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ミッシング・ピース  作者: ぱせ
一章 涼子
6/36

6

 

 梅雨の季節を迎えた。このところ雨の日が続いている。窓の外に目をやると赤や黄の傘の花を咲かせた小学生が数人、駆けて行くのが見えた。水たまりに落ちる雨の雫が波紋をつくる。その波紋があたしの心にも広がっていく。原因は友美だ。

 友美は相変わらずこんなあたしに会いに来る。今はドア越しではなく、部屋の中で話すようになった。しかし、最近の友美はかなり疲れているように見える。当然だろう。学校へ行って、その帰りにあたしの家に寄り、夜は遅くまで勉強しているのだ。

 あたしは友美の負担になっている。

 あたしが元気を取り戻せば問題はないのだろう。でも、駄目なのだ。左腕を失ったことで傷ついた心は友美の優しさでも、時間の経過でも、癒える気配がない。

 もし友美が受験に失敗したら、あたしの責任だ。勉強に専念しろと説得したところで素直に首を縦に振るとも思えない。

 どうしたものか。すっかり錆びついている脳を働かせる。

 何か月か前に友美と一緒に本屋へ行ったときのことを、ふと思い出した。

 あたしはクローゼットにしまい込んだロングコートのポケットを探る。

 あった。ポケットから取り出したのは、折り畳まれたパンフレットだった。『花鳥風月』と書かれた表紙をめくり、目を通す。

 特別支援学校。『障害者等が幼稚園、小学校、中学校、高等学校に準じた教育を受けること及び、学習上、又は生活上の困難を克服し、自立が図られることを目的とした学校』と、説明書きされていた。

 この学校はそれほど大きな学校ではないようだが、全寮制だった。視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者、肢体不自由者だけでなく、日常生活に支障をきたす病気を患っている場合でも入学できる旨の記載がある。

 あたしは肢体不自由者だから入学はできる。そして全寮制。

 その時、あたしはひとつの決断をした。


 父が仕事から帰宅し、いつも通り家族三人で夕食をとる。いつもなら食べ終わるとすぐに自分の部屋へ戻っていたあたしだったが、今日は両親に話があったため、そのままダイニングルーム残った。

「涼子、コーヒー飲むでしょ」

 食器を洗い終えた母が訊ねるので、頷く。

 ダイニングルームの食卓から居間に移動すると、ソファに腰掛けた父がテレビを観ている。あたしもソファに座り、テレビに目をやると、毎週放送されているサスペンスドラマが始まったところだった。

 最近、父とはろくに会話をしていない。父は無口で、しかも仕事の関係で出張が多く、家にいないことが多いので仕方ないのだが。

 以前、酔っ払った父が言っていた言葉をなんとなく思い出す。

『人に迷惑をかけるようなことをしなければ、子供は自由に生きればいい。親が子供を縛り付けるべきではない』と。

 昔も今も、その教育方針は変わっていないと思う。でも、今のあたしは人に迷惑をかけて生きている。父はあたしに幻滅しているだろうか。

 母が三人分のコーヒーをテーブルに置くと、ソファに腰掛けた。

「あの女教師が犯人ね」

 母がテレビの画面に向かって、自信ありげに言った。

「それはないだろう」

 すかさず父が反論する。あたしが事故に遭うまではサスペンスドラマの犯人当ては我が家の恒例となっていた。ドラマの内容はよく分からなかったが、あたしもあの女教師は犯人ではない気がする。しかし、それを口には出さなかった。

「話があるんだけど」

 あたしは父と母を真っ直ぐに見つめてそう切り出すと、折り畳まれたパンフレットを取り出してテーブルに広げた。

「特別支援学校?」

 母が不思議そうな表情でパンフレットを眺める。

「障害者のための学校なの。あたし、ここに通いたい」

「でも、また学校に行きたいなら普通の学校に――」

 母がそう言いかけたが、それを遮るようにあたしは続けた。

「周りの視線が気になるの。左腕の無いあたしを、周りがどんな目で見ているのか考えると怖いの。でも、この学校なら、みんな同じ境遇だもん。差別的な目で見られないわ」

 それを聞いた父が「花鳥風月か」と低く呟いた。

「あなた、この学校知ってるの?」

 母が驚いたような口調で父に訊ねた。

「会社の取引先に輸入雑貨を扱う会社があってな。そこの社長の子供は脚が不自由なんだが、この春この学校に入学したらしい。優秀なスクールカウンセラーがいることで有名だと聞いたことがある」

 スクールカウンセラー。たしか学校で生徒の悩みや相談を聴くカウンセラーのことだ。パンフレットにはそんなカウンセラーの存在は書かれてはいなかった。

「そのスクールカウンセラーなら、涼子の心の傷を癒せるかもしれないな」

 父はそれだけ言うと、またテレビに目を向けた。素っ気ない態度に見えたが、父の目には満足気な光が宿っていた。無気力になっていたあたしがなにか行動を起こそうとしたことが素直に嬉しかったのかもしれない。

「じゃあ、明日にでもこの学校に連絡してみるわね。色々と手続きもあるだろうし」

 母は如才なくそう言うと、パンフレットに目を通し始めた。父はあたしがこの学校に通うことに対して明確な答えは出してないはずだが、母には父の考えていることが手に取るように解かるのだろう。長年連れ添った夫婦というものはすごいな、と改めて思った。

「それにしても随分と遠いところにあるのね、この学校。それに全寮制か。暫く涼子に会えなくなっちゃうのね」

 母の寂しそうな声に、少しだけ胸が痛む。あたしは嘘をついた。本当はこの学校に通いたいわけではない。遠い学校での寮生活ならば、もう友美の負担にならなくて済む。それに、あたしは自分のことを誰も知らないところで一人になりたかった。ただ、それだけのことだった。

 罪悪感のようなものを感じながら母の淹れてくれたコーヒーを啜ると、なんだか懐かしい味がした。温かなぬくもりのようなものが喉を通り過ぎる。

 やがて、テレビの画面には崖の上で泣き崩れる女教師の姿が映し出された。

 母が「ほらね」と得意げに笑うと、父は「脚本が悪い」と負け惜しみを吐き捨てるように言った。


 一か月後。特別支援学校『花鳥風月』への転入は滞りなく進んだ。

 あたしは新幹線の中で車窓からの景色を眺めていた。今は夏休みなので授業はなかったが、少しでも早く一人になりたかったため、早々に家を出ることにしたのだ。

 母は学校までついてきてくれると言ったが、断った。これであたしはもう、一人だ。不安もあるが、暫くは静かに暮らせるだろう。一息ついて目を閉じると、暫く、わずかに感じる電車の振動に身を委ねる。

 隣の席には必要最低限の荷物だけを詰めた大きめのバッグが置かれている。バッグのジッパーを開けると、不細工なクマが顔を出す。駅まで見送りに来てくれた友美があたしに強引に持たせたものだ。

『そのクマさん、私の宝物なんだから、絶対返してよね』

 友美は自分の鞄にぶら下がっているクマを取り外してあたしに渡し、そう言った。離れていても繋がりを残しておきたかったのだろう。別にもう二度と会えないわけじゃないのに、友美は大袈裟だ。

 ともあれ、これで友美は勉強に専念できるだろう。少しほっとしてクマの頭をぽんぽんと叩く。何度見てもかわいくないクマだ。でも、今のあたしにはお似合いの相棒かもしれない。そう思い、自嘲気味に笑った。


 目的の駅に新幹線が到着すると、そこからさらに電車とバスを乗り継ぐ。そして、あたしを乗せたバスはやがて寂れたバス停に停車する。周辺には山や田圃しかなく、高い建物は見当たらない。随分と田舎だ。バスを降りると、むっとした空気に包まれる。左腕が目立たないように長袖を着ている為、すぐに汗が滲んできた。

 創一くんと出会った日もこんな暑い日だったっけ。なんとなしに思い出すと、激しい頭痛に襲われ、思わずしゃがみ込んでしまう。ここのところよくあることだ。去年の夏のことを思い出そうとすると、頭痛に襲われる。あたしの脳の奥底が嫌なことを思い出すなと、警告を発しているように思えた。

 地図を頼りになだらかな坂道を登っていくこと十数分。息が切れ始めた頃に大きな建物が見えてきた。白を基調とした綺麗な学校だ。確か、設立からまだ五年くらいしか経っていないらしい。周りには自然が多いので、生活環境としては良さそうだ。

 校門の辺りに人影が見える。女性のようだが、誰だろうか。近づいていくと、その人物は眩しいほどの笑顔で「涼子ちゃんね?」とあたしの名前を呼んだ。学校の職員がわざわざ出迎えてくれていたようだ。

「はじめまして。スクールカウンセラーの柳井(やない)です」

「柳井……先生」

 あまりにも深いお辞儀をしながら自己紹介され、あたしは戸惑いながら名前を復唱した。

「先生って呼ばれるのは苦手だから、柳井さんとかでいいわ。なんなら、柳井ちゃんでもいいし、呼び捨てでもいいよ」

「柳井さんにします……」

 これだけの会話で変わった人だと分かった。スクールカウンセラーと名乗ったが父が言っていた優秀なスクールカウンセラーとはこの人のことだろうか。とてもそうは見えない。白衣を着てはいるが、白衣の下はポップな柄のTシャツにダメージジーンズ、靴はハイカットスニーカーと、やたらラフな格好だ。お洒落ではあったが、あたしの中のカウンセラーのイメージとは、かけ離れていた。

「今、夏休みだから、先生方があまりいなくてね。私が寮まで案内するわね」

 柳井さんは嬉しそうな顔で言うと、軽快に歩き出す。それにしても、この人は何歳なのだろう。やたらと若く見える。身長も百五十センチあるかないかくらいだろう。あたしより遥かに低い。訝しげな表情で彼女を見ていると、そんなあたしの顔を見て柳井さんが言った。

「あ、私は三十三歳よ」

 その言葉にどきっとした。なぜあたしの考えていることが分かったのだろう。カウンセラーを生業としている人間は、人の心までも読めてしまうものなのか。

「初対面の人にはね、大体そんな顔されるの。年齢不詳だぞって顔」

 なるほど、と納得する。

「でも、若く見えますよね」

「よく言われるんだけどね。でも近くで見るとそうでもないのよ。ほら、こことかここに小皺がね」

 あたしに顔を近付け、目尻や口元を指さして彼女は苦笑した。


 校舎の正面入り口から入り、そのまま校舎の中を真っ直ぐ通り抜けると、渡り廊下へと出た。渡り廊下を進み、寮と思われる建物の中に入ると冷房がよく効いていて、汗を吸ったシャツが冷たくなっていった。光を多く取り込めそうな大きな窓と、真っ白な壁が特徴的な廊下を歩いていくと、柳井さんはある一室で立ち止まる。

「ここが管理人室よ。涼子ちゃんの使う部屋がどこか訊いてくるから、ちょっと待っててね」

 そう言うと、柳井さんは部屋の中に入って行った。

 わずかに風の音を感じて窓の外へ目を向ける。そこからは広い中庭が一望でき、一際目を引く噴水から流れ落ちる水が風に揺られてキラリと輝いていた。噴水に飾られた今にも飛び立ちそうな天使の像と流水の輝きが相まって幻想的な光景を作り上げている。

 昔のあたしならば、そんな光景にも感動できたのかもしれない。でも今のあたしにはどんなに綺麗な景色も、人とは違うフィルターを通してしか見れないのだろう。どこか冷めた目でしか見られなくなっていた。

 そんな自分に慣れていく。こうやってどんどんと卑屈な人間になっていくのだろうかと思うと、なんだか悔しくなる。心までも凍りついてしまいそうで、冷たい廊下から逃げるように、窓を右手で勢いよく開け放つ。

 生暖かく強い風が細身の身体に容赦なく吹き付けた。長い黒髪と一緒に左手の長袖が不自然にたなびく。あたしはそれを右手で捕まえ、唇を噛みしめると呼吸が苦しくなり、立っていられなくなる。握りしめた右手の指に、服の生地だけが虚しく食い込んでいた。

 五分ほどで柳井さんが出てくると、廊下にしゃがみ込んでいるあたしを見て、慌てて駆け寄ってきた。左肩辺りを掴んで震えていたため、何かを察したのだろう。さっきまで無邪気な顔をしていた柳井さんはまるで聖母のような優しい顔になり「大丈夫よ」と囁くと、左肩を掴んでいる右手を包み込むように、そっと握ってくれた。

「もう平気です」

 なんだか楽になった。優秀なカウンセラーというのは本当らしいが、それは技術的なものではなく人間的なものなのだろう。

「じゃ、行こうか」

 柳井さんはまた、無邪気な顔に戻っていた。コロコロと表情が変わる、見ていて飽きない人だ。

「あ、そうそう。実はね、涼子ちゃんは夏休みが終わってから転入してくると勘違いしていたみたいで、使うはずだった部屋がまだ内装を工事中らしいのよ。それで、暫くは相部屋になるけど、いい?」

「構いませんよ」

 本当は一人が良かったが、少しの間ならいいかと思い、了承した。

「そう、良かった。同じ部屋の子。いい子だから」

 穏やかな顔で言う。いい子、か。どちらにせよ、あたしは誰とも仲良くなる気はない。そんなどんよりとした暗い感情が、あたしの精神を支配している。

 しかし、なぜだろう。曇り空にぽつぽつと光が射すような感覚がある。柳井さんに不思議な魅力があるからだ。彼女の言葉はすんなりと心に届く。もっと話をしたいと、そう思わせる。両親とすらほとんど話さなかったあたしが、気が付くと口を開いているのだ。

「この学校って、変わった名前ですよね」

 廊下に貼られた掲示物の『花鳥風月便り』という文面を見ながらあたしは言った。

「そうね。老人ホームみたいよね。でも、私は好きよ」

「どうしてですか?」

「花鳥風月の意味ってわかる?」

「えっと、花は植物、鳥は動物、風は自然、月は天体で、美しい風景を表わす言葉ですよね」

 以前、国語の授業で習ったことをなんとなくそのまま憶えていた。

「そう。でもね、この学校の名前の意味はちょっと違うのよ」

 やけにキラキラとした瞳で柳井さんは教えてくれた。

「花は幸せな笑顔、鳥は優しい言葉、風は清らかな行動、月は穏やかな心。人間の美しさを表していてね、生徒たちにはそんな『花鳥風月』を持った人間になって欲しいって願いが込められているんだって、校長先生が仰ってたわ」

 そんな意味が込められていたとは知らなかった。でも、今のあたしは、そのどれひとつ持っていない。なんだか悔しかった。

「あたしは、残念ですがそんな生徒にはなれません」

 自分でも驚くほどに、悲しい声で呟くように言うと、柳井さんはふふっと笑った。

「大丈夫。ゆっくり取り戻せばいいのよ」

「え?」

 どういうことだろうと訊き返したが、柳井さんは白衣を翻して、また歩き始めた。

『ゆっくり取り戻せばいい』

 彼女は確かにそう言った。まるで、昔のあたしを知っているかのような言葉だ。

 いや、違う。もうカウンセリングは始まっていたのだ。この短時間ですでに、あたしが左腕を失くしたショックで自暴自棄になっていることを彼女は見抜いていたのだ。

 取り戻せるだろうか。左腕とともに失った色々なものを、あたしは取り戻すことができるだろうか。

「取り戻せますか、あたし!」

 心の声は吐き出され、叫んでいた。静かな廊下にあたしの声が反響する。先を歩いていた柳井さんは振り返って言った。

「自分に対してとことん正直になれば、きっとね」


 あたしはドアに『A・三○一』のプレートが貼ってある三階の部屋に案内された。

 結構広い部屋だった。テレビ、タンス、クローゼット、勉強机と一通り家具は揃っており、中でも目を惹いたのは二段ベッドだった。あたしは一人っ子なので二段ベッドは初めて見た。タンスと勉強机が二人分あったので、元々、二人部屋だったのだろうか。相部屋だと言っていたが、ルームメイトは出かけているのか、いない。

 少しだけ開いた窓から僅かに風が入ってきてはいたが蒸し暑かったため、エアコンの電源を入れる。ピッという電子音と共に、エアコンから冷風が吐き出された。窓を閉めようと近づくと、遠くの空に入道雲が見える。

「綿菓子、か」

 いつかの屋上での会話を思い出す。ずきっと頭痛がした。まただ。この頭痛は、いつまであたしを苦しめ続けるのだろう。忌わしいものを封印するかのように、窓を強く閉めた。

 タンスを開けると、可愛らしい女の子用の衣類が詰まっていたので、閉じる。もう一方のタンスを開けると、こちらは空っぽだった。あたしは衣類をタンスに入れようとバッグを開けると、シャツを一着、二着とバッグから取り出していく。

 シャツはすべて長袖だ。悲しくなる。シャツを取り出す右手が、段々と乱暴になっていく。最後の長袖のシャツを掴むと、悔しさが抑え切れなくなって、そのまま壁に向かって投げつけた。バッグから取り出して、傍らに置いてあったシャツも全部、壁に投げつける。くしゃくしゃになったシャツがカーペットの敷かれた床に散乱した。

 なにをやってるんだろう。こんなことしたって、結局片づけるのは自分じゃないか。やりきれない気持ちを物に当たり散らすことしかできない、自分の底の浅さが嫌になる。

 散らかったシャツを拾い集めようとしたとき、背後で物音がした。

 振り返ると、二段ベッドの上段に人影が見えた。寝ぼけたような顔をしたショートヘアの少女が、むくりと起き上ったところだった。全然気付かなかったが、二段ベッドの上段で寝ていたようだ。彼女がルームメイトだろうか。

 向こうもこちらに気づいたようで、目が合い見つめ合う。少女は大きな瞳をパチパチとさせると、人懐こい笑顔をこぼした。小柄で随分と幼く見える。

 あたしは特に言葉をかけずにシャツを拾い集め、畳み始める。しかし、上手く畳めない。片腕で服を畳むのは初めてだ。家にいた頃は母に頼りすぎていたのだなと後悔する。

 だが、片腕でも大概のことはできるようになっている。コツさえつかめばすぐに畳めるようになるはずだ。模索しながら何度も挑戦するが、やっぱり畳めない。こんなこともできないなんて。唇を噛み締めていると、さっきの少女が梯子を使って降りてきた。

 少女はあたしの隣にちょこんと座ると、あたしのシャツを畳み始めた。会話はなかったが、まるであたしに畳み方を教えるような仕草で、丁寧に畳んでいく。

「いい、自分でやるから」

 冷たく、静かに言う。しかし、少女は意に介する様子もなく、畳んでいく。

「いいってば!」

 語気を荒げ、シャツをもぎ取るように奪った。少女は不思議そうな顔であたしの顔を覗き込む。

「あんたみたいに、ちゃんと両腕があれば、服くらい畳めるわよ!」

 強めの口調でそう言うと、少女はハッとして、あたしの左腕に目を向ける。左腕が無いことに気付いていなかったのだろう。少女は俯いてしまった。

 まただ。また、なんの悪意もない人に向かって理不尽な怒りをぶつけてしまった。この子はもう、あたしなんかに関わろうとはしないだろう。

 ぽつ、ぽつ、と何かが落ちる音がした。無意識に音のした場所を見ると、茶色のカーペットに幾つかの小さな染みができており、その染みが一つ、二つと増えていく。あたしはそのまま顔を上げる。

 少女が小さな身体を震わせながら、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。

 なぜ泣いているのか。そんなこと決まっている。赤の他人が、障害者を見て思うことなんかひとつだけだ。あたしは少女を睨みつけ、叫んでいた。

「同情なんかしないでよ! 障害のある相手に優しくすることで、優越感に浸りたいだけじゃない! 自分にはちゃんと両腕があってよかったって、本当はそう思ってるくせに!」

 同情なんてただの哀れみであり、自分より不幸な境遇にある相手に投げつけられるものだ。あの子は可哀そうな子だと、そう言って見下しているのと同じだ。そんな風に思われたくない。

 少女は驚きと悲しみの入り混じった表情で、あたしの目をじっと見ていた。何も答えない。何も反論しない。きっと図星だったんだ。

「ほら、何も言えない。人の気持ちも知らないで、悲しみを勝手に共有しようとしないで」

 感情を込めずに言い放ち、そっと目を逸らす。少女は少しの間、なにやら考え込んでいたが、やがてとぼとぼと部屋を出ていった。静かな部屋にエアコンの音だけがやたらと大きく聞こえる。

 少しずつ冷静さを取り戻していくと、はっと気づいた。

 ここが特殊な学校であることを忘れていた。あの子は何も言えなかったのではなく、言いたくても言えなかったのではないだろうか。思えば、あの子は一言も言葉を発していなかった。

 途端に後悔が襲ってくる。あたしはなんて酷いことを言ってしまったのだろう。謝るべきだろうか。でも、あたしはどっちにしろ、ここで友達なんて作る気はない。一人になる為にきたのだ。むしろこれで良かったのではないか。

 ふと顔を上げると、両開きのクローゼットの片側が少し開いているのが見えた。何かがぎっしりと詰まっている。なんだろうか。クローゼットをそっと開けて、中を確認すると、冬物のかわいいダッフルコートや白いワンピース等が掛けられていたが、注目したのはそこではなかった。

 クローゼットの中に大量のスケッチブックが積まれている。一冊のスケッチブックを手に取り、床に置いて開いてみると、思わず感嘆の声が洩れた。

「すごい……」

 そこに描かれていたのは、鉛筆での風景画だった。公園の池と周りの木々、遠くにそびえるビル、それと、ボートに乗るカップルが描かれている。まるで白黒の写真のように緻密で繊細で、なによりも温かった。あの子が描いたのだろうか。

 そのスケッチブックを元の位置に戻そうとすると、大量のスケッチブックの中に一冊、やけにぼろぼろのスケッチブックがあることに気づき、それを手に取った時だった。

「涼子ちゃん」

 ふいに名前を呼ばれ、びくっとなる。部屋のドアの隙間から柳井さんが心配そうな顔をのぞかせていた。

琴里(ことり)ちゃんが泣きながら歩いてたけど、なにかあった?」

 琴里とは、おそらくあの子の名前だろう。

「柳井さん、あの子って……」

 そこまで言うと、柳井さんの表情が一変する。真剣な眼差しであたしを見据え、口を開く。

「琴里ちゃんのことを深く知るということは、琴里ちゃんの身に何があったかを知る覚悟が必要ということよ。それでも聞きたい?」

 重苦しいトーンで覚悟を問われた。興味本位で聞いてはいけない話なんだと、容易に想像できた。他人に興味を無くし、他人と関わることをやめたのはあたしだ。わざわざ面倒事に首を突っ込むことはない。

 しかし、そんな思いとは裏腹に、あたしの口からは意外な言葉がこぼれ出た。

「教えて下さい」

 あたしに決意を確認した柳井さんは悲しそうに目を伏せる、そして、振り絞るようにゆっくりと語りだした。

 それは、想像を絶する話だった。あの琴里という少女に起きた、悪夢のような出来事と、それでもなお、優しさを忘れない少女の話をあたしは聞いた。左手を失い、世界中で一番不幸だという顔をして、優しさなどはどこかに捨ててしまっていた自分を呪いたくなるほどの、恐ろしくも切ない話だった。

「そのスケッチブック、開いてみて」

 あたしの震える右手に抱かれたぼろぼろのスケッチブックを見て、柳井さんがそう促した。

 スケッチブックを床に置き、恐る恐る開く。

 そこに溢れていたのは、悲しみそのものだった。激しく揺さぶられた感情は留まることはなく、涙の雫となってこぼれ落ちた。

「どうしよう! あたし、あの子に酷いことを……! どうしよう、どうしよう!」

 嗚咽混じりに悲痛な声をあげる。あたしなんかよりも、ずっと辛い経験をした少女はあたしの為に泣いてくれた。あの涙は決して同情なんかではない。それなのに、その行為をあたしは否定し、最低な言葉を浴びせてしまったのだ。

 心の底から、昔の自分に戻りたいと願った。震える肩に柳井さんが優しく手を置く。その時、柳井さんの言った言葉を思い出した。

『自分に対してとことん正直になれば、きっとね』

 自分に正直に。あたしのすべきことは何か。今のあたしが、あの少女にできることなんて、ないかもしれない。でも、今すべきことはひとつだ。顔を上げ、柳井さんを見る。柳井さんは穏やかな表情で頷いた。

 あたしは立ち上がり、部屋を飛び出す。

 あたしがすべきことは、あの子に謝ることだ。いや、あの子だけじゃない、両親と友美にも謝らなければ。そして、創一くんにも。創一くんとの思い出が一瞬、蘇る。あたしは頭痛を覚悟し、足を止めて目を瞑る。

 頭痛は襲ってこなかった。

 もう、あたしは大丈夫だ。そう確信して、また走り出した。


 少女の姿を探して、まだ建物の構造すらよく分かっていない寮の中をただ闇雲に走る。こんなに走ったのは陸上部の練習以来だ。しかし、運動不足のためか、脚がすぐに動かなくなる。動け、動けと右手で太腿を強く叩いた。

 静かな廊下にあたしの荒い呼吸と足音だけが響く。夏休みのため、ほとんどの生徒が親元に帰っていると聞いた。ひと気が無いのはそのためだ。あたしはよろよろと階段を下りていく。

 一階まで下りると、来るときにも通った渡り廊下に辿り着いた。どうやらこの寮は、A棟とB棟の二つに分かれているらしい。渡り廊下によって校舎と寮が繋がっており、渡り廊下の先が二つの寮の分かれ道になっているようだ。隣の寮か、もしくは校舎の方にいるかもしれないと思い渡り廊下へ出ると、そこから中庭にも出られることが分かった。

 中庭には、天使の像が飾られた噴水がある。管理人室前で柳井さんを待っているとき、窓越しに見えたものだ。相変わらず、光を乱反射してきらめいている。眩しさのあまり細めたあたしの瞳は、その噴水の縁に座っている、小柄な少女を捉えた。

 見つけた。少女は寂しさを宿した瞳で俯いている。柳井さんから聞いた話を思い出し、胸がきゅうっと締め付けられた。

 許してもらえるだろうか。あたしの言葉は彼女の心を深く抉ってしまっただろう。だけど、もし許してもらえなくても、何度でも謝ろう。あたしは諦めが悪いのだ。

 二の腕の途中までしかない左腕をそっと触る。この障害とも向き合っていく。あたしはもう逃げない。逃げてはいけないと教えられた。

 教えてくれたのは、もちろんあの琴里という少女だ。あの子はとても強い。精神をズタズタにされてもおかしくないような出来事に見舞われたのに逃げたりなんかせず、あんなにも小さな体でそれを受け止めた。それどころか、笑顔を絶やさず、他人を想いやって涙を流せる優しさと強さを持っている。

 それでも、時折やってくる耐えられないほどの悲しみや寂しさは、人知れずスケッチブックに閉じ込めていたのだ。スケッチブックが、あんなにぼろぼろになるまで。

 一瞬であたしの心の闇を祓ったあの少女は、いつか見た朝陽のようだなと少し笑うと、あたしは、少女のもとへとゆっくり歩き出した。


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