりはしないだろうが、写真を隠し撮りでもしたような感じがして気が引ける。仕方ないので、この絵はこの店に置いていくことにする。きっとマスターが処分してくれるだろう。店内が描かれたページを切り取ると、裏に『ココアおいしかったです』と書き、それをテーブルの上に残すと会計をして店を出た。

 喫茶店に長居しすぎたため、少し帰りが遅くなってしまった。最寄り駅の改札を抜け、見慣れた住宅街を早足で歩く。太陽が西の空に沈みかけていた。自宅への帰路を急ぐ途中、一軒の家の庭を柵越しにのぞきこむ。帰りに寄ると約束したタロの家だ。

「タロ、おいで」

 三角形の大きな犬小屋に話しかける。しかし、出てこない。いつもなら、匂いと足音だけでわたしが来たことに気づいて、尻尾を振りながら寄ってくるのに。

「タロ?」

 なんだか不安に駆られて何度も呼びかけていると、飼い主のおばさんが家から出てきた。おばさんは悲しそうな表情でわたしを見つめると、躊躇いがちにゆっくりと口を開いた。


「お帰りなさい。遅かったわね。今日は随分と遠くまで行ってたのかしら?」

 自宅のドアを開けると、ちょうど洗面所から出てきた母が優しい声で出迎えてくれたが、すぐにわたしの異変に気づいて近づいてくる。

「琴里、どうしたの?」

 母はわたしと同じ目線になるように膝をつき、玄関に立ち尽くすわたしに向かって心配そうに訊ねる。

「タロが、タロが死んじゃった」

 掠れた声でそう言うと、堰を切るように涙が溢れ出して、いくつもの雫がぽろぽろと落ちた。呼吸ができなくなるほどの悲しみに胸が裂かれ、立っていられなくなった。

 母はそんなわたしを抱き留め「辛いね」と頭を撫でる。

 わたしは母の胸の中で、まるで小さな子供みたいに声をあげて泣きじゃくった。


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