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「いいわけないでしょ!」
眼鏡をかけた少女が怒った顔で眼前に迫っていた。友人の水沢友美だ。友美とは中学二年生の時に知り合って友達になった。付き合いとしては二年ほどだが、何でも気軽に話せる親友だ。見た目は真面目そうだが、あたしに負けず劣らず気が強い。しかし、反発し合うようなことはなく、同じ高校へ進学した。
友美があたしの家にやって来た理由は夏休みの宿題をやる為だったはずだが、どうやら彼女はあたしの初恋に興味津々のようだった。テーブルの上には数学のプリントでもなく、美術の課題でもなく、お菓子とジュースが広げられていた。
「好きなら好きって言っちゃいなよ、あんたらしくもない。ぐずぐずしてると他の女の子に取られちゃうのよ。いいの? それでも」
「それは嫌だけど……」
まくしたてるように言う友美に気圧されたあたしはしょんぼりと答える。すると友美は演技じみたわざとらしい溜息を吐き出した。
「いい? 恋愛はね、早い者勝ちなのよ!」
友美がエキサイトしてきた。こうなるともう手がつけられない。
「でも友美だって初恋は上手くいかなかったんでしょう?」
収拾がつかなくなりそうなので、話を僅かに逸らした。友美はもともと中学二年に進級するタイミングで引っ越してきた転校生だ。以前、住んでいた街で寡黙なストリートミュージシャンに恋をした話を何度も聞かされた。
「あれは、だって、引っ越さなきゃいけなかったし。でも、ちゃんと気持ち伝えたもん……ふられたけど」
今度は友美がしょんぼりしてしまった。
『初恋は成就しない』とよく耳にするが、本当だろうか。だとすれば、あたしの恋は成就しないのだろうか。そもそも『初恋は成就しない』というデータは誰がどのくらい検証を行った結果なのだろうか。
水滴のついたグラスの中に浮かんだ氷がカランと音を立てる。この恋もあの氷のようにじわじわと溶けてなくなってしまうのだろうか。焦るつもりはない。でも、ずっとこのまま現状維持を続けるのも違う。晴れたはずの心の中の霧が、またモヤモヤと湧いてくる。なんだか息苦しくなって、あたしは床にごろんと寝転んだ。
「ちっくしょー」
吐き捨てるように言うとちょうど顔の横にあったクマのぬいぐるみにパンチを見舞った。友美のバッグにぶら下げられているぬいぐるみだ。本人は気に入ってるらしいが、可愛いとはお世辞にも言えない不細工なぬいぐるみだ。もう一発パンチをお見舞いしようとしたが、友美の手によってバッグごとぬいぐるみが救出される。
「クマさんが可哀想でしょ」
「クマは猛獣よ、危険だわ」
「いいの、このクマさんは無害よ」
そんなおかしなやりとりをしているうちに、いつの間にか陽が傾きかけている。いつものことだ。今日も宿題は進まなかった。
「さてと、私はそろそろ帰ろうかな」
そう言って立ち上がる友美をあたしはふてくされた顔を作って睨みつける。
「薄情者。親友が苦しんでるのに」
「はいはい、続きはまた今度聞きますよ」
それでも頑なに起き上がろうとしないあたしのことを友美は呆れ半分で見下ろす。
「とにかくさ、頑張りなよ。私の感だけど、創一くんもまんざらじゃないと思うんだ。きっと上手くいくから」
「本当?」
「本当よ」
「嘘だ! 人ごとだと思って! ふられたらあたしショックで死んじゃうよ!」
床に転がったまま駄々っ子のように暴れるあたしの姿を見て友美は頭を抱える。
「てか、あんたそんなキャラじゃなかったでしょ! しっかりしなさいよ!」
「はい」
友美に一喝されて我に返った。友美の言うとおりだ。あたしは恋煩いで悶えるようなキャラじゃない。それなのに日に日に乙女になっていく自分が心底怖い。
「うわーん!」
「うわ、泣いた」
友美は逃げるように部屋を出て行った。
その日の夜。お風呂からあがり、バスタオルで髪を拭きながら部屋に戻ると、携帯電話のランプが点滅していた。どうやら着信があるようだ。着信履歴で相手の名前を確認する。目に入ったのはアドレス帳で何度も眺めた名前だ。鬼神の如き速さでリダイヤルを押すと、数度の呼び出し音の後、着信相手へと繋がった。
「よお」
相変わらずぶっきらぼうだけど優しい声の主は、創一くんだ。
「ごめん、電話出れなくて。お風呂入ってた」
言った後に気付いたが、前にテレビで見たことがある。女性が男性に対して電話やメールで『お風呂入ってた』や『今からお風呂入る』等と告げると、男性は相手のことを意識してしまうのだそうだ。図らずもそれを実践してしまったわけだが、効果はあっただろうか。
「あ、そう」
気のない返事が返ってきた。効果なし、か。
「あのさ、これから会えないかな」
「今から?」
またしても突然だ。思い立ったら即行動するタイプなのか、それともこういったサプライズ的な誘い方が好きなのか。
「大事な話があるんだ」
その言葉で一瞬、全身の細胞が静止したように感じた。それとも、時が止まったのか。いや、言葉だけならばそれほど気にはならなかったかもしれない。彼の口調がいつもとは明らかに違った。いつもの優しい感じではあったが、なにかを決心したような、覚悟を決めた口調だったのだ。
「……わかった。じゃ、会う」
声が上擦らないように気をつけて控えめな声で答えた。
「そうか、よかった」彼の声質がぱっと明るくなる。「今、駅前の喫茶店にいるから。待ってる」そう言って、電話が切れた。
大事な話ってなんだろう? あたしは一体何を言われるの? 頭の片隅に浮かんだ、ひとつの妄想を必死で掻き消した。きっと違う。こういう時は期待しない方がいいのだ。どうせ大した話ではないというオチなんだから。気にしないようにしながらも、ドライヤーで髪を乾かす手は小刻みに震えていた。
「どこか出かけるの?」
玄関で靴紐を結んでいると、母が居間から顔を出した。
「駅前まで行ってくる。すぐ帰ってくると思うから」
玄関の靴箱の上の置時計に目を向けると夜八時を回ったところだったので、そう答えた。
「そう、車に気をつけるのよ。飛び出さないようにね」
それだけ言って、母はまた居間に戻っていった。さすがに道路に飛び出したりはしない。いつまで子供扱いする気だろうか。
玄関のドアを開けると、真夏にしては涼しい風が、乾ききっていない髪を撫でた。駅前の喫茶店までは歩いて十分くらいだ。自転車で行けばすぐだが、風が気持ち良かったから歩いて行くことにした。と、いうのは言い訳で、本当はまだ心の準備ができていないからだ。
一度、友美に電話しようかとも思ったが、出かける準備で時間が掛かってしまっている。創一くんはすでに喫茶店で待っているらしく、あまり待たせられないので電話するのはやめた。
喫茶店への道すがら、夜空を見上げる。半分ほど欠けた月が淡い光を放っている。その左下あたりに力強く輝く星が見えた。あの星はなんという星だろう。残念ながら天体には詳しくない。創一くんなら知っているかな。会った時に訊いてみよう。
そんなことを考えながら歩いていると、あっという間に駅前近くまで来てしまった。信号待ちをしていると、急激な緊張感があたしの精神に襲いかかり、心臓は別の生き物のように弾け、高鳴りだす。目を瞑って深呼吸する。一回、二回と深呼吸すると、信号が青に変わり『通りゃんせ』のメロディを暢気に奏でる。
よし! 行こう!
意を決して、創一くんの待つ喫茶店へ向けて駆けだした。
その瞬間、激しく暴力的な光が左側からあたしを照らした。何か得体の知れない怪物の断末魔に似た轟音が耳を劈く。直後、今まで経験したこと無い程の衝撃があたしを空中に弾き飛ばす。天と地が物凄い速さでぐるんと回ったかと思うと、激しく地面に叩きつけられた。
何が起きたのだろう。
なぜ身体が動かないんだろう。
そうだ、行かなきゃ。創一くんが待ってる。この横断歩道を渡って、あの角を曲がれば、その先にある喫茶店で創一くんが待ってる。行かなきゃ。
遠くで悲鳴がいくつも聞こえる。何事もなかったように浮かぶ、半分欠けた月がぼやけていく。そして、その月も、寄り添うように輝く星も、やがて滲んで消えた。