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あの未曾有の災害が人々の記憶から薄れかける頃、私は十八歳になっていた。小学校を卒業した後、丁度その春に創立した学校『花鳥風月』の中等部に入学した。この変わった名前の学校は特別支援学校という障害者の為の学校で、中等部、高等部と通い続け、今年で六年目になる。
全寮制の学校なので、夏休みには毎年家族のもとへと帰るのだが、今年は帰らずに学校に残った。来年には高等部を卒業することになり、この学校で過ごす最後の夏だから、などというセンチメンタルな理由からではない。ただのきまぐれだ。
その日、私はいつものように屋上で風に当たっていた。目が見えた頃には気にも留めなかったものが、目が見えないことで愛おしく感じる。その一つが風だ。
肩ほどまでに伸びた髪を風が優しく撫でると、頭を撫でられている犬のように気持ちよさそうに目を閉じる。
「こんにちは」
ふいに女の子に声を掛けられたので、私も「こんにちは」と返す。
「何を見てたんですか?」
随分低い位置から今度は男の子の声がした。座っているのかなと思ったが、すぐに車椅子だと理解した。この学校では珍しいことではない。
「何も見えないわ。私の目では」
私の瞳が光を宿していないことに気付いたのだろう。一瞬、その場がぴんと張り詰めた空気になった。
「ごめんなさい、僕、無神経なことを」
男の子が自分の発言に落ち込んでしまったので、逆に申し訳ない気持ちになり、「別に謝ることはないわ。知らなかったんだから」と慌てて言った。
「あなた達も、夏休みを学校で過ごすの?」話題を変えようと、訊いてみる。
「うん。他に仲間がいないかなと思ってたんだけど、校長先生からあなたのこと聞いてね」
女の子が答えた。
「そうなんだ。学校に残ってる生徒は五人だって聞いたわ。あと二人も探すの?」
「あ、もう一人ここにいるの。声が出せないんだ」
すると、私の右手が握られた。その小さな手の主がもう一人の生徒だろう。手の形や感触で女の子であることが分かった。声の出せない相手とどうやってコミュニケーションをとればいいのか迷ったが、女の子はそんなことは気にもしていないようで、嬉しそうに繋いだ手をぶんぶんと揺らした。
その後の自己紹介で三人が障害を負ったのは最近であることが分かった。
最初に声を掛けてきた女の子は涼子ちゃん。一年前に事故で左腕を失ったらしい。気が強そうだが優しく、さばさばした感じが姉に似ている。
車椅子の男の子はアユムくん。自殺しようとする友人を助けようとした際に、一緒にビルから転落してしまい、下半身不随となったそうだ。残念ながら友人は亡くなったと悲しそうに語った。
声の出せない女の子は琴里ちゃん。両親が殺害されたショックで失声症という病気になったと、涼子ちゃんが説明した。去年のクリスマスに起きた殺人事件の遺族だと聞いて驚いた。
三人とも私よりも年下だったが、辛い出来事と真正面から向き合い明るく生きている。
「私はだめだな」
呟くような声を洩らすと「どうして?」とアユムくんが心配そうに訊き返してきた。
「私はね、逃げたの。目が見えなくなって、もう私には何もできないんだって。そうやって言い訳して逃げたの」
わざと考えないようにしていた。そうやって六年間、自分の気持ちを誤魔化してきた。でも、この三人と話しているうちに胸の奥に押し込めていたものがゆっくりと動き始めて、抑えきれなくなってしまう。瞼が熱くなり、雫が落ちた。
「もう一度、ピアノが弾きたい」
震える声でそれだけ言った。すると、急に腕が引っ張られた。琴里ちゃんだ。ずっと繋いでいた手をぐいぐいと引っ張って、私をどこかへ連れて行こうとしているようだった。
「ちょっと、琴里どうしたの?」
涼子ちゃんが落ち着いた声で言う。何か考えがあっての行動なのだろうと、分かっているような口調だ。すると、電子音が聴こえた。携帯電話のプッシュ音だろう。その後、涼子ちゃんの「なるほど」という声がした。
状況が飲み込めない。どういうことか説明してほしい。
「行こう、ひかりちゃん」
「ど、どこに?」
「音楽室。琴里がピアノを聴かせてほしいんだって」
半ば強引に音楽室へとやってきた。
音楽の授業こそなかったが、音楽室が存在していることは知っていた。そして、そこにピアノがあることも。
琴里ちゃんに手を引かれてピアノの前に立つ。譜面台の辺りから鍵盤蓋の辺りまでをなぞるように指で触れてみる。懐かしい感触だったが、指先に冷たいものを感じ、ピアノが私を拒絶しているように思え、どうしても怖気づいてしまう。
「やっぱり私、弾けない」
「でも、弾きたいんでしょう?」
涼子ちゃんの言葉に私は口をつぐむ。内心はその通りだった。しかし、もう六年も弾いてない。果たしてまだ弾けるのか、そんな不安ばかりが私の中にはあった。
「一度逃げたからって、もう一度立ち向かっちゃいけないなんてルールはないんだよ」
涼子ちゃんが私の肩に右手を置いて椅子に座らせると、そう言った。
戸惑いながら、鍵盤蓋をゆっくり開ける。不思議だった。目は見えないのに、目の前には眩しいほどに真っ白な鍵盤が鮮明に浮かび上がる。
大きく息を吸い込んで鍵盤の上に指を置く。頭の中に刻み込まれた楽譜は、そのほとんどが掠れて消えてしまっている。しかし、いつまでも消えずに残っていてくれた楽譜もあった。私の大好きな曲。『乙女の祈り』そして『月光』だ。
私はまだ、ピアノが弾ける。そう確信して、指を躍らせた。
それから一週間ほどが過ぎ、夏休みも中盤に差し掛かっている。私は三人と毎日一緒にいた。中庭でおしゃべりしたり、みんなで学校の外でお買い物したり、そんなのは普通の年頃の女の子ならば当たり前のことなのだろうが、初めてできた友達と遊ぶのは私にとって何よりも嬉しかったし、楽しかった。
最近、一つ気になることがある。午前中にピアノの練習をして、昼ごろから三人と合流するのだが、ピアノの練習の為に音楽室に入るとすでに誰かがいることがある。私が音楽室に入ると、その人は何も言わず出て行ってしまうのだが、いったい誰なのだろう。
その日も、その人は音楽室にいた。私が音楽室に入ると、何か蓋を閉めるような音がした後、部屋を出ていく足音が聴こえる。
「あの」思い切って声を掛けてみた。「私、お邪魔でしょうか? 音楽室を使う時間、変えた方がいいですか?」
足音がとまり、少しの間を置いて「別に」と素っ気ない返事が返ってきた。そして、そのまま去って行ってしまった。結局、分かったのは男性であることだ。若い声だったので、きっとこの学校の生徒だ。
そのことを、食堂でお昼ご飯を食べながら三人に話してみる。
「そうなんだ、僕は見たことないけど」
「あたしも」
アユムくんと涼子ちゃんは知らないようだったが、直後に携帯電話のプッシュ音がした。琴里ちゃんだ。彼女は携帯電話のメモ帳の機能を使って自分の言葉を伝える。涼子ちゃんがそれを声にしてくれた。
『音楽室でギターを弾いている男の子を見たことがある』
ギター。そうか、あの蓋を閉めるような音はギターケースを閉める音だ。
「夏休みの間、この学校に残ってる生徒って五人だよね。もしかしたら、最後の一人かも」
アユムくんの言葉に「だとしたら、仲良くなりたいね」と涼子ちゃんが返す。
確かにそうだ。仲良くなりたい。しかし、私はあの男の子になにか感じるものがあった。それがなんなのかは分からないけれど、なんだか触れてはいけないものに思えて仕方がない。杞憂ならばいいのだが。
「相席してもいいかしら?」
女性の声がした瞬間、空気が華やぐ。この優しくて温かみのある声の主は、スクールカウンセラーの柳井さんだ。三人の表情がぱっと明るくなるのが手に取るように分かった。かくいう私も自然と笑顔になっている。
私は視覚を失ったことで聴覚が人よりも鋭くなったように思う。それは、音が聞き取りやすくなったという程度のものではなく、人の声を聴いただけでその人の性格まで分かってしまうような、そんな感覚だ。
柳井さんの声を聴いた時は正直驚いた。まるで穢れのない聖者か天使とでも話しているような錯覚を覚えたからだ。きっとこの人は、日陰に生えた雑草から地球を照らす太陽まで平等に愛せる人なのだろうと、そう感じた。
「やっぱり、この食堂のサバの味噌煮は格別ね」
柳井さんは私の隣の席に座ると、幸せそうな声を出す。食事を始めたようだ。
「柳井さん、もう一人学校に残ってる生徒いますよね?」
私は訊いてみた。柳井さんなら全ての生徒のことを把握しているだろう。
「うん、いるよ。神山心くんでしょ」
『カミヤマシン』
それが、あの男の子の名前らしい。サバの味噌煮に夢中だからなのか、それとも意図してなのか分からないが、柳井さんは名前以外のことは答えなかった。果たして、それ以上のことを訊いてもいいのだろうか。喉まで出かかった言葉を押し込めると、アユムくんが口を開いた。
「どんな人なんですか?」
「それは……」
珍しく柳井さんが口ごもった。やはり、あの心という男の子には何かある。きっと大きな障害を背負っているのだろう。恐らくそれは、片腕を失うことよりも、言葉を発せなくなることよりも、歩けなくなることよりも、そして光のない世界で生きることよりも、もっと辛い何かなのだ。
「彼は、何を失ったんですか?」
訊いておいた方がいいと、そう判断した。涼子ちゃんたちは、どんな理由があっても心という男の子に近づくだろう。私もそれには反対はしない。でも、今回ばかりは慎重さが必要だと、心の奥で小さな不安が警鐘を鳴らしている。
「そうね、しいて言うなら、未来かな」
「未来?」
漠然とした答えに、見えもしないのに柳井さんの方を向いて表情を窺おうとした。その時の私はきっと、答えの意味を教えてくれと懇願するような目をしていたと思う。
しかし、それ以上のことは話してくれなかったし、私たちもこれ以上は訊けなかった。
次の日、私はいつものように音楽室へ向かった。そして、入口のドアの前で立ち止まると、重いドアを少しだけ開ける。この音楽室は防音設備がしっかりしていて、ドアを閉めると中の音は聴こえないから、少しだけ開けて音楽室を使用中の人がいないか確かめるのだ。
隙間から零れる音がある。アコースティックギターの音色と、歌声だ。例の心という男の子が弾き語りをしているようだ。
暫く耳を澄まして聴き入る。優しくて柔らかなメロディ、そして元気がでる詩だ。気のせいか、どこかで聴いたことがあると感じた。有名な曲なのかもしれない。
「この曲、『ミッシング・ピース』ね」
背後から声を潜めて言ったのは涼子ちゃんだ。いつの間にか背後にいて、全然気がつかなかった。どうやら、琴里ちゃんとアユムくんもいるらしい。
「ミッシング・ピース?」
「うん、ずいぶん昔の曲よ」
「そうなんだ」
クラシック以外は詳しくないので、曲名を聞いてもあまりぴんとこなかった。
「でも」涼子ちゃんが怪訝な声を出す。
「この曲、もっと明るい曲だった気がする。彼の歌声は、なんだか悲しそう」
原曲は知らなかったが、『悲しそう』というのは同感だった。まるで、悲痛な感情を目に見えない何かにぶつけるような、そんな歌声だ。
少し迷った。私たちが関わってもいいのだろうか。心くんはそっとしておいてほしいのかもしれない。あの歌声から察するに、私たちが想像もできないような強烈な苦しみを彼は抱えているだろう。
私はドアを閉めようとした。
が、それを制する手があった。ドアを閉める私の手を誰かが握ったのだ。その手はいつも私の手を握ってくれる、琴里ちゃんのものだった。
優しく握られた手ではあったが、有無を言わせない強さもあった。琴里ちゃんは心くんと仲良くなることを望んでいる。彼女には迷いなどない。そんな純粋で真っ直ぐな琴里ちゃんの行動に、私の中にある一抹の不安が泡のように弾けて消えた。
私はゆっくりと頷くと、ドアを勢いよく開いた。このドアの先に待っているものが、どんな暗闇であっても、きっと大丈夫。
光無き道を照らしてくれる人たちが私の周りにいるのだから。




