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あれから三年が過ぎた。俺は学校の音楽室でギターを弾いている。結局、春休みが終わる頃に、祖父から勧められた特別支援学校へ転校した。全寮制なので、祖父母に気を遣わなくていい分、楽だった。
今のところ、病気は特に影を見せずに十七歳になったが、いつ爆発するかも分からない爆弾を抱えて生きるのは苦痛ではあった。
「やあ、心くん」
音楽室のドアが遠慮なく開き、作業着姿のいかつい顔の男が姿を現した。とてもそうは見えないが、これでもこの学校の校長だ。なぜか、毎日ピアノを磨きにやって来る。ピアノが弾けるのかと思ったが、そうではないらしい。この学校にピアノが得意な女の子がいるが事故がきっかけで弾かなくなってしまったそうだ。でも、いつかもう一度弾いてくれる時の為に毎日ピアノの掃除をして、頻繁に調律もしているのだとか。
「心くんは、昔のぼくに似ているね」
せわしなくピアノを拭きながら、こっちをちらっとみて言った。「あ、顔がじゃないぞ」とさらに付け加える。
こんな良心の塊のような人間と俺が似ているわけがない。特に返事は返さなかったが、校長は勝手に話を続けた。
「昔はぼくもね、今の君みたいに刺々しくて、触れたら怪我をしてしまいそうで、それでいて壊れてしまいそうなほど脆い人間だった。周りに関心がなくてね、興味があるのはバイクだけだったよ」
そう言うと、自慢げにバイクのハンドルを握るジェスチャーをした。
「だから、唯一信用できるバイクに乗って旅をしたんだ。途中で生活費が無くなったらバイトしたりして、三年くらいかけて日本中を走り回ったな。もう十三年くらい前の話だけどもね」
「何か見つかったんですか?」
「ああ、旅の途中に通りかかった街で迷子になって泣いている子供を見かけてね、あの時のぼくなら無視していてもおかしくはなかったんだが、なぜか助けてやろうと思ったわけさ。バイクで家まで送ってあげると、その子供や子供の親御さんがね、嬉しそうに言ってくれたんだよ」
ピカピカになったピアノを見つめ、満足そうな顔をする。
「ありがとうって、ね」
一瞬目が合う。その目には優しさと力強さを秘めている。あの、むずがゆくなる感覚を校長も味わったのだな。あの感覚の正体が今では解かる。『喜び』だ。感謝される喜びを知って、強く生まれ変わったのだ。俺は結局変われなかったが。
校長はピアノの掃除を終えると、上半身のストレッチを行いながら音楽室から出て言った。一人残された音楽室には外の世界からせわしなく騒ぎ立てる蝉の声が響き、それは夏の訪れを報せる歓声にも聞こえた。
学校が夏休みになると、校舎内で人と遭遇する方が稀となっていた。そういえばこの学校に来てから一度も祖父母の家には帰っていない。もちろん今年の夏休みも帰るつもりはないが。
そんな夏休みも中盤に差しかかる頃、自分以外にもう一人、音楽室を利用する人物が現れた。
ギターをケースにしまい、寮に帰ろうとするとゆっくりとドアが開き、少し大人びて落ち着いた顔つきの女の子が入ってきた。右手に持った白杖をスライドさせ、足元を探りながら歩いていたので視覚障害者だとすぐに判った。
机や教卓を器用に避けてピアノの前まで進むとピアノの表面を指でなぞり、安心した表情を見せる。校長が言っていた女の子だろうか。こちらには気付いていない。
きっとピアノの練習しに来たのだなと思い、女の子が椅子に座り鍵盤蓋を開けるのを横目に見ながら帰り支度をする。しかし、耳に飛び込んできたのは練習とは思えないほど美しい旋律だった。趣味とか、そんなレベルではないことが素人でも判る。ホールでプロの演奏を聴いているような、そんな錯覚に陥るくらいだ。
片付けをする手を止め、暫く演奏に耳を傾けた後、俺は邪魔しないようにゆっくりと音楽室から出ると、寮の自室に戻った。心地の良いピアノの音色がいつまでも耳の奥に残っていた。
何度かそんな入れ違いが続いたある日、いつものように音楽室でギターを弾いているとドアが勢いよく開かれた。びっくりして振り返るとピアノの女の子が立っている。しかし、一人ではなかった。背が高く、気が強そうな女の子。あどけない顔をした小柄な女の子。車椅子に乗った栗色の髪の少年の三人が一緒にいた。
「あなたが心くんね?」
気の強そうな女の子が慣れ慣れしく話し掛けてくる。どうして俺の名前を知っているのだろう。その時、気の強そうな女の子の腰からぶら下がっているぬいぐるみに目が止まった。あの不細工なクマには見覚えがある。クレーンゲームの景品だから同じものを持っている人物がいてもおかしくはないが、どういう趣味をしているのだろう。
やがて、俺の意思とは無関係に四人は勝手に自己紹介を始めだした。
俺に話し掛けてきた女の子は涼子。最近、この学校に転入してきたらしい。彼女には左腕がなかった。小柄な女の子は琴里。精神的な病気で声を失ったと涼子が説明した。車椅子の少年はアユム。一目で足が不自由なことは判る。盲目の女の子はひかり。彼女がこの中で一番年上だった。
「全員、夏休みを学校で過ごすんだ。だから仲間を探してたんだよ」
アユムのその言葉に、なるほどと思った。この四人の繋がりがよく見えなかったが、そういう括りだったのか。
「悪いけど、群れるのは好きじゃない」
冷たく本音を言い放つとギターケースを持ち上げて立ち去ろうとした。だが、呼び止められた。
「これ、忘れ物じゃない?」涼子の右手には写真があった。
「うわ、綺麗な人。これ、お母さん?」
「返せよ!」
写真を奪うようにむしり取る。突然、感情を露わにしたので全員が驚いた顔をした。
「な、なによう。別にお母さんの写真持ってたって変じゃないよ?」
俺は涼子を睨みつける。そして、絞り出すような声で静かに言った。
「俺を捨てた母親だぞ」
見据えていた涼子の目が戸惑いの色に染まる。俺は写真の納まっている右手をぎゅっと握りしめ、写真をぐしゃっと潰して丸めると床に強く投げ捨てた。丸まった写真は琴里の足元に転がった。
乱暴にドアを開けて音楽室から出ていく。階段へ向かう廊下の途中で背後からぱたぱたと走ってくる足音が聞こえた。誰かが追いかけてきたようだ。俺は振り返らずに無視して、そのまま歩いて行く。しかし、足音は一定の距離を保ちながらついてきた。
階段の踊り場でうんざりしながら振り返ると、立っていたのは琴里だった。上目遣いでこちらをじっと見つめ、何かを差し出す。さっき投げ捨てた写真だ。丸めたはずだが、皺をきれいにのばしてある。
「いらねえよ。焼却炉にでも放り込んでおいてくれ」
琴里はふるふると首を横に振り、訴えかける目でさらに写真を差し出してくる。埒があかないので渋々それを受け取る。幸せそうに笑う写真の中の母を見る。もしかしたら、いつかひょっこりと俺の前に現れるのではないかと、些細な希望を持っていた。でも、心の成長とともに、それが馬鹿らしい考えだという思いが膨らんでいった。
丁度いい機会かもしれない。物言わぬ写真の中の母から決別してしまおう。そう決意すると俺は踊り場の窓を開け、写真から手を離す。生温かい風が写真を攫っていった。琴里は慌てて窓から顔を出して写真の行方を目で確認すると、ものすごい速度で階段を駆け下りていった。写真を拾いに行ったのだろうが、きっともう見つからないだろう。これでいい。後悔なんかしていない。
翌日、少し涼しかったので屋上に出た。病気のことを考えると、本当は屋内にいた方がいいのだが、引き籠るのは性に合わない。ファブリー病には、汗をかきにくいという特徴がある。すなわち、夏場は体温が上昇しやすくなり、それに伴って四肢に痛みが出てくるのだ。長居はしない方がいい。
不意に風の音に混じって金属音がした。隣を向いてみると車椅子に乗ったアユムがいつの間にかいて、遠くを見つめている。
「なにか用か?」
「いや、用ってわけじゃないけど」
アユムは穏やかな顔でこちらを見上げ「母親のこと、恨んでるのかなって思って」と訊いてきた。いつだったか、前にも誰かに訊かれた気がする。
「恨みとか、そんなんじゃない。でも、許せない気持ちはある。育てられずに、捨てて逃げるくらいなら産まなきゃいいのに」
呪詛のように呟くと、備え付けられたベンチに腰掛けた。アユムとの視線の高さがほぼ同じになる。
「そっか、そうだね。僕も同じ立場だったら、そんなふうに思うかもしれない。でも、琴里ちゃんはそうは思っていないよ。心くんの母親を信じている。子供を手放したのには、やむを得ない事情があるんだって」
「会ったこともない相手を信じてるのか、あいつは」
「そういう子だよ、琴里ちゃんは。だから、昨日も今日も君の捨てた写真を探してる」
「変わった奴だな、あいつ」
そう零すと、アユムは「一つ、約束してくれないかな」と神妙な顔をして言った。
「もし、琴里ちゃんが写真を見つけてきたら、今度は捨てずにちゃんと受け取ってくれないかな」
「ああ、わかった」
ろくに考えもせずに軽く答えた。ただ、面倒だったからだ。
「どうせ見つかりゃしない」
「見つけるさ、琴里ちゃんは」
勝ち誇ったような表情で言う。どこからその自信がくるのだろう。あの小柄な少女がそんなに頼もしい人間だとは到底思えない。しかし、アユムの言葉はすぐに真実となった。
その日の夜。食堂で夕食を済ませて部屋へ戻ろうとすると、琴里が現れた。涼子、アユム、ひかりも一緒だった。琴里は嬉しそうに写真を差し出す。本当に探してきたのだ。よく見ると、琴里は顔や手、服も泥だらけだった。
ちらっとアユムの表情を窺うと、『ほらね』とでも言わんばかりに頷き微笑む。約束した手前、受け取らないわけにはいかなかった。
戻ってきた写真の中の母は前と変わらない瞳でこちらを見ている。母がどんな人物かは知らないが、母のことを信じている人間が持っている方がいいような気がして、俺は受け取った写真を再び琴里に手渡した。
「もう捨てない。けど、これはお前が預かっていてくれないか」
琴里がきょとんとした目をする。
「俺は生きているうちには母親に会えないだろうから、お前がいつか俺の母親に会った時に、どうして俺を置いて消えたのかを代わりに訊いておいてくれよ」
一瞬、その場に凍てつくような空気が流れた。その言葉の意味を察したのはひかりだけだったようで、辛そうに俯いていた。
「どういうこと?」
恐る恐る、涼子が訊ねる。
「病気なんだ。いつ死んでもおかしくない」
それだけ言って立ち去ろうとすると、琴里が膝から崩れ落ち、床にへたり込むのが横目で見えた。
だから嫌だった。友達や仲間をつくったって、残るものは悲しみだけなんだ。俺は唇を噛みしめて走りだす。廊下を。階段を。そして自分の部屋に飛び込むと、そのまま倒れ込んで床を殴りつけながら嗚咽を漏らした。
今まで辛いことは何度もあった。それでも泣いたりしなかったのに、なぜか涙が溢れる。
死にたくないと、心から思った。




