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目を覚ますと部屋の中が真っ赤に染まっていた。暖かい色だったので恐怖は感じなかった。自分の右手を視界に入れてみると、その手も真っ赤だ。むくりと起き上がり、カーテンの隙間から窓の外を見ると夕陽が怒り狂ったかのように赤く燃えている。時計に視線を移すと十七時三十分になるところだった。少し寝すぎたか。
ぼんやりとした頭で階段を下っていき、トイレに入った後に居間へ向かう。誰もおらず、静まり返っている。いつものことだ。祖父母はほとんどいない。朝早く出ていき、帰ってくるのは二十時くらいだ。祖父母は老舗の和菓子屋を経営しており、儲かってはいるようだが随分と忙しいらしい。
祖父母の一人息子である俺の父が死んだことで、和菓子屋の跡取り問題に悩んでいるようだ。それでも孫の俺を跡取りにしようと大切に育ててくれていたが、二年前にある事実が判明したことで祖父母の態度は一変した。跡取りとして相応しくないと判ると、俺に興味が無くなったのだろう。でもそれは仕方がないことだ。俺も俺自身に興味を無くしてしまったのだから。
買い物をする為、外に出ると太陽は西に沈む所だった。春とはいえ、陽が落ちるとまだ少し肌寒いので足早に目的地へと向かうことにする。目的の店は楽器店だ。替えの弦とピックを買いに行く。どちらも消耗品だ。
いつもストリートライブを行っている駅とは逆の方向へ歩いていくと別の駅へと辿り着く。そちらは住宅が密集しているのでライブはできないが、駅前にアーケードの商店街があり、目的の楽器店もその商店街の中にあった。
全長三百メートル程の商店街で精肉店や玩具店などが並んでいるが、ほとんどの店のシャッターが下りてしまっている。寂れた商店街という表現がしっくりくる景観だ。楽器店が無ければ足を踏み入れることはまずないだろう。
歩行者があまりいないためか、自分の足音がアーケード内にやたらと大きく響く。規則的なリズムを刻む靴の音を掻き消したのは、女性の大きな声だった。
突然響き渡った声に驚き、声のした方を見やると十メートル程先にある小さなクリーニング店の前に二人の若い男女の姿があった。言い争うような声だが、女性の方が一方的に言葉を吐き出している。男性の方は気が弱そうで、おろおろするばかりだ。痴話喧嘩だろうか。昔と違って、今は男性よりも女性の方が強いというのがよく解かる場面だった。
「とにかくもう、くだらないことは言わないで!」
女性がクリーニング店のエプロンを脱ぎ、足元に叩きつけるように投げ捨てると自分の方へ早足で歩いてきた。あれだけ喚き散らしていたのだから相当怒っているのだろうと思ったが、女性の表情には違和感があった。
それは怒りに震える表情ではなく、悲しみを押し殺すような切ない表情だったからだ。
「あ」
目が合うと女性が声を上げ、そのまま俺を見据えて考え込む。
「よし」
何かを決意したように言うと、俺の腕をぐいっと掴んで歩き出した。
「ちょっと、なんだよ?」
「うるさい、来なさい」
有無を言わさずに引きずられていき、ついには商店街の外まで連れ出された。そして、二階建ての大きな喫茶店へと押し込まれた。
「あ、コーヒーでいいよね。アイスコーヒー二つ」
店員に勝手に注文すると、窓際のテーブル席に向かい合う形で座る。女性は少し落ち着いたのか頬杖をついて、ふうっと溜息を洩らした。どこかで見たことがあると思い、顔をじっと見てみる。きつそうな鋭い目をしていて、肩ほどまで伸びた髪は鮮やかな茶色に染まっている。歳はハタチ前後だろうか。
「あ」
「思い出した?」
女性が口角を僅かに上げて笑った。近くで顔を見るのは初めてだったから分からなかったが、やっと正体が分かった。ストリートライブの時に離れたベンチで退屈そうな視線を送ってくる女性だ。
「三人しかいない客の顔くらい憶えておきなさいよね」
「悪かったな。三人しかいなくて」
穂村はもう来ないから、実質二人になってしまったことは口に出さなかった。
「口が悪いわねー。年上のお姉さんに敬語くらい使いなさいよ、少年」
俺が深い溜息を吐くと女性はむっとした表情をするが、コーヒーが運ばれてくると意識がそっちに向いたのか嬉しそうな表情になった。
「で、何の用だよ? こんなところまで強引に連れてきて」
「ん? 用は特にないよ」
「は?」
理解できない言動に思いのほか大きな声が出てしまった。店内の客が数人こちらに注目したので照れ隠しに大袈裟な咳払いをした。
「ま、いいじゃん。お茶しようよ」
「俺、帰るから」
椅子から立ち上がる。こんな意味不明な人間に付き合っていられない。立ち去ろうとすると、右手をぎゅっと握られた。いい加減にして欲しかったので、睨みつけるように女性を見ると、気の強そうな顔からは想像できないほど心細そうな表情をしていた。一瞬、自分よりも年下なのではないかと錯覚してしまいそうでもある。
俺はその手を振り払うと、小さく舌打ちをして椅子に再び座った。
「なんだ、少年ってば結構優しいじゃん」
「うるさいな、コーヒーは奢ってもらうからな。本当はホットコーヒーが良かったけどな」
半ばやけくそ気味にそう言うと、テーブルの隅に置かれた容器からポーションタイプのガムシロップを二つ取り出すと、コーヒーの中へ投入した。
女性は大学生で『有村サエ』と名乗った。大学に通う為に、この街で一人暮らしをしているらしい。
「それにしても、さっきは恥ずかしいところを見られちゃったね」
男性と喧嘩していたことだろう。言葉とは裏腹にあまり恥ずかしそうにはしていない。
「なんで喧嘩してたんだよ」
「あの人、同じ大学に通ってる彼氏なんだ。あのクリーニング店の息子でね、私もあそこでバイトしてるの」
「なんだ、やっぱりただの痴話喧嘩か」
「そ、ただの痴話喧嘩」
サエはあっけらかんと言ってのけたが強がっているのは明らかだ。本心を話さないのなら、俺がここにいる理由なんかない気がした。そばにいるだけならぬいぐるみでもできるのだから。
突然、コーヒーをストローでくるくるかき混ぜていたサエが「だめだ」と呟いた。
「やっぱり、うじうじ悩んでるのは私らしくないわ。少年に話してもしょうがないことだけど、色々と吐き出させて」
「まじかよ」
ちらっと窓の外を見ると、すっかり陽は落ちて夜になっている。別に門限などはないが恐ろしく長い話になるような気がしてならない。だが、今更断るわけにもいかないので覚悟を決めることにした。
「彼氏にね、大学を卒業したら結婚しようって言われたんだ。クリーニング店を継いで、この街で一緒に暮らそうって」
「ふーん、よかったな」
「よくないわよ!」ものすごい剣幕で遮られる。
「なんでだよ。優しそうな人だったじゃないか」
「優しいだけの男よ」
苦々しい顔で言った。確かに頼りなさそうな印象はあり、カカア天下は間違いないと確信めいた思いはある。
「嫌いなのか? 彼氏のこと」
その質問を投げかけると、俯いて口をつぐんでしまった。その態度に辟易し、溜息を吐いてじろっと睨みつける。すると、渋々といった感じで重い口を開いた。
「嫌いじゃないんだ。私の父親も気が弱くてね、絶対に父みたいな男を好きにはならないって思ってたのに、不思議だね」
「好きなら結婚したらいいだろ。大学卒業後なら、別にすぐにってわけじゃないんだし」
「だめなの」
「なんで」
「二年前の震災を憶えてる?」
俺は頷く。当然だ。被災地は遠かったのでこの街には被害はなかったが、ニュースで見た地獄絵図のような光景は、未だ頭にこびりついている。
「私はあの震災の被災者でね、私は無事だったんだけど、妹が」
「……死んだのか?」
サエは首を大きく振った。
「生きてる。生きててくれてすごく嬉しかった。でも、震災時の事故で妹は両目の視力を失ったわ」
「そうか」
目に障害を負ったことは残念だが、生きていたということに安堵した。他人になんて関心がないはずなのに、やっぱり最近の俺は変だ。
「今、妹は障害者が通う学校の寮に住んでるけど、高等部を卒業したら実家に帰ってくるの。だから私も大学を卒業したら実家に帰って、妹のそばにいてやりたい。目の見えない妹を少しでも助けてあげたい」
「だから、彼氏と結婚はできないって?」
「うん」
「彼氏と別れるのか?」
「うん」
「ばっかじゃねーの」
驚くほど軽薄な言葉が自分の口から出た。しかし本心だ。サエの瞳に怒りの色が浮かんでいくのがはっきりと見てとれた。その口から発せられるのは罵声や非難だろう。だから先手を打って俺は口を開く。
「それで妹が喜ぶのか?」
「え」
「妹の為にあんたが幸せを犠牲にして、それでも妹は喜ぶと本気で思ってんのか」
「それは」
サエの言葉は店内に入ってきた数人の男女が発する馬鹿みたいなはしゃぎ声によってかき消された。
サエの考え、俺の理屈。どちらが正しいのかなんて知らない。でも、誰かの犠牲で得た幸せなんて悲しすぎる。どちらもいずれ不幸になると、そんなふうに感じた。
ささやかな沈黙の後、サエは財布からコーヒー代を取り出し、テーブルに置いた。
「少年の言う通りだね。だけど、やっぱり私は妹のそばにいる」
そう言い残すと喫茶店から出ていった。ぼんやりと窓の外を眺め、去っていくサエの後姿を目で追ってみる。
肩を震わせ泣いていた。去り際には無理して作った笑顔を見せていたが、泣いている。非情なまでの二者択一を迫られ、泣くほど辛い選択をしなければならない時が誰にでもあるのだろうか。遠くなっていくサエの背中はまるで、迷子の子供の如く心許ない。
「馬鹿が」
吐き捨てるように呟くと、レジに伝票と代金を投げつけて店を飛び出す。走るなんて久しぶりで、すぐに息が上がる。それでも構わず走った。喧騒は耳に入らない。聴こえるのは頬を切る風の音と荒い呼吸、そして心臓の鼓動だけだ。
少しだけがんばってくれよ、と鈍り切った身体に鞭を打つ。やがて、五十メートル程走ったところでサエの左腕を捕まえた。
「うわっ」
驚くサエを強引に引っ張っていく。さっきとは逆の立場だ。
「ちょっと、どこに連れていく気よ!」
「あんたの彼氏のとこだ」
「嫌よ! ほっといて!」
喚き、暴れる。それでも手を離すことはない。
「子供のくせに、余計なことしないで!」
思い切り腕を振りほどかれる。俺は背を向けたままだったが、真意を推し量るようなサエの視線を感じた。
「もっと相手と話し合って、ゆっくり答えを探せばいいじゃないか。焦らなくたって、あんたには時間がたくさんあるだろ。俺とは違うんだ」
一瞬、この世界から全ての音が消えてしまったかと錯覚してしまうほどの、ぴんと張り詰める静寂があった。
「俺とは違うって、どういうことよ?」
サエの声をきっかけに、病院、白衣を着た医師、落胆する祖父の顔が次々にフラッシュバックして脳内を駆け巡る。
「ねえっ!」
俺の肩を強く掴んで、振り向かせようとするが俺は振り向かなかった。
「少年の言ったことはおかしいよ、だってさ、まるで」
声を震わせる。そして消え入りそうなほど小さく「死んじゃうみたいじゃない」と言った。
前方から来た車がヘッドライトを輝かせながら俺たちの横を走り抜けていく。エンジン音はあっという間に遠ざかり、暗闇に消えた。
「永く生きられないんだ、俺」
最近の医師は、随分あっさりと死の宣告をするものだと思った。二年前、風邪をひいて熱が出た際に四肢の痛みがあると訴えると、祖父に病院へ連れて行かれた。そして告げられたのが『ファブリー病』という聞き慣れない病名。
『古典的ファブリー病』とも言われ、糖脂質の分解を行う酵素の活性が欠損している為に、糖脂質が分解されず、血管や角膜、神経や心臓などに蓄積されてしまう難病だ。蓄積が進行すると全身の臓器障害を起こし、やがて死に至る。
早ければ二十歳ほどで俺は死ぬ。永く生きられても四十歳くらいまでらしいが、そんなもの憶測に過ぎず当てにならない。明日死んだっておかしくないのだ。
「俺はいつ死ぬか分からないから、きっとどう生きたとしてもても死ぬ時に悔いが残る。だから、あんたは永い人生を後悔しないように生きてくれよ」
振り返ってサエの目を見る。そして「頼むからさ」と付け加えると、俺はその場から立ち去った。困惑。悲痛。同情。その全てを含んだサエの瞳が、暫く脳裏に焼きついた。
それから二日ほど経った深夜。俺はいつものようにストリートライブをしていた。今日はギャラリーが誰もいない。毎回、目の前に陣取る眼鏡の女の子の姿を最近見かけないのは、きっと飽きてしまったからだろう。右斜め前方には無人のベンチ。なぜだか、ひどく寂しく思えた。
ギターをケースにしまう。頭の中に様々な思いが纏まりなく浮かんでは消え、演奏に集中できない。
もう帰ろう。そう思った時、見覚えのある鋭い目をした女が座っている俺を仁王立ちで見下ろしていた。サエだ
「あんたか」
小さく息を吐くと、サエは無言で缶コーヒーを差し出す。
「またコーヒーかよ」
難癖をつけながらも、それを受け取る。指先から冷気が伝わってくるのを感じた。
「しかもアイス」
サエは植え込みの縁に腰掛けると、俺の方を見ずに口を開く。
「彼と話し合った。結婚できない理由も、全部話した」
「そうか」
俺も視線を合わせずに返事をする。
「待ってるって。妹のこととか私の気持ちとか、色々なことが落ち着くまで、ずっと待ってるから、いつか必ず結婚しようって彼が言った」
「そうか、よかったな」
茶化すように言うと、缶コーヒーを啜った。
「お礼は言わない。子供に説教されて悔しいから」
「お礼はこのコーヒーだけで十分だ」
「私さ、もう来ないからね」とサエは言って、腰を上げる。
「だってさ、もし少年がここに現れなくなった時、悲しい想像をしちゃいそうだから」
苦しそうな声だった。そして、躊躇うような速度で歩き出した。しかし、ゆっくりと遠ざかる背中がふいに立ち止まる。
「私は言われた通り、後悔しないように生きてあげる。だから少年も、後悔しない生き方をするって約束して」
「無理だよ」
「無理なんかじゃない!」
悲鳴じみた声を出し、サエが振り向く。その目からは涙が筋となって流れていた。
「約束だからね……」
懇願にも似た言葉を絞り出すと走り去り、瞬く間に見えなくなった。最初から最後まで強引な女だ。勝手に約束をしていきやがった。
なんで俺なんかのために泣いたのだろう。サエの涙を見た時、穂村にお礼を言われた際にも感じた奇妙なむずがゆさがあった。以前と違ったのは痛みを伴っていたことだろう。ほんの少しだけ、胸の奥がずきんとしたのだ。
その痛みは俺の淀んだ心に変化が現れたからなのか、それとも単に病気が進行しているせいなのか。考えを巡らせたところでそんなことは解かるわけもないが、サエが後悔しないように生きると言った時は喜びに似た感情を覚えた。
サエの言ったように、短くても後悔しない生き方をすることで誰かが喜んでくれるのだろうか。馬鹿らしいと笑われるだろうか。
俺は立ち上がると、ぬるくなってしまった缶コーヒーの残りを一気に飲み干す。苦い味だけが口に残った。




