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ミッシング・ピース  作者: ぱせ
六章 涼子
32/36

3


 狂ったように泣き喚く蝉の声と寝苦しさで目を覚ます。じっとりと汗ばんだ身体に不快感を覚えた。ベッドに横になったまま壁に掛かった時計を見やると、午前十時を少し過ぎていた。

 けだるく感じる上半身を起こして、しばしぼんやりと過ごす。

「琴里、起きてる?」

 二段ベッドの上段に向かって声を掛けてみるが返事はない。まだ寝ているのだろうか。

 ふらふらと冷蔵庫へと歩み寄り、中から五百ミリリットルのペットボトルに入ったスポーツドリンクを取り出すと、半分ほど残っていた中身を飲み干す。水分が全身に行き渡っていくのを感じた。

 それにしても、いつもはあたしよりも早起きの琴里なのに今日はどうしたんだろうと不思議に思い、梯子を上っていく。ベッドを覗き込んで見るが、そこに琴里の姿はなかった。

 どこに行ったのだろう?

 首を傾げながら梯子を下りていくと、琴里の行きそうな場所がひとつ思い当った。恐らくあそこだろうな。あそこしか考えられないな。などと思案しながら着替えを済ますと、部屋を出た。


 渡り廊下を越えて校舎へ向かう。階段で四階まで上ると、予想通りに音楽室で琴里を見つけた。正確には音楽室の前だ。琴里は音楽室のドアのすぐ横で膝を抱えて座っていた。少しだけ開いたドアからはギターの音色が漏れてきている。目を閉じて心地よさそうに音楽に身を委ねる表情は、まるで日向で昼寝をする猫だ。

 あたしは何も言わずにその場を後にした。なんだか邪魔をしない方がいいように思えたからだった。

 そのまま部屋に戻ろうと渡り廊下を歩いていると、中庭の噴水の辺りでひかりちゃんを見つけた。儚げに佇むその姿と噴水に飾られた天使の装飾、そして水飛沫のきらめきが見事にマッチしており、幻想的な雰囲気を醸し出している。

「ひかりちゃん」

 名前を呼んで近づくと顔をこちらに向けた。光を宿さない瞳には吸い込まれそうな魅力がある。なんて思うのは些か不謹慎だろうか。

「さっき柳井さんからこれを預かったんだけど。琴里ちゃんに返しておいてくれる?」

 そう言うとひかりちゃんは心くんのお母さんが写った写真を差し出した。そういえば、昨日相談室に置いたままだった気がする。こんなに大事なものを忘れるなんて、琴里も相当思い悩んでいるのだろう。あたしはそれを受け取ると、噴水の縁に腰掛けた。

「ねえ、ひかりちゃんはどう思う? 本当にこの人は心くんを捨てたのかな?」

 写真を見つめながら訊ねると、ひかりちゃんも横に腰掛けた。そして、ゆっくり目を閉じると、何かを思い出すかのように話しだした。

「昔ね、ある人がこんなことを言ったわ。『子供の為なら自分が傷つくのも厭わないし、子供の為なら鬼にでもなる』それが母親なんだって」

「じゃあ、ひかりちゃんも信じてる?」

「うん、信じてるよ」

 迷いのない口調で即答した。意外な返答に自分自身がとても嫌な人間なのではないかと思ってしまう。

「あたしはひねくれてるのかな。完全には信じられない。だってさ、あたしだったらどんな理由があっても子供を手放したりしない」

 少しだけ語尾に熱がこもった。でも女性なら当たり前のことではないのだろうか。自分のお腹を痛めて産んだ子供。大切な人との愛の結晶。かけがえのない宝物のはずだ。それなのにその子供を手放す行為は、愛情がないからではないかという気持ちがどうしても拭いきれない。

「手放すことが、子供の為だったとしても?」

「え?」

「子供の幸せの為に、身を切られる思いで子供を手放した人を私は知ってる」

 ひかりちゃんの横顔は、厳しさと悲しみを備えた複雑な表情だった。

「涼子ちゃん、校長先生にその写真を見せてみてくれないかな」

「校長先生に?」

「確信はないんだけれど、多分、校長先生はその写真の人を知ってるはずよ」

 校長先生と心くんの母親の繋がりがまったく見えないが、ひかりちゃんの顔は真剣そのものだ。普段の温和な雰囲気とは違い、背中を強く押すような迫力に満ちている。

「わかった。校長先生を捜す。ひかりちゃんは食堂で待っていて」

 あたしは写真をジーンズのバックポケットにしまうと、再び校舎へ向かって駆け出した。

 とはいえ、あの校長先生は神出鬼没だ。どこにいるのかわかったものではなく、校庭で草むしりをしているか、どこかでペンキを塗っているか、蛍光灯を取り替えているか、可能性を考え出したらきりがない。無駄だと思いつつも校長室のドアをノックする。当然の如く室内からは何の反応もなかった。

 職員室を覗いてみるがここにも姿はなく、小柄で目が線のように細い先生と日焼けしてやたら体格のいい先生、この二人の男性教員しかいなかった。あたしはこの学校に来てから、まだ授業を受けていないので二人の名前は分からない。念のため、校長先生の居場所を知らないか訊いてみるが、期待していた答えは返ってこなかった。

 学校の敷地内をしらみつぶしに捜すしかないと、覚悟を決めると琴里が廊下の向こうから歩いてくるのが見えた。琴里にも手伝ってもらおう。

「琴里、校長先生を捜すのを手伝って。見つけたらあたしの携帯に連絡してくれればいいから」

 それだけを簡潔に伝えると、琴里はぽかんとしながらも頷いた。あたしは校庭の方へ向かってみる。校庭の隅にある大きな花壇の手入れは校長先生の日課だからだ。

 しかし、そこにいたのは色とりどりの鮮やかな花たちだけだった。花弁についた水滴が輝きを放っている。水やりは終えているようだ。

「もう、どこに行っちゃったのよ」

 顎の辺りまで流れてきた汗を右手の甲で拭う。

 一息ついてから、今度は体育館の方へ向かってみようかと思った時、ふいにバイクのエンジン音が聴こえた気がした。そういえば、校長先生がバイクに乗っていると聞いたことはあるが、バイクはいつもどこに停めているんだろう。あたしはこの学校に来てから日が浅い為、学校内を隅々まで知っているわけではない。だが、職員用の駐車場や駐輪場くらいはあるだろう。

 あるとすれば、校舎裏だろうか。まだ足を踏み入れたことのない校舎裏へ向かってみると、途中で門を見つける。正門よりも少し小さな門を抜けると、そこには広めの駐車場があった。三台が駐車されている。そして、駐車場の隅には自転車の駐輪場があり、そこでようやく校長先生を発見することができた。

「お、涼子ちゃんか」

 あたしが小走りで近寄ると、暢気な声を出して手を上げた。

「どうだい、ぼくのバイク。かっこいいだろう?」

 ハーレーとかいうバイクだろうか。創一くんの乗っていたものとは形状が異なり、なんだかごつい。

「あたしの好きな人が乗ってるバイクの方がかっこいいです」

 そう冷たく言い放つと「えー」と残念そうな顔をした。

「そんなことより、ちょっと来てください」

 あたしは校長の先生の腕を掴むと、強引に歩き出す。

「ちょ、ちょっと、どこに行くんだよ?」

 校長先生が困った声を出すが、あたしは意に介さず歩きながら携帯電話で琴里に連絡する。

「あ、琴里? 校長先生を見つけたから食堂に向かって」

 事務的に連絡を済ますと、携帯電話をぱちんと折り畳んで閉じる。

「いや、ぼく出かけないと……」

「うるさいっ!」

「えー」

 そのまま引きずるようにして食堂へ向かった。

 観念した校長先生を連れて食堂に辿り着くと、琴里、ひかりちゃん、アユムくんが待っていた。

 琴里が椅子を引いて『どうぞ』という仕草をしたので、そこに校長先生が座る。あたしはテーブルをはさんで向かい合うように校長先生の前に座ると、ひとつ咳払いをする。

「校長先生、この人を知っていますか?」

 あたしはゆっくりと写真をテーブルに置き、差し出した。写真を手に取り、写真に目を落とした瞬間、校長先生の目が輝いた。

「おお、黒木マナじゃないか」

「し、知ってるんですか?」

 驚きの声を上げる。ちらっとひかりちゃんを見ると、『やっぱり』と言わんばかりの表情を浮かべた。

「知ってるといっても、向こうはぼくのことを知らないだろうけどね」

 その言葉の意味を汲み取れず、続きの言葉を促すように急かす。

「歌手だったんだよ彼女。もう十八年くらい前に引退しちゃったから若い人は知らないかもしれないけど、『ミッシング・ピース』っていう曲が大ヒットしたんだ」

 はっとした。しかしながら、色んな情報が頭の中で渦を巻くばかりで上手く考えがまとまってくれない。それは琴里やアユムくんも同様のようだ。それを察したのか、ひかりちゃんが話し始めた。

「昔、黒木さんに会ったことがあるんだ。その時に聴かせてくれた歌と、心くんの歌っている歌が同じだってことに気付いたの。それで昨日、柳井さんが言ってたじゃない、校長先生が『ミッシング・ピース』を歌っている歌手のファンだったって。黒木さんも歌手だったって聞いていたから、もしかしたらと思ってね」

 なるほど、と思うと同時にひとつの事実が明らかになる。

「じゃあ、心くんは自分の母親が黒木マナだってことを知ってるのね?」

「多分、ね」

 母親の歌を毎日歌っている。心くんは母親のことを恨んではいないのだ。ふと、ひかりちゃんの言葉を思い出し、反射的に口に出す。

「子供の幸せの為に、身を切られる思いで子供を手放した人を知ってるって、ひかりちゃん言ったよね? その人って……」

 ひかりちゃんは頷く。

 あたしの中に燻っていたもやもやとした迷いが、一気に晴れた。

「絶対に二人を会わせなきゃ」

 見渡すと、決意を秘めた三人の瞳があたしを見ていた。全員が同じ気持ちのようだ。校長先生はいつの間にかいなくなっていたが、満足気に食堂を出ていく背中がちらっと見えた。

「それで、黒木さんの居場所は分かる?」

 ひかりちゃんは申し訳なさそうに首を横に振る。

「会ったのは六年前だから、今はどこにいるのか……」

「そっかぁ……」

 あたしは座ったまま身体を折り曲げ、額をテーブルにごつんとぶつけた。

「確か、喫茶店を開店する知り合いの手伝いをしに行くとかいってたけど」

「喫茶店……」

 アユムくんがぽつりと復唱するのが聴こえた。


 夜。お風呂上がりに一人で寮の屋上へ行く。

 涼しい夜風に濡れた髪を撫でられると妙に心地いい。あたしはぐんっと背筋を伸ばして夜空を見上げる。地上の灯りが少ないせいか、星がよく見える。本当の夜空は埋め尽くすほどの星で満ちていると、この学校に来るまで知らなかった。

 携帯電話のカメラで夜空を移すと、その画像をメールに添付してユミに送信した。

 三十秒ほどで返信が来る。

『いいなぁ、こっちは曇ってるよ。お月さまも隠れてます』

 泣き顔の顔文字が添えられたかわいらしいメールに自然と笑みが零れた。

「なに一人でニヤニヤしてんだよ。気持ち悪いな」

 ふいに背後から声を掛けられ、驚いて振り向くと夜の闇に溶けてしまいそうなほどに真っ黒なシャツを着た、心くんが無表情で立っていた。

「えっと、こんばんは」

 とりあえず、挨拶してみた。が、心くんは視線を逸らして少し離れた位置にあるベンチに腰掛けた。

「もう、愛想ないわね」

 あたしは口を尖らせながら近寄り、隣に座る。

「散歩?」

「ああ」

「ふーん。ってか、気持ち悪いって何よ、失礼ね」

「今頃かよ」

 冴えた突っ込みが入った。意外とノリがいいのか、それとも呆れて反射的に口をついただけなのかは分からない。

「あのさ」

 勢いに任せて少しだけ、踏み込んでみようと思った。

「心くんのお母さんが元歌手の黒木マナだってこと、知ってるんだよね?」

「ああ」

 特に動揺することもなく、遠くの一点を見つめたまま答えた。

「いつ知ったの?」

「祖父の家で写真を見つけてから暫く経った頃にさ、偶然入ったCDショップで昔の映像が流れていたんだ。モニターの中で写真の女性がギターを弾いて歌ってたよ」

「そうだったんだ」

 思ったよりも色々と話してくれそうだ。今ならもっと深いところまで入り込めるかもしれない。

「今度はこっちが質問してもいいか?」

「へっ? ああ、どうぞ」

 逆に質問されるとは予想外だったので、慌てる。

「お前らはさ、なんでそんなに楽しそうに笑うんだ?」

「え?」

 どういう意味なのか、質問の意図が判然としない。

「身体にハンディキャップを負っててさ、普通の人よりも辛い生活をしてるのに、なんでそんなに楽しそうに笑うことができるんだ?」

 そこまで聞いてようやく理解し、「なんだ、そんなことか」と笑うと語を継いだ。

「普通の人より辛い生活をしているからこそ、本当に楽しい時には心の底から笑うことができるのよ。他愛のない些細な瞬間を大切に生きているから」

 心くんの表情に大きな変化はなかったが、わずかに細めた目の奥に小さな光が灯ったのを見逃さなかった。それは欠落した感情が、今もまだ彼の心のどこかにあるのだと確信するのに十分な証拠である。

「俺も、そんなふうに笑えるのかな」

「自分に対してとことん正直になれば、きっとね」

 いつかの柳井さんの言葉をそのまま口にした。あたしを救ってくれたこの言葉が、心くんも救ってくれることを切に願う。

 その時、右手に収まっていた携帯電話がメールを受信してメロディを奏でる。琴里からだった。『すぐ来て』短い文面から緊急の連絡であることを感じ取る。

「じゃ、あたしはもう行くね。琴里が呼んでるから」

 あたしはそう告げるとベンチから腰を上げた。

「あいつ、変な奴だよな」

「それは、琴里に対しての褒め言葉と思っていいのかな」

「まあ、な」


 自室へ戻ると、部屋の前にアユムくんとひかりちゃんがいた。琴里はドアの隙間からあたしを確認すると、嬉しそうに駆け寄ってきた。

「どうしたの?」

 状況が把握できずに困惑していると、アユムくんが興奮気味に言った。

「思いだしたんだ。写真の女性、黒木さんをどこで見たのか」

「え!」

 感嘆の声を上げる。そして間髪を入れずに「どこで」と問う。

「喫茶店だよ。去年の十一月くらいに入った喫茶店に絵が飾ってあったんだ。店内を鉛筆でスケッチした絵で、そこに黒木さんも描かれてた。その後、実際に店内に入ってくる姿も見たから、その店の常連か関係者のはずだよ」

「み、店の名前と詳しい場所を教えて!」

 あたしは急いで部屋からメモ用紙とサインペンを取りに走り、また部屋の外へ戻る。

「店名は確か『strings』で、場所は……」

 あたしは廊下に座り込んでサインペンのキャップを口に咥えて外す。そして、床に置いたメモ用紙にカタカナで『ストリングス』と大きく書くと、次のページを捲って地図を描く準備をした。

 しかし、それはあたしの右手を包み込む琴里の両手によって遮られる。

「琴里?」

 琴里は自信に満ちた顔で携帯電話のディスプレイをこちらに向けた。

『そのお店の場所、わたし知ってる』

「知ってるの?」

 琴里は力強く頷くと、さらに携帯電話で文字を打ち始めた。

『そのスケッチを描いたの、わたしだから』

 そうか。アユムくんの話を聞いて、琴里の頭の中に埋もれていた記憶も蘇ったのだろう。二人の家が近いことは知っていたが、なんという偶然か。琴里が描いた絵が飾られた喫茶店で、アユムくんがその絵を見ていたのだ。

「行こう、琴里!」

 あたしが手を掴んで促すと、琴里はキラキラした瞳で頷く。

「ちょ、ちょっと待って! もう夜よ!」

 ひかりちゃんが慌てて制止する。そうだった。携帯電話で時刻を確認すると、すでに二十一時を回っている。琴里も同じように携帯電話の時刻を憎々しげに見つめていたが、いてもたってもいられないといった表情であたしの方へ視線を転じる。

「そ、そんな顔されても。その喫茶店も閉まってるだろうし、明日にしよう?」

 なんとか琴里を納得させ、その日は解散となった。


 明日は少し早めに起きなければいけないので、いつもより早く消灯してベッドに入る。布団の中で明日のことを考えているとじわじわと緊張が押し寄せてきた。黒木さんに会えたら、なんと言えばいいのだろう。もしかしたら新しい家庭を築いているかもしれない。それでも心くんに会ってくれるだろうか。

 そんな様々な想像が洗濯機のようにぐるんぐるんと渦を巻く。琴里も眠れないのか、上段から何度も寝返りをうつ音がする。

「さっきね、屋上で心くんに会ったよ」

 琴里の動きがぴたりと止んだ。

「心くんはね、笑うことを望んでる。お母さんに会えたら、きっと喜ぶはずだよ。きっと笑ってくれる。だから、がんばろうね」

 上からプッシュ音がした後、あたしの携帯電話が着信音を鳴らした。

『うん、がんばる』

 そのメールを見て安心したのか、少し緊張がほぐれる。

「あ、そうそう、心くんがね、琴里のこと変な奴だって」

 意地悪な口調で言うと、上で琴里がばたばたと暴れた。それが可笑しくて、あたしは声を上げて笑った。


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