4
携帯電話のアラームが鳴り響く。おぼつかない指先でそれを止めると、ベッドから這い出た。その瞬間、カーテンが勢いよく開かれ、突き刺さるほどの陽の光に照らされる。あまりの眩しさに顔をしかめながら窓際に立つ人物を確認してみる。
あたしよりも早くに起き、ばっちり着替えも済ませている琴里が笑顔で立っていた。
「お、おはよう。とにかく、カーテン閉めて。眩しい」
太陽光に苦しめられるとは、ドラキュラにでもなった気分だ。とりあえず晴れているようで良かったと思っておこう。
床に座ってぼんやりしていると、自然と瞼が閉じてくる。まだ寝たりない。座ったまま眠ってしまいそうだ。まどろみに身を任せかけた時、再びカーテンが開けられた。
「はい、起きます。ごめんなさい」
あたしは逃げるように、そそくさと洗面所へ向かった。
「じゃあ、行ってくるね」
バス停まで見送りに来てくれたアユムくんとひかりちゃんにそう告げると、停車したバスに乗り込んだ。二人は学校に残り、やるべきことがある。それは黒木さんに会いに行くのと同じくらい大事なことだ。大変だとは思うが、この二人ならきっと上手くやってくれるはずだ。
ということで目的の喫茶店へは、あたしと琴里だけで行くことになった。
「こっちは任せておいて」
ひかりちゃんが心強い台詞を言ってくれる。
「うん、お願いね」
バスのドアが閉まり、わずかな振動とともに発進する。琴里は窓から身を乗り出して大きく手を振っている。さながら映画の別れのシーンのようであるが、別に今生の別れというわけではなく、今日中に帰ってくる予定なのだが。
あたしと琴里だけを乗せたバスは二十分ほど走り、終点の駅で停車する。そこからは電車をいくつか乗り継いで行くのだが、場所を知っているはずの琴里が路線図を見始めてから五分が経過しようとしている。もしかして方向音痴だろうか。念のため、アユムくんに詳細な行き方を聞いておけばよかった。
ようやく琴里が券売機に硬貨を入れて切符を買い始める。
「大丈夫だよね?」
そう問いかけてみるが、琴里は券売機の方を向いたままで振り向かない。
……不安だ。
だが、今は琴里を信じる他ない。電車に揺られ続け、昼過ぎくらいに目的の駅へと辿り着いた。何度か乗り継いだ際に、同じ場所を二回通ったようにも思うが、気にしないことにしよう。
降り立った街はビジネス街のようだった。久しく見ていない高層ビルを見上げる。その様相はまるで田舎者だ。なんだか気恥ずかしくなって琴里に声を掛けるが、琴里はすでに小走りで先に行っていた。
「待ってよー」
すぐに琴里は立ち止まる。待ってくれたのかと思ったが違った。目的の喫茶店の前に着いたのだ。こぢんまりとしたレンガ造りのかわいらしい外観で、ドアには『strings』と書かれたプレートがぶら下がっている。
「ここね?」一応確認してみると、琴里は頷いた。
ひとつ深呼吸をして、「よし」と自分の心に鞭を入れる。そして、ドアをゆっくりと押し開けた。小さな鈴の音とともに、導かれるように店内に入る。
「いらっしゃいませ」
口髭を生やした優しそうなマスターと目が合ったので軽く会釈をする。アユムくんの話だと、店内に琴里の描いた絵が飾ってあるはず。あたしは店内を見渡してみる。客はあたしたちだけのようで、壁にはアコースティックギター等の弦楽器が飾られている。やがてあたしの目はある一点を捉えた。奥の席に絵が飾ってあるのが見える。あたしの後ろにいた琴里もそれを見つけたのか、駆け出した。
鉛筆で描かれた店内のスケッチが確かに琴里の描いたものだと判る。部屋に大量にあったスケッチブックの絵のタッチと同じだからだ。相変わらず繊細で柔らかな絵だ。モノクロ映画のワンシーンみたいな風景の中に寂しげに佇むきれいな女性がいる。それは写真より若干歳をとってはいるが、間違いなく心くんの母親だった。
「勝手に飾ってしまって、申し訳ございません。素晴らしい絵だったので」
カウンターから出てきたマスターが琴里に話しかけた。
「この子のこと憶えてるんですか?」
「ええ、熱心に絵を描いていらしたので」
なるほど。琴里は一度しか来たことがないと言っていたが、印象が強ければ憶えていてもおかしくはない。だが今は納得している場合ではなかった。
「この絵に中にいる女性って、知り合いの方ですか?」
「昔からの友人ですよ」
「黒木マナさん、ですよね?」
「珍しいですね、若い方が知っているとは」
マスターが驚く。あたしは琴里と顔を見合わせて笑顔を零した。
「それで、今はどこに? 連絡は取れますか?」
興奮してしまい、まくしたてるように質問を投げかけると、マスターは困った顔をした。
「失礼ですが、あなたたちは?」
当然の疑問だ。黒木さんは元々芸能人なわけだから、素性の知れない人物が訪ねてきたら友人として警戒せざるを得ないだろう。しかし、なんて説明しよう? 琴里の目を見ると、真っ直ぐな瞳をしていた。正直に話せばいい、そう言っているように思える。
「黒木さんに、息子さんがいることはご存知ですか?」
その言葉にマスターの表情が悲しみの色に濁る。そして何かを察したのか、口を開いた。
「なるほど、心くんのお友達ですか」
「はい、どうしてもあの二人を会わせたいんです」
マスターは目を瞑り、腕組みをして考え込んでいる。その様子から苦悩のようなものが見てとれた。やがて目を開き、あたしと琴里の顔を見据えると軽く頷く。
「わかりました。連絡してみます」
ほっと胸を撫で下ろす。マスターは電話の子機を持って、カウンターの奥へと消えていった。安心するのはまだ早いと気付く。黒木さんが来てくれなかったらどうしようもない。あたしはそわそわと店内を歩き回りながらマスターが戻ってくるのを待つ。すると、カウンター席に座った琴里が携帯電話のディスプレイをこちらに向けた。
『大丈夫、きっと来てくれるよ』
何の根拠もないのに、妙な説得力がある。本当に不思議な女の子だ。
あたしも少し落ち着いた方がいいと思い、琴里の隣の席に腰掛けて待つことにした。
十分ほどして、マスターが戻ってくる。心配そうなあたしの顔をみて「すぐにこちらに来るそうですよ」と微笑んだ。
「よかった」今度こそ安堵の息を洩らす。
「それでは、なにか飲み物を用意しますね。なにがよろしいですか?」
「じゃあ、ココアとコーヒーをお願いします」
一息ついたところで改めて店内を見てみると、非常に大人っぽい雰囲気の店だ。間接照明の淡い灯りで、うすぼんやりとした店内は別空間のような様相を呈しており、アンティークなレコードプレーヤーからは耳に心地よいメロディがゆるりと流れてくる。
マスターは店の入り口に『準備中』のプレートを掛けると、黒木さんが来るまでの間、少し話を聞かせてくれた。
マスターは黒木さんが歌手時代、バックバンドを務めていた一人であったこと。黒木さんは現在、バーでピアノの演奏をしたり、時には歌ったりしているらしい。
ふいにポケットの中の携帯電話が震えた。アユムくんからのメールだ。
『こっちは上手くいきました。そちらの状況はどうですか?』
そのメールを琴里にも見せると、嬉しそうな顔をした。
『黒木さんに会えそう。がんばるね』と返信すると。携帯電話を折り畳んでポケットにしまった。
アユムくんとひかりちゃんには頼んでいたのは、心くんに体育館でライブをしてくれるようにお願いすることだった。心くんの性格から考えて、首を縦に振ってくれるとは思えなかったが、二人は上手く説得してくれたようだ。
心くんはきっと、ただ黒木さんに会わせようとしても会ってくれないだろう。だから、黒木さんを心くんのライブに招待する。もちろん、心くんには内緒でだ。
それが、サプライズを込めたあたしたちの作戦だった。
鈴の音が鳴り、ドアが開けられた。黒木さんが来たのだ。全身が緊張で強張る。ドアの方へ目を向けると、きれいな女性が立っていた。
チュニックにシルクのシフォンを重ね、下はレギンスを履いている。上下ともに黒で統一されていて、一見してお洒落な格好だと判る。黒の服を好んで着ているあたり、やはり心くんとは親子なのだなと思った。
「はじめまして、あたし桐島涼子っていいます。こっちは琴里です」
琴里とともに椅子から立ち上がると、深くお辞儀をした。
「黒木です」
黒木さんは静かな声で名乗ると、お辞儀を返した。
あたしたちはテーブル席へ移動し、黒木さんと向かい合って座る。表情を窺ってみると、見ているだけで胸が潰されてしまいそうな、寂しい瞳をしている。俯いた顔はまるで、懺悔をしているようにも見える。
「単刀直入に言います。心くんに会ってあげて下さい」
息子の名前に反応したのか、一瞬びくっとなった。様々な想いが頭の中を錯綜しているのだろう。やっと絞り出した言葉は消え入りそうに震えていた。
「私は、あの子を捨てたんです。いまさら会えるわけがありません」
「でも、それが子供の為になると思ったからですよね。子供の幸せを最優先に考えた結果ですよね。辛い思いをしたのは黒木さんじゃないですか」
黒木さんはカウンターの方をちらっと見る。マスターは静かに首を横に振った。マスターから聞いたのだと思ったのだろう。しかし、黒木さんが心くんを手放した経緯は、ひかりちゃんから聞いたのだ。
「どんな理由であれ、子供を捨てたのは事実なんです。恨まれることを覚悟して決断したんです。だから。私のことなんか知らずにいた方が、あの子も幸せなはずです」
「心くんは、自分の母親が元歌手だって知ってます。それに、写真を大事そうに持ってました」
わずかに驚いた表情を見せる黒木さんに、琴里は携帯電話のディスプレイを向けた。
『心くんは歌ってます。お母さんの黒いギターで、お母さんの曲を。きっと恨んでなんかいない。会いたいという想いの表れです』
琴里の言葉に心を揺さぶられたのか、目元に光るものがあった。涙を堪えている。泣いてしまえば、今まで子供の幸せの為にと押し殺してきた自分の気持ちが、全部吐き出されてしまうと、そう感じたのだろう。
泣いてしまえばいい。全て吐き出してしまえばいい。素直になることで心くんも黒木さんも笑顔になれるのだと、あたしは確信している。
「明日、あたしたちの学校で心くんがライブをします。そこに黒木さんも来てください」
「学校……」
黒木さんはテーブルに置かれた琴里の携帯電話と、あたしの左腕のあたりを見て、何かに気付いた。話さなければいけないことだと、わかってはいた。例えそれが、黒木さんにとって引き裂かれるほどのショックを与えることだとしても。
「あたしたちや心くんは、特別支援学校に通ってます」
「特別支援学校って、障害者や病気の子が通う学校じゃ……」
あたしは黙って頷く。
「どうして……? 心に、心に一体何があったの?」
悲痛な声を出す黒木さんの顔を見ることができなかった。あたしは首をもたげたまま、なんとか言葉を発しようとするが、上手く声が出ない。隣の琴里の方へ視線を向けると、琴里は真っ直ぐ黒木さんを見据えていた。琴里だって泣くほど辛いはずなのに、決して目を逸らさない。あたしもしっかりしなきゃ。自分自身を叱咤して、顔を上げる。
「心くんは、病気なんです。ファブリー病っていう、糖脂質が体内で分解されない難病です。薬で病気の進行を抑えることはできるけど、治りません」
柳井さんから聞いた病気の詳細を話した。
「病気が進行したら、どうなるんですか?」
「……やがて、死に至ります」
はっきりと告げた。大きく見開かれた黒木さんのすがるような目に耐えきれず、再び目を落とす。あたしは琴里のトートバッグから『花鳥風月』のパンフレットを取り出し、テーブルに置いた。
「このパンフレットに学校の詳細な地図が記載されてます。ライブは午後十三時の開始を予定しています。明日、来てくれますよね?」
返事はない。後は黒木さん次第だ。きっと来てくれると信じるしかない。あたしたちは触れたら壊れてしまいそうな黒木さんを残して席を立った。
マスターにお辞儀をして店を出ようとした直前に、その足を止めた。そして「黒木さん」と最後に声を掛ける。
「過去の間違いをやり直す為に、今や未来があるんだと思います。でも、心くんには限られた未来しかありません。だから今しかないんです」
振り向かずにそう言い残すと、店を後にした。
一時間ぶりの照りっとした太陽と行き交う人波、街の喧騒に包まれると今まで別空間にいたような気分になる。だが、店内での出来事は紛れもなく現実だ。得も知れない感情があたしの胸を強く掴む。立ち止まっていると様々なものが零れ落ちてしまいそうになるので、早足で駅まで歩く。その後ろを琴里が小走りでついてきた。
なかなか追いつけなくて苦労している琴里を背中で感じるが、あたしは歩く速度を緩めない。大きな大理石のオブジェが置かれた駅前の広場で、琴里の手があたしの右手を捕らえる。そこで足を止めると、耐えきれずにその場にしゃがみこんだ。
涙がぼろぼろと落ちて、乾いた地面にいくつもの染みを作った。苦しくて息ができない。心がぎゅうっと締め付けられ、張り裂けそうだ。
琴里が心配そうに顔を覗き込む。
子供の幸せを願って、ずっと寂しい思いをしてきた黒木さんに対して、残酷な事実を話さなければいけなかったことが辛かった。あんなにもはっきりと、心くんの病気は治らないんだと、死んでしまうんだと伝えたあたしの言葉によって、黒木さんにどれほどの苦しみを与えただろう。
「辛いよ、琴里……」
琴里はあたしをそっと抱きしめると、子供をあやすように肩をぽんぽんと叩いた。まるで『がんばったね』と言われている気がして、なんだか安心する。
あたしを包み込んだ小さな身体は小刻みに震えていて、琴里も泣いているんだということが判った。




