1
日付が変わる頃、俺は街の中をゆっくりとした足取りで歩いていた。手には重いギターケース。通り過ぎる車の音も擦り減った靴底も気に留めず、表情を変えずにただ歩いた。
そんな虚ろな歩みの中でさえ過敏に反応してしまうものがある。明かりの消えた写真館の前でふと足を止め、ショーウィンドウに目をやる。いくつか並べられた写真はどれも家族写真のようだった。幸せそうな顔で笑う子供と両親。ショーウィンドウのガラスに映り込む自分の顔とは随分違って見えた。俺は目を背けるようにして、また歩き出す。
やがて、一際賑やかな場所に出る。陽気な歌声やギターの音色、歓声が入り混じった場所だ。多くのストリートミュージシャンの集まる駅前だった。バスのロータリーから駅前の大通りまで一定の間隔を置いて、思いの丈を吐き出す若者たちで溢れている。付近に住宅がないので、路上で大声を出すには格好の場所ではある。
世間では春休みの為か、明らかに中学生や高校生だと思しき少年少女の姿もちらほら見える。いくら春休みだからって、未成年がこんな夜中にふらふらしているのは如何なものだろうか。そんなふうに思う自分もまだ十三歳であるのだが。
俺はひと気の多い場所から少し離れた、ひょろ長い樹の植えられた植え込みの前にあぐらをかいて座る。小さな街灯がひとつあるだけの寂しげな場所だ。そんな頼りないスポットライトの下で溜息をひとつ吐き、遠くの喧騒を暫く見つめた。
そして、おもむろにギターケースを開けると、中から黒いボディのアコースティックギターを取り出す。一弦ずつチューニングをしていると、女の子が足早にやってきて嬉しそうに俺の前で膝を抱えて座った。眼鏡を掛けた、同じ歳くらいの女の子だ。その後、暗闇の中から浮かび上がるようにして現れた少年が少し離れた所から、こちらを窺うようにして見ている。この少年も同じくらいの歳だろうか。眠そうな目でポケットに手を突っ込んで立っている。そして最後に、右斜め前方に置かれたベンチに女性が一人座って、頬杖をついてぼんやりとこっちを見ていた。大学生くらいの気の強そうな女性だ。
いつもの顔ぶれだった。ここでストリートライブを始めてまだ半年ほどで、最初のうちは誰一人として俺の歌なんか聴きはしなかったが、春休みに入った頃からこの三人だけは毎日のように聴きに来ていた。
しかし、聴いてくれたからって嬉しくも何ともない。別に俺は誰かに聴かせる為に歌っているわけではないのだから。物好きな連中もいるなと、そう思うだけだった。
チューニングを終えると、ティアドロップ型のピックを右手に持ち、音を確かめるように軽くストロークする。ジャランと空気を震わせる音がする。そして、少しだけ息を吸い込むとギターを掻き鳴らし、静かに歌い始めた。ライブ開始の挨拶なんてものはしないし、曲の合間に気の利いたMCなどもない。人との会話が苦手だったし、そういったものは得意な奴だけがやればいいのだと俺は思う。
ギター雑誌などを読むと、『ストリートライブ中はMCで観客を盛り上げよう!』などと書かれているが、そんなものくそくらえだ。それが正しいルールだと決めつけて、縛り付けられるのがとにかく嫌だった。
そんな自分の考え方が間違っていないと分かったきっかけは『ムーミン』だ。物語に登場する『スナフキン』は普段はクールな人物だが、公園に立てられた『芝生に入るべからず』と書かれた看板に怒り、ひとつ残らず引き抜いてしまうのだ。周りはその行動を異常だと捉えるかもしれないが、俺はなんとなく共感した。
自由を奪われるのは我慢ならない。孤独を愛し、群れることを嫌う。俺はスナフキンに似ているのだろうか。
いや、やはり似ていない。すぐさま自分の問いを否定した。スナフキンは困った人に手を差し伸べる優しさを持っている、スナフキンには信頼できる友がいる、スナフキンには安心して帰れる場所がある。
それは、どれ一つとして俺が持っていないものだ。俺にはなにもない。さながら穴の開いたチーズみたいにスカスカの心は埋まることはない。
考え事をして集中力を欠いたからか、ギターの弦がびりっという音を出した。コードを押さえる左手でのミスだ。弦の押さえが甘かったのだろう。しかし、そんな失敗を気にも留めずに演奏を続け、まるで呪詛のような俺の歌声は夜空へと溶けて消えていく。
別に歌やギターが上手いわけでもない。流行りの曲を演奏するでもない。それなのに、なぜ三人は俺の歌を聴きに来るのだろう。一体、どんな想いで聴いているのだろう。いつもならば気にならないのに、その日はなんだか気になったので、ちらりと三人の様子を窺ってみる。
目の前に座る眼鏡の女の子は相変わらず嬉しそうな顔をしている。目が合うと女の子は少し微笑んだので、すぐさま目を逸らした。眠そうな目の少年は無表情だ。何を考えているのか知ることはできそうもない。ベンチに座る女性は退屈そうにぼんやりしている。心ここに在らずといった感じだ。
結局、何も分からないままその日のライブを終えた。ギターをケースにしまい始めるとベンチの女性は立ち上がって帰っていった。少年はすでにいなくなっている。女の子は最後までこちらの様子を見ていて、なにか言いたげだったが、俺は何も言わずにその場から立ち去った。逃げ去ったと言った方が適切かもしれない。あの眼鏡の女の子はなんだか苦手だ。悪人ではないのは分かる。だが、それが逆に怖かった。彼女の口から、とんでもない言葉が飛び出しそうで怖かったのだ。
家に着く頃には、朝刊を配達するバイクがせわしなく走り回っていた。夜は明けきっておらず、まだ空は暗い。俺は鍵穴に鍵を差し込んで重厚なドアをゆっくり開ける。しんと静まり返った家の中は一切の色を奪い取られたかのように無機質に感じる。
足早に階段を上がり自分の部屋に入ると電気も点けず、ベッドの上にうつ伏せで沈み込んだ。物心ついた頃から住んでいるにも拘らず、なんだか落ち着かないのはここが祖父母の家だからだろうか。
俺を育ててくれたのは父方の祖父母だ。両親はいない。父は俺が生まれてすぐに交通事故で死んだ。そして、母は俺をこの家に置いたままどこかへ逃げてしまい、消息不明らしい。ようするに俺は母に捨てられたのだ。
そんな母に対して、憎しみはあるのだと思う。ジーンズのバックポケットから一枚の写真を取り出す。くしゃくしゃの写真にはまだ赤ん坊の俺を抱く母の姿が写っていた。母の姿を確認できるものはこの写真だけだ。随分前に、居間のタンスから見つけたこの写真を祖父に突きつけると、母だと教えてくれた。
写真の中の母は幸せそうな顔をしているのに、なぜ俺を捨てたのだろう。父の死後、一人で俺を育てる自信がなかったのだろうか。そんな半端な覚悟ならば、なぜ俺を産んだのだ。
いつか、そんな恨み言にも似た疑問を母に問い質してやりたかった。でも、その日はやって来ないのだろう。俺には時間がないのだから。




