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翌日、その出来事は突然起きた。
月が雲間に隠れたり出たりを繰り返す、そんな落ち着きのない深夜。いつもの場所でのライブに、眼鏡の女の子が久しぶりに現れた。
お決まりのように目の前に膝を抱えて座り込んでいたが、浮かない顔でぼんやりとしており、様子がおかしいことは火を見るよりも明らかだ。
そしてライブを終え、ギターをケースにしまっている時にそれは起きた。
「……きです」
「え?」
立ち上がった女の子が話し掛けてきたが掠れた声だったので聴きとれず、気のない素振りで訊き返す。
「好きです! 付き合って下さい!」
驚きで声が出ず、全身の毛穴が開くような感覚があった。これは俗に言う『告白』というやつだろうか。女の子は顔を真っ赤にして俯き、強く握りしめた手は震えている。俺の返答を待っているのだ。
答えは考えるまでもない。俺は平静を装おうと、息をゆっくり吸い込んでから言った。
「ごめん。無理だよ」
できるだけ優しく言ったつもりだったが、女の子の顔はみるみるうちに泣きそうな表情になっていく。
別に彼女が気に入らないわけじゃない。告白されたことは純粋に嬉しいと感じた。でも病気のことを考えると、恋をしたって辛いだけだという思いに駆られる。死にゆく人間にも残される人間にも、計り知れない悲しみが生まれてしまう。それならばいっそ、恋愛なんてしない方がいいのだ。
「じゃあ、一日だけデートして下さい」
「え」
「明日、お昼の十二時にそこの駅前で待ってます」
「ちょっと待て、俺は行かないぞ」
「来なくても、ずっと待ってます」
勝手にデートの約束をすると、女の子は脱兎の如く走り去った。サエの時といい、女という生き物はみんなあんなに強引なのか? 嵐のように俺を巻き込んで過ぎ去っていったその出来事の後に残されたのは、ぽつんと立ち尽くす俺だけだった。
帰宅し、自室へ入る。ギターケースを部屋の隅に立てかけると、部屋の中央にあるガラス製のローテーブルに置かれた冊子が目に入ったので手に取る。
表紙に『花鳥風月』と書かれている。昨日の夕飯時に祖父から渡されたものだ。特別支援学校という全寮制の学校らしい。空気の良いところだからそこで学校に通いながら療養したらどうかとのことだ。俺の体調を思いやっての言葉に聞こえるが、要するに厄介払いをしたいのだろう。
俺の存在は誰にも望まれていない。未来のない人間に誰が期待するというのだ。ここにいようが、新しい場所に行こうが俺を必要としている人間はいない。俺は冊子をぐしゃぐしゃに丸めるとゴミ箱に向かって放り投げる。丸まった冊子はゴミ箱の縁に弾かれてあらぬ方向へ飛んでいった。
ちっ、と舌打ちするとベッドに倒れ込む。
「昼の十二時とか言ってたっけ」確認するように独り言を呟く。しかし、すぐに馬鹿らしいと思い直し、目覚まし時計をセットしないで布団に潜った。勝手に約束をしたのはあっちだ。行かなくたって文句は言わないだろう。そう自分に言い聞かせて眠りについた。
結局、目が覚めたのは午後十四時半だった。
あいつが本気で俺とデートをしようと駅前に現れたとしても、さすがにもう諦めて帰っているだろう。俺は居間へ降りていき、ペーパードリップ式のコーヒーメーカーにフィルターとコーヒーの粉をセットすると電源を入れた。
コーヒーが抽出される音を聴きながら、新聞を広げる。閑静な住宅街での発砲事件。政治家の汚職事件。動物園で人気者だったカバが老衰で死去。関心のある記事はなかった。
淹れたてのコーヒーをカップに注ぐと、小腹が空いたので冷蔵庫を漁る。手頃な食材は魚肉ソーセージが一本あるだけだった。
あいつ、もし今でも待ってたら飯食ってないんだろうな。自分でそんな想像をしておいて、だったらなんだと思った。別に二~三時間食わなくたって死ぬわけでもあるまいし、そもそも待ってるわけがない。
壁に掛かった時計を見ると、午後十四時五十分だった。昨日のあいつの浮かない顔と、『来なくても、ずっと待ってます』という言葉を無意識に頭の中で反芻してしまう。
右手に掴んだ魚肉ソーセージを見つめ、大きく溜息を吐くとそれを冷蔵庫に戻した。気になって食事もままならないのなら、あいつがすでに帰ってしまって待ち合わせ場所にいないことを確認すればいい。面倒だが家を出ることにした。
驚いたことに、駅前に向かうと眼鏡を掛けたあいつが抽象的なデザインのオブジェにもたれかかるように立っていた。宣言通りに待っていたのだ。「まじかよ」思わず口にした。街路樹に隠れて暫く眺めてみたが、帰る様子はない。遠くから横顔をじっと見る。きっと信じている。俺が現れることを信じている。そんな表情に見えた。
「俺は遊ぶような場所知らねーぞ」
彼女がもたれているオブジェの反対側に俺ももたれかかってそう言った。
「やっぱり来てくれた」
ちらっと目を向けると、柔らかな笑顔がオブジェの隙間から見えた。
「とりあえず、メシ行くぞ。どうせ何も食ってないんだろ」
無愛想に言って俺が歩き出すと、彼女が小走りでついてくるのが足音で判った。
昼間はあまりこの辺りには来ないので、どんな飲食店があるのかはよく知らなかったが、丁度いい所にオープンカフェがあったのでそこに入ることにする。あまり混んではいないようで、テラス席は二組ほどの客がいるだけだった。
可愛らしい制服を着た女性店員にホットコーヒーとサンドウィッチ二人分、彼女はオレンジジュースを注文した。
「私、水沢友美です」
「え?」
「あ、名前です。まだお互いに名前も知らないから。良かったら教えてください」
「……神山心」
「心くん、か」
何が嬉しいのか少し微笑んで噛みしめるように呟いた。
運ばれてきたサンドウィッチを早々に胃の中へ収めると、コーヒーを啜りながら行き交う人々を眺める。随分と春らしい陽気となってきたからか、道行く人も心なしか楽しそうに見える。
「あの」
話し掛けられたので、首を動かさずに視線だけを友美へと向けた。
「いつも一曲目に歌ってる曲ってオリジナルの曲ですか?」
「違うよ。ミッシング・ピースっていう、昔に流行った歌だ」
「へぇ、誰が歌ってるんですか? 有名な歌手ですか?」
「……忘れた」
素っ気なく言うと視線を再び街中へ向けた。俺がライブで歌っているのは、全て一人の歌手の歌だ。その歌手の名前を本当は忘れてはいないが、どうせ知らないだろうから話す必要はないと判断した。
「じゃあ、ストリートライブを始めたきっかけってなんですか?」
「別に。暇つぶし」
「そう、ですか」
腑に落ちないといった雰囲気だったので「不満そうだな」と言ってみた。
「心くんの歌声って、なんだか誰かに想いを届けようとしているように感じたから」
俺はその言葉に対して、何も言わなかった。代わりに、気になっていた質問を投げかけてみる。
「それより、お前はなんで最近ライブに来なかったんだ?」
友美は目を伏せて、ストローでオレンジジュースをかき回し始めた。グラスの中にできた小さな渦を見つめる目はどこか悲しげだ。
「私、夜中にこっそり家を抜け出して心くんの歌を聴きに行ってたんです。でも、それが親にばれちゃって、ものすごく怒られて」
「ま、当然だな」
中学生の女の子が夜中にふらふらと出歩くなんて普通じゃない。
「でも、昨日はなんとか家を抜け出せたの。部屋のカーテンを結んで、窓からね」
何という行動力だろうか。感心するより前に呆れてしまう。
「もう来るなよ。親に心配かけるな」
そう声を掛けると、友美は怒られた子供のようにしゅんとしてしまった。『親に心配かけるな』なんて、親のいない俺が言っても説得力がないなと、我ながらに思う。
「そろそろ、行きましょう。もっといっぱい遊ばないともったいないもの」
友美が笑顔で立ち上がる。気持ちの切り替えの早い女だ。
暫く繁華街をぶらついた後、ゲームセンターに入る。
「心くん、プリクラ撮ろう!」
腕を引っ張られ、カーテンで仕切られた個室のような所へ押し込まれた。
「写真は苦手だ」
俺は出ようとするが「いいから、いいから」と無理矢理引っ張り戻される。手際良くパネルを操作していたかとおもうとシャッター音が鳴った。モニターにはきょとんしている俺の顔と、満面の笑顔でピースをしている友美が映し出されていた。機械に備え付けられたペンのようなものでパネルになにやら書いている。するとモニターの写真に文字やハートマークが描かれていった。器用なものだ。
「ってか、ハートマークって」
俺が呆れるように言うと、友美は「えへへ」と照れくさそうに笑った。
「あ、あのぬいぐるみかわいい!」
友美はクレーンゲームのガラスに張り付いて中を覗き込む。
「どれだよ」俺も覗き込むと「あのシカさん」と指をさす。そこにはピンク色の帽子を被り、角を生やしたぬいぐるみがあった。確か漫画のキャラクターだった気がするが、あれはシカだっただろうか?
俺はコインを投入する。クレーンゲームなんてやったことがないが、あのアームに上手くぬいぐるみを引っ掛ければいいだけだろう。簡単だ。
しかし、ぬいぐるみはアームを逃げるようにすり抜けていく。結局、千円を費やしたがぬいぐるみの位置が変わっただけで終わった。
「すまん」
「あはは、いいよ。ちょっと欲しかったけど」
友美は楽しそうに笑うと、次のゲームへと軽やかな足で向かった。
ゲームセンターを出ると、外はすっかり暗くなっていた。
「あーあ、もう夜だ」友美は恨めしそうに空を見上げる。
「もう一カ所だけ行きたいところがあるんだ。まだ少しだけ付き合って下さいね」
「帰りが遅くなったら親が心配するぞ」
店を出る時に時計を見たが、すでに十八時を回っていた。
「大丈夫です」
「また今度にすればいいだろ」
「今度なんてないもん」
その言葉の意味は解からなかったが、友美がすたすたと先へ言ってしまうので仕方なくついていくことにした。
繁華街から外れ、周りの景色はどんどんと住宅街へと変わっていく。そして、さっきからなぜか坂道が続く。十分ほど歩き続けるとようやく「ここです」と言って公園に入っていった。広めの公園だが遊具はそれほど多くなく、どちらかというと自然を楽しむ為の公園のようだ。友美はさらに奥へと向かっていったが、やがて足を止めた。
坂道が続いていたわけが判った。この周辺は小高い丘になっているのだ。開けた場所に出たと思ったら鉄製の手すりが現れ、その先には数多の街の灯りが宝石のように輝く風景が眼前に広がった。
「すごいでしょ? ここからなら街を一望できるんです」
「確かに、すごいな」
素直に感動した。表情には出さなかったが、満天の星空をそのまま逆さまにしたかのようなその景色に目を奪われていた。美しいものを見て心を震わせるという感覚が、未だ俺の中にあることにも驚いたが。
友美は手すりに掴まり遠くを見つめると、落ち着きを漂わせた。
「ここも見納め。最後に好きな人と来れて良かった」
眩しそうに目を細める友美の横顔に視線を送り、「最後って、どういうことだよ」と訊ねると、寂しそうな表情を浮かべた。無理して微笑んだ顔が痛々しく感じる。
「私、引っ越すんだ」
「いつだ?」
「明日」
「急だな」
俺は溜息を落とすと、手すりに背中を預けてもたれかかった。
「春休みに入ってから聞かされたの。それで親と喧嘩して家を飛び出した時だったかな、ストリートライブをしてる心くんを見かけたのは」
俺に出会ったのなんてほんの数週間前の出来事なのに、眼鏡のレンズ越しに見えた瞳は遠い昔のことを思い出しているようにも見える。きっと、この街に刻まれた様々な記憶を思い起こしているのだろう。その証拠に、ふいに友美の頬を涙が伝った。
「私、この街が好きだし、友達も好きだし、心くんも好き。引っ越しなんかしたくないよ。ここにいたいよ」
肩を小刻みに震わせながら、不安そうに泣きはじめた。こういう時に女の涙を止めてやれるほど俺は器用ではない。ただ黙って一緒にいて、話を聴いてやるしかない。
「この街の思い出を全部持って行っちゃったら、私がここにいたって証は時間とともにどんどん消えていっちゃうのかな?」
「じゃあ、少しだけ残していけばいい」
「どうやって?」
不思議そうな顔をするので、「プリクラ撮っただろ、貸してみろ」と右手を差し出した。友美が鞄からプリクラを取り出すと、それをひったくってシートから一枚剥がす。それを手すりの裏、ちょうど街を見下ろせる位置に貼り付けた。小さな写真の中の二人は、ずっとこの街を見つめ続けていく。
「これが、お前がここにいた証だ。だから、もう泣くな」
「うん」
友美は顔を綻ばせて、こくっと頷いた。
「それと、俺を好きだって気持ちも置いていけ。いくら想ってくれたって、俺はお前とは付き合えない」
「はっきりと言うんだね」
不満そうに口を尖らせるが、「まあいっか。ふられたけど、想いを伝えられたから後悔はないもの」と、吹っ切れたかのように穏やかに笑って見せた。
後悔はない、か。しかし、俺の中には一つだけわだかまりが残っている。
「まだ時間あるか?」
「うん、あるけど、どこに」
返事を最後まで聞かずに、友美の手を掴むと走り出した。さっき来た道を二人で逆走してゆく。
「ど、どこに行くの?」
「俺も後悔を残したくないんだ」
それだけ言うと、ゲームセンターまで戻ってきた。財布の中身を確認する。祖父母の家は裕福なので小遣いは普通の中学生より多くもらっている。それでもゲームで遊びすぎたから、残金は心許ない額だ。俺は三千円を友美に渡し、両替機で両替をしてくるように頼んだ。
クレーンゲームの前に立ち、袖を捲る。さっきの挑戦後から、シカみたいなキャラクターのぬいぐるみは位置を変えていない。
「心くん、まさか」
百円玉を三十枚持った友美が驚いた顔で立っていた。
「絶対取ってやる」
両指の関節を鳴らすと、硬貨を数枚掴み投入した。
しかし、どうやら俺にはゲームの才能は無いようで、今回もぬいぐるみはまるで生き物みたいにアームから逃げまどう。そして、あっという間に千円分の硬貨が機械に吸い込まれていった。
「ねえ、もういいよ。そこまでしてくれなくても」
友美が心配そうな声を出すが、俺は意に介さない。あのぬいぐるみを取ることは自分の為でもあった。諦めたくない。色んなことを諦めて、逃げるのはもうたくさんだ。
いつからそんな気持ちが芽生えたのだろう。自分はもっと冷めた人間ではなかったろうか。俺を変えたのは、今できることを精一杯やる穂村か。自分を犠牲にしてでも大切な人を思いやるサエか。それとも、俺のことを好きだと言ってくれた友美だろうか。
全員なんだろうな、やっぱり。三人と関わったこの数日間は、今まで生きていた中で一番充実していたように思う。欠損していた心の部品がいくつか見つかった気分だ。
「あ」
友美が声を上げる。ぬいぐるみのお腹の辺りをアームのツメががっちりと掴んでいる。そしてアームが上がると、ぬいぐるみが持ち上がった。ついに捉えた。
「よし!」
思わずガッツポーズをする。しかし、アームが横移動を開始した途端にぬいぐるみは落下してしまった。
「あー」
二人揃って落胆の声を出す。アームの握力が弱く設定されているのだろう。この握力で果たしてぬいぐるみを取ることは可能なのだろうか、と疑いたくなる。気がつけば、硬貨は残り一枚しかない。次がラストチャンスだ。
願いを込めるように硬貨を握り締めてから、コイン投入口にゆっくりと入れる。賑やかなメロディが鳴りだし、俺は横移動のボタンを操作する。続いて縦移動のボタンでアームを奥へと移動させ、絶妙な位置でボタンを離すとアームが下がり始めた。その様子を俺と友美は息を飲んで見つめる。アームはぬいぐるみの中央を捉えたが、閉じたツメは虚しく空を切った。
「だめか」
がっくりと肩を落とすと「待って!」と声がした。顔を上げると、ツメに紐が引っ掛かっているのが見えた。目的のぬいぐるみではないが、別のぬいぐるみのリング状になった紐が偶然引っ掛かったようだ。この際、取れれば何でもいい。
アームが上がると、埋もれていたぬいぐるみがずぼっと持ち上がった。それは誰が望んで取るのか分からないような、不細工な顔をしたクマのぬいぐるみだった。
取り出し口に落ちたそれを取り出すと、友美に差し出す。
「すまん、こんなのしか取れなくて。いらなければ捨てろよ」
「ううん、嬉しい。ありがとう」
まるで自分の子供でも抱くように大切にそれを受け取ると、友美は大らかに微笑んだ。
今日、何度この笑顔を見ただろうか。俺なんかといて楽しいわけないのに、どうしてあんな顔で笑えるのだろう。いつか、俺もあんなふうに笑える日が来るのだろうか。
ゲームセンターから出ると待ち合わせをした駅まで二人で歩く。あのクマのぬいぐるみは友美の鞄にぶら下がり、歩くリズムに合わせて揺れていた。
「じゃあ、私の家こっちだから」
駅前の交差点で信号待ちをしていると、そう言った。
「送ろうか?」
友美は首を静かに横に振る。そして躊躇いがちに「泣いちゃいそうだから」と言い残すと背を向けて横断歩道を歩いていった。その後姿を見送っていたが、やがて青信号が点滅して赤に変わると、車の群れが視界を遮り見えなくなった。
もう俺の歌を聴きに来る客は一人もいなくなった。これで、また前の生活に戻ってしまうのだな。いっそのこと俺も新しい生活を始めてみようかと考える。進行方向の信号が青に変わる様はまるで、その道が正解だよと示唆しているように見えた。




