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「琴里、お昼ご飯食べに行かない?」
二段ベッドの梯子に上り、二段目で布団に顔を埋めてうつ伏せに寝ている琴里にあたしは問いかける。ゆっくりとした動作で首が左右に揺れた。
「でも、少しは食べないと」
できるだけ優しく言ってみたが、また左右に首が揺れた。暫くそのままで様子を窺ってみるが、なにひとつ現状が変わる兆しはない。クーラーから冷風を吐き出す飾り気のない音のみが絶えることなく響くばかりだ。
諦めて梯子を下りると、琴里の机の上に心くんから預かった写真が置いてあるのを見つけた。赤ん坊を抱き、幸せそうな表情を浮かべた女性が写っている。こんな顔をする人が本当に自分の子供を捨てたりするだろうか。にわかにそんな疑問が胸中に去来した。琴里もそれを感じたから心くんの母親を信じているのだろう。子供のことを想わない親はいないんだと、誇らしげに携帯電話のディスプレイを見せる姿を思い出す。正直、青臭い理屈だと思わなくもない。でも、そんな考え方を持つ優しい琴里があたしたちは大好きなのだ。
写真から視線を外すと、もう一度琴里の方を見上げ「じゃあ、あたし食堂に行くね」と声を掛ける。返答がないのを寂しく思いながら部屋を出た。
一人で食堂に向かうと、がらんとした食堂の窓際の席にアユムくんとひかりちゃんが先に来ているのを見つける。アユムくんもこちらに気付くと、軽く手を上げた。
「琴里ちゃんの様子はどう?」
ひかりちゃんが心配そうに訊ねる。
「だめ。かなり落ちこんでる」
椅子に腰掛けると、右手で頭を抱えた。心くんの病気のことを聞いてから二日経つが、ずっとあの調子でふさぎ込んでしまっている。確かに、あたしもショックだったけれど、それにしてもあの落ちこみ方は普通ではない。あんな琴里は今まで見たことがなかった。
「どうする? 柳井さんに相談してみる?」
テーブルに突っ伏して唸っているあたしを見かねたのか、アユムくんが言う。それが一番確実だと解かってはいるのだが、躊躇ってしまう。
悔しかったのかもしれない。琴里のことを親友だと言っておきながら、なにもしてあげられない自分の無力さが堪らなく歯がゆいのだ。
しかしながら、ここでいくらあたし達が知恵を絞ったところでいい解決策など見つかるはずもなく、結局は三人で柳井さんのもとへと向かうことになった。
相談室のプレートが掛かったドアをノックすると「どうぞー」と気の抜けた声がする。相手に緊張感を与えない安心する声だ。ドアをそっと開けて中に入ると、ほのかにラベンダーの香りがする室内で柳井さんが嬉しそうな顔をして迎えてくれた。
「あら、琴里ちゃんがいないのね」不思議そうに首を傾げる。
「そのことでちょっと相談したくて」
柳井さんと向かい合う形で椅子に座ると、あたしはこれまでの経緯を話はじめた。最初は穏やかな顔で聞いていた柳井さんだったが、深刻な話だと分かると真剣な眼差しで最後まで話に耳を傾けた。
すべてを語り終えると、柳井さんは目を閉じた後に椅子から立ち上がる。部屋の隅にある小綺麗なキッチンへ向かうと、ヤカンに水を入れコンロに火を点けた。
「みんなはさ、琴里ちゃんがなんで落ちこんでいるか解かる?」
マグカップを丁寧に四つ並べながら柳井さんが背を向けたまま訊いた。
「それは、心くんが病気だって知ったからじゃないんですか?」
来客用のソファに腰掛けているひかりちゃんの返答に、あたしとアユムくんも頷く。
「そうね、せっかく知り合った相手が病気で死んでしまうかもしれないって分かったら、ショックよね」
二つのカップにコーヒーの粉末、残り二つにはミルクティーの粉末と紅茶のティーバッグを入れると、こちらを振り返った。
「でも、あの琴里ちゃんがただ落ちこむだけでいるかしら」
確かにそうだ。琴里は相手の辛い気持ちを敏感に感じ取って泣いたりもするけれど、それだけでは終わらない。相手を元気にする為にいつも一生懸命だ。まるで、どうしたら相手が笑ってくれるのか理解しているようにも思える行動をとるじゃないか。
「じゃあ、琴里が落ちこんでいる理由って?」
「みんなと一緒よ。みんなが琴里ちゃんを元気づける方法が解からないように、琴里ちゃんも心くんが笑ってくれる方法が解からないのよ」
あたしがはっとするのと同時に、ヤカンがピーっと悲鳴を上げた。柳井さんがカップにお湯を注いでいくとコーヒーの芳しい香りが広がる。来客用のテーブルにミルクティーと紅茶を置くと「熱いから気をつけてね」と、ひかりちゃんの手を取って紅茶の入ったカップまで優しく導く。二つのコーヒーは柳井さんの机の上に置かれた。柳井さんは一度でもカウンセリングを受けた生徒の好きな飲み物を全て把握している。夏なのにホットなのは、温かい飲み物は心が落ち着くからだそうだ。
あたしはかわいい形のシュガーポットから、サイコロ状の砂糖をひとつ手でつまみ上げてコーヒーに投入する。黒い液体の中に溶けて沈んでいくのを確認すると、もうひとつ砂糖をつまむ。
手が震えた。ふつふつと何かが込み上げてくる。怒りにも似た感情だ。
「柳井さん、ココアを用意しておいてください」
あたしはすっくと立ち上がる。
「え」
「琴里を連れてきます。必ず」
そう言い放つと、身を翻して部屋を飛び出した。
許せなかった。琴里のことが。あたし達は親友なのに、どうして相談してくれないのだ。どうして一人で抱え込もうとするのだ。あたしは引き摺ってでも琴里を連れ出す。そして誰が何と言おうと琴里の力になってあげると、そう決めた。それが親友としてすべきことなのだ。
階段を二段飛ばしで駆け上がり、三階まであっという間に移動する。そのままの勢いで乱暴に部屋のドアを開け、二段ベッドの梯子を一気に上った。
「琴里! 行くよ、さっさと起きなさい!」
子供を叱る母親みたいな強めの口調で声を張り上げる。しかし、琴里はさっきと同じようにうつ伏せのまま首を左右に振る。だがあたしは引き下がらない。
「起きなさいって言ってんのよ!」
さらに激しく怒鳴りつけるが、琴里も強情だ。首を強くぶんぶんと振るだけで頑なに動こうとしない。あたしは唇を噛みしめると、琴里の肩を思い切り掴み、こちらを向かせようとする。だが、琴里はそれを拒むように布団を握り締めて丸まってしまう。
「こっち向きなさいよ!」
悲鳴じみた声を出した途端、あたしの目から涙が落ち、重ねた言葉は力なく震えた。
「お願いよ……」
あたしが泣きだしたことに驚いたのか、琴里はようやく起き上がって振り返る。とめどなく溢れる涙でその表情は窺えなかった。それでも、言葉にならないほどの嗚咽混じりの声であたしは必死に伝える。
親友なのだから相談くらいしてくれということ、一人で悩まなくても、あたしやアユムくんやひかりちゃんがいるじゃないかということ、いつもの琴里に戻って欲しいということ、多分そんなことを泣きじゃくりながら吐き出したと思う。
なんで泣いているのか、自分でもよくわからなかった。左腕を失った時や、初めて琴里のことを知った時に流した涙とは違う。心の奥底から絞り出されて滲んでくる涙だった。
不意に頬が温かいもので包まれる。琴里の手だ。そして、ハンカチで涙を拭ってくれた。視界がはっきりすると目の前にはうっすらと涙を浮かべ、笑顔で頷く顔があった。




