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ミッシング・ピース  作者: ぱせ
一章 涼子
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4

 真紅のバイクがトンネルを抜けると、そこには海が広がっていた。そうだ。前に創一くんと一緒に朝陽を見た、あの海だ。今回は昼間に来たのだ。

 創一くんの背中は相変わらず大きくて、温かい。

 あたしは掴まる腕に力を込めた。ずっとこのままでいれたらいい。両腕で創一くんをずっと抱き締めていたい。

 すると突然、浮遊感に包まれた。バイクから振り落とされたようだ。どうして? しっかりと掴まっていたのに。

 気付くと、真っ暗な夜の海にあたしは立ち尽くしていた。さっきまで昼間だったのに、なぜ? と考えている余裕はない。バイクが道の向こうへ走り去っていくのが見えたのだ。

「待って……!」

 そう叫んだが、バイクはもう見えなくなり、赤いテールランプの残像だけが残った。茫然とするあたしの足元で、黒い波がまるで生き物のように絡みついてくる。そして、あっという間に暗黒の海へ飲み込まれた。

 嫌だ! 助けて!

 もがけばもがくほど、深く深く沈んでいく。暗い海の底では、光も声も届かない。どこにも行けない。生きることもままならない。大好きな人を抱き締めることもできない。

 やがて、どうにもならない闇と、静寂が訪れた。


 目を開けると、真っ白な天井が浮かび上がる。どうやら、夢を見ていたみたいだ。恐ろしい夢だったように思う。じっとりと嫌な汗をかいていた。

 それにしてもここはどこだろうか? 明らかに自分の部屋ではない。とにかく起きなくては。そう思い、体を起こそうとすると全身に激痛が走った。

「――っ!」

 声にならない悲鳴をあげる。どうしてしまったのだあたしの身体は。

「涼子!」

 名前を呼ぶ声がする。悲鳴にも似た悲痛な声だ。動けないあたしの顔をのぞき込む影があった。父と母、そして友美だった。三人とも泣きそうな顔をしている。友美に至ってはさっきまで泣いていたのだろう。目を真っ赤に腫らしていた。

「ねえ、あたしどうなったの? ここはどこ?」

「何も憶えてないの? 涼子はトラックにはねられたのよ」

 母が不安そうに、掠れた声でそう言った。

 それからあたしは、飲酒運転のトラックにはねられたこと。三日間もこの病院で意識不明だったこと。医者に生きていたのが奇跡だと言われたこと。全治五か月であること。怪我が治れば普通に動けるようになるから心配は無いこと。あたしをはねたトラックの運転手は飲酒運転の現行犯で逮捕されたこと。そんな話を聞いた。

 危うく死ぬところだったのか、と考えるとぞっとする。しかし、そんなことよりも気になることがあたしにはまだあった。

「お父さん、お母さん、友美と二人で話したいんだけど」

「そうか、じゃあ、何か飲み物でも買ってこよう」

 父の声がした。動けないので見えなかったが、父と母が外へ出ていくのを音で確認すると友美に訊ねる。

「創一くんは事故のこと知ってる?」

 気になったのは創一くんのことだ。あたしは結局、彼の待つ喫茶店には行けなかったのだから。

「うん。連絡はしておいた。あ、彼の携帯の番号分からなかったから、涼子の携帯のアドレス帳を勝手に見たよ」

 予想通りの答えが返ってきた。友美はこういう時、本当に気が利く。

「ありがとう、彼、なんて言ってた?」

「すごく心配してたよ。目を覚ましたって連絡しようか?」

 創一くんに会いたい。でも、包帯やギプスだらけのこんな姿を見られたくない。

「動けるようになったらこっちから連絡するから、まだ来ないようにって伝えてくれる?」

「わかった」

 あたしの考えてることを理解してくれたのだろう。友美は少し微笑んでから了承した。

 それにしても、見事なまでに体が動かない。所々、感覚もない。ちゃんと動くようになるのか不安になる。かろうじて左右にだけ動く頭を左へ向けると、窓枠によって四角形に縁取りされた空のみが見えた。

「いい天気。また創一くんのバイクの後ろに乗りたいな。その時だけはね、恋人同士でもないのに、彼のことを両腕で抱き締めることができるんだよ」

 そんな恥ずかしい台詞を、つい口に出して言ってしまった。冷やかされる。友美はきっと小悪魔のような笑みを浮かべているのだろう。ちら、と友美を見る。

 そこにあったのはどこか悲しみを湛えた友美の顔だった。

「友美……?」

「あ、そろそろ涼子のお母さんたち、呼んでくるね。せっかく目を覚ました涼子を独り占めしちゃ悪いもの」

 悲しそうな顔は一瞬だった。友美はすぐにいつもの明るい顔になって、部屋から出ていってしまった。

 友美の様子がおかしかったような気がするが、両親も友美もあたしが意識不明の間、心配でろくに眠れなかったらしいから、きっと疲れがでたのだろう。あまり気にしないことにした。


 あたしが目を覚ましてから、一週間が過ぎた。友美は毎日来てくれたし、仲の良いクラスメイトたちも様子を見に来てくれたので、あまり退屈はしなくてすんだ。

 身体も少しは動くようになってきて、右手や脚は自由になった。もう起き上がれるかもしれない。絶対安静と言われているが、いい加減ベッドの上から解放されたい。

 右手は捻挫していて痛いし、左手はまだ感覚が戻っていないので、腹筋だけで身体を起こそうと試みる。脇腹の辺りに鋭い痛みがあった。そういえば、肋骨にはヒビが入っているのだった。

 あまりの痛みにチャレンジは失敗に終わり、ベッドに倒れ込んで元の態勢に戻ってしまった。

 見飽きた空に鳥が飛んでいるのが見える。暫くそれをぼんやりと眺めていたが、鳥の姿が見えなくなると、再び腹筋に力を込めた。あたしは諦めが悪いのだ。

「ふんっ」と勢いをつけて一気に上半身を持ち上げる。頬を伝う脂汗。部屋に響く呻き声。痛みと格闘しながらやっとのことで起き上がることに成功した。

「やったぁ、一歩前進」

 車椅子でもあれば、外へ散歩しに行けるかも。窓の外に目を向けると、今まで空しか見えなかったが、中庭が見渡せた。女性看護師に付き添ってもらい散歩している老人、ベンチで本を読んでいるのは足にギプスをした少年だ。なんてことのない風景だが、そんなありふれた風景でさえ、今のあたしには新鮮だった。

 そして、何の気もなしに自分の着ている服を確認する。飾りっ気のない白い半袖のパジャマのような服だ。あたしのものではない。病院のものだろう。しかし、気になったのはそんなことではない。すぐに違和感に気付いた。

 精巧な騙し絵を見ている感じがした。あるはずのものがない。左の袖から出ているべきものがない。自分の目に映っている映像の意味が理解できなかった。震える右手を左腕へ伸ばす。

 ない。慌てて上着を脱ぐ。強引に右手でボタンを外した為、いくつかのボタンがちぎれて床に落ち、転がった。

 そして、目を疑うような、信じられない光景を目の当たりにした。

 二の腕の途中からあたしの左腕は消えており、包帯が厳重に巻かれている。目を覚ましてからずっと、左腕は怪我で感覚がないだけだと思っていたが、そうじゃなかった。腕そのものが無かったのだ。

 全身が震え、喉の奥から出したことのないような悲鳴が吐き出された。

 あたしの悲鳴を聞きつけた母が病室に飛び込んでくる。上着を脱いだ状態でガタガタと震えるあたしを母が泣きながら抱きすくめた。

「お母さんっ! 腕が、あたしの腕がないの!」

 泣き叫ぶように言うと、あたしを抱く母の手に力が込もった。これはきっと悪い夢なんだと期待していたあたしに現実であることを報せることになったのは、その母の力強い手であった。全身が凍ってしまうのではないかというくらいの寒気の中、溢れる涙だけがやけに熱く感じた。


 あたしの左腕は事故の際に損傷が激しかった為、切断するしかなかったのだそうだ。目を覚ました時、左腕があるように感じていたのは、幻肢という現象らしい。事故や手術で身体の一部を失った人間によくある症状だという。

 誰もいない病室で、医師から聞いたそんな話を何度も反芻していた。

 窓から射し込む西日が白い病室を茜色に染めている。ふいにドアが開く音がした。視線だけをドアへ向けると、友美が何も言わず立っていた。正確には、何も言えないのだろう。いつか友美が見せた悲しそうな表情を思い出す。

「友美は知ってたんだね。あたしの左腕がなくなったことも。あたしが、もう大好きな人を両腕で抱き締めることができないことも」

「涼子……」

 消え入りそうな声が聞こえた。だが、あたしは目を合わせなかった。

「あたし、友美のこと親友だと思ってたけど、違った」

「何言ってるの! 親友だよ!」

 友美が驚いたように駆け寄ってくる。

「じゃあ、何で教えてくれなかったのよ!」

 大声でそう叫ぶと友美は足を止めた。睨みつけるようにして見た友美の俯いた顔はとても苦しそうに見えたが、構わず続けた。

「友美とは何でも話せる仲だと思ってたのに」

 声が震え、さっき散々流れたはずの涙がまた溢れた。解かっている。左腕のことは、あたしを気遣って言わなかったということを、頭では解かっている。でも、止められなかった。

「もう、ここには来ないで。それから、創一くんにも会いたくないから、もう連絡しないでって伝えておいて」

 冷たく言い放つと、友美は顔を歪めて悲壮な声を出す。

「そんな、駄目だよ! 私のことはどう思われたっていい! でも、創一くんのことだけは――」

「こんな身体で、まともな恋愛なんかできるわけないじゃない! 馬鹿にしないでよ! 

もう帰って! 帰ってよ!」

 感情が爆発した。あたしは枕を掴んで友美に向かって思い切り投げつけた。

 友美は避けなかったため、顔に枕が直撃し、かけていた眼鏡が床に落ちた。眼鏡をかけていないせいか、それとも普段は見せない表情をしているせいか、友美の顔が別人のように見える。

「涼子が何と言おうと、私は親友だと思ってるから」

 友美は涙声でそう言うと、眼鏡を拾って出て行った。冷静さを失って、何もかもを壊そうとする自分はなんて弱いのだろう。あたしはシーツに顔を埋め、声を上げて泣いた。


 それから数週間が過ぎたが、あたしは完全に心を閉ざしていた。仲の良かったクラスメイトたちも来なくなった。友美はたまに顔を見せ、何やら話しかけてくるが、あたしはまるで人形のように反応しなかった。両親とですら、必要最低限の会話以外しなかった。涙は枯れ、心も枯れた。

 そして、夏休みも終わろうかというその日、彼が現れた。

 軽いノックの後、躊躇いがちに病室に入ってきた彼はやはり寝癖頭で、それがひどく懐かしく感じる。しかし、一瞥した後、あたしは窓の外を見つめたまま、目も合わせずに言った。

「帰って」

「いきなりかよ、久しぶりなのに」

 創一くんはベッドの横に置いてあるパイプ椅子に腰掛けながら明るい声を出す。無理して明るく振る舞っているということが容易に窺えた。

「帰って」

「帰んねえ」

 このままでは押し問答が続くだけだ。あたしはきっぱりと言うことにした。

「友美から聞いてるでしょ。会いたくないの。帰って」

「大事な話があるって言っただろ。まだ話してない。どうしても伝えたいから、こっち向いてくれないか?」

 大事な話。

 前に電話で、彼からその言葉を初めて聞いた時の浮ついた気持ちが、遠い昔のことのように感じる。

「聞きたくない。そんな話であたしを呼び出したりしなければ事故になんて……」

 その言葉に彼の身体が硬直するのが気配で分かった。彼のせいではないのに。仕方のないことなのに。それなのにあたしは、言ってはいけないことを口にした。

 沈黙が二人きりの病室を包む。あたしの酷い言葉に彼は怒っているだろう。でも、それでいい。もう恋なんてどうでもよかった。コトン、コトンと動き出したはずの歯車も、いつしか錆びついて動きを停止している。きっと、あたしは左腕と一緒に、彼への想いも失ってしまったのだ。

「やっぱり伝えておくよ。こっち向かなくてもいいから、聞いてくれ」

 先に言葉を発したのは創一くんだった。その言葉の続きは聞きたくない。耳を塞いでしまいたかった。けれど、片腕のあたしにそれは無理だった。

「俺は、涼子が好きだ」

 ほんの数週間前に聞いていたのならば、気を失うほどに喜んだのだろう。でも、やはり駄目だ。彼の言葉はまるで映画やドラマの中で役者が発する台詞のように現実味のない言葉に聞こえ、耳から入るだけで心には届かなかった。

「帰って」

 抑揚のない声でもう一度言うと、彼は少し考え込んだ後、パイプ椅子からゆっくり立ち上がる。ぎしっという椅子の軋む音が彼との終わりを告げる音のように思えた。

「俺、涼子のことずっと好きでいるから」

 優しい声だった。でも、それが逆に辛かった。あたしはどうやら、相手の優しさが痛みに変わる体質になってしまったようだ。

 創一くんが病室から出て行くと、夕暮れを待ち侘びていたかのように一斉にヒグラシが鳴き始める。それはまるで、夏が去っていくのを嘆く、悲しい叫びに聞こえた。


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