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街の風がひんやりとしはじめる季節となったが、その日は少しだけ暖かかったので自宅の縁側に座ってジロと遊んでいた。ジロの首の辺りを擦りながら私よりも大きな顔を見つめる。優しくて純粋で澄みきった瞳には空が映り込み、まるでもう一つの空がそこにあるみたいだ。
相変わらず、母の厳しいレッスンは続いているが、雑誌の取材やテレビへの出演は少なくなってきた。世間が飽きてきたからなのかどうかは知らないが、私にとっては少しでも負担が減るのならそれで良かった。
庭では姉が鼻歌を口ずさみながら洗濯物を干している。母は家を空けることが多いので、洗濯は姉の仕事らしい。
「お姉ちゃんってさ、洗濯物を干してる時、嬉しそうだよね」
「だって洗濯物がきれいになるのって気持ちいいじゃない。心も洗濯できたらきれいになるのかな?」
詩人のようなことをさらりと言ってのける。
「じゃあ、将来はクリーニング屋さんだね」私が断定口調で言うと「それもいいかもね」と悩むこともなく返事をした。
そろそろ、ピアノの自主練習を始めなければ。母は外出中だが、サボっていたのがばれると怒られてしまう。ジロの頭をくしゃっと撫でて立ち上がろうとすると、ジロがサンダルを咥えて持っていってしまう。
「ジロ、返しなさい」
小さな子供に言い聞かせるように言うが、ジロは庭の隅でうずくまってこちらの様子を窺ったまま動かない。「もう」苦笑気味に口を尖らせると立ち上がって、片足は裸足のままでジロのもとへと向かう。
すると突然、目眩に襲われる。頭がくらくらとする感覚の後、膝の力が抜けて庭に手をついてしゃがみ込んでしまった。
「ひかり!」
姉の悲鳴に似た声が聴こえたかと思うと、意識が深い水の底に沈むようにゆっくりと遠のいていった。
モノクロの映像が映し出される。八ミリフィルムで撮影された無声映画に似た映像だ。きっと「乙女の祈り」を演奏する時に見えるいつもの光景だろう。しかし、その悲しい幻想はいつもとは少し違っていた。
ああ、そうか。私の姿が、ピアノを覚えたばかりの幼いころのものではないのだ。今の、十二歳の私の姿で存在している。場所はコンサートホールだろうか。眩しいほどの照明の中、風を受ける花みたいに身体を揺らしながら演奏をしている私の顔はどこか活き活きとしている。自信に満ちた姿は今の私ではない気がして、これは未来の自分ではないかと推測してみる。その様子を眺めているとステージの上で演奏している私が大粒の涙を落とした。
どうして? なにが悲しいの? やがて演奏する手が止まり、唇を噛みしめて顔を歪めると照明が一斉に落ちて真っ暗になってしまった。
しばしの静寂の後、うっすらと光が見えてくると、今度は色のついた映像がぼんやりと浮かび始める。
どうやら眠っていたようだ。さっきのモノクロの光景は夢だったのだと分かった。寝起きのものとは明らかに違う気だるい感覚が体中を支配している。ここは、どこだろう。見慣れない部屋のベッドに寝かされていた。
「あ、気が付いたのね」
姉が嬉しそうに私の顔を覗き込んだ。
「お姉ちゃん、ここどこ?」
「病院。あんた倒れたのよ。過労だってさ。十二歳の子が過労で倒れるなんて聞いたことないわよ」
半ば呆れた口調で言うと笑った。
過労。そんなに疲れが蓄積していたのか。腕には点滴のチューブが仰々しく繋がっている。
「ひかりさ、辛い時は辛いってちゃんと言いなよ。溜め込んだっていつかは限界を迎えるものなんだからね」
「……うん」
蚊の鳴くような声で返事をすると、姉は暫く私を見据えた後、渋々納得したという感じで頷いた。
「とにかく、今はゆっくり休みな。お父さんも仕事終わったらすぐ来るって言ってたから」
「お母さんは?」
「あの人も、もうすぐ来るんじゃない?」
素っ気なく言うと、パイプ椅子に腰掛けて雑誌をパラパラとめくり始めた。姉は母のことを『あの人』と呼ぶ。思えば、姉と母が仲良くしているところなんて見たことがなかった。会話も必要最低限なものだけで、それは家族として成立しているのか、すでに破綻しているのではないかと思うことすらある。
廊下の方から足早に歩いてくる音がした。母のヒールの音だとすぐに分かる。ドアが勢いよく開くと、予想通りに母が現れた。息を切らして「具合はどうなの?」と訊ねる。
「過労だって、少し休めば回復するってさ」
姉がちらっと母を見た後、抑揚のない声で答える。そして再び雑誌に視線を落とした。
「そう、良かった」
母が安心して胸を撫で下ろす。母親が子供の無事を確認して安心するのは当たり前のことなのに、なぜか私は嬉しかった。母の次の言葉を聞くまでは。
「じゃあ、すぐにレッスンを再開できるわね」
大きなガラスにヒビが入ったような、そんな鋭い音が耳の奥で聴こえた気がする。そして、その直後に姉の喚き声が室内に響いた。
「なによそれ! ひかりの身体よりもレッスンの方が大事だって言うの? あんたそれでも母親なの? ひかりがどれだけ辛い思いをしてるかも知らないのに、なんでそんな酷いことが言えるのよ!」
掴みかかりそうな勢いで姉が大声でまくしたてる。
「あなたには関係のないことよ。黙ってなさい」
姉とは対照的に母は冷静な口調だ。
「関係あるわよ! 私の妹なのよ! 自分がピアニストとして成功しなかったからって、ひかりに全部背負わせるようなことしないでよ! みっともない!」
「あなたに」母の目の色が変わる。「あなたに何が解かるの……!」
今にも殴り合いに発展しそうな一触即発の雰囲気に耐えられなくなったのは私だった。
「もうやめて!」
普段は物静かな私の悲鳴にも似た声に二人は驚いた顔でこちらを見る。
「私、ピアノのレッスンがんばるから、大丈夫だから」
力が上手く入らなかったが、なんとか上半身を起こし、無理矢理につくった笑顔で言葉を絞り出した。
姉は母を睨むように一瞥すると、手に持っていた雑誌を床に叩きつけて出ていった。私は泣きそうになったので、窓の方に顔を向ける。窓ガラスにぼんやりと映る自分の顔は青白く、幽霊のようだった。
過労で倒れたその日の夜には、退院することができた。自宅に戻り、縁側に座るとジロが尻尾を激しく振りながら、ものすごい勢いで走ってくる。ジロも心配してくれていたみたいだ。
母はまたどこかへ出かけていった。最近、ほとんど家にいない気がする。少し肌寒さを感じながら夜空を眺めていると、父が紅茶を持って私の隣に座る。
「ありがとう、お父さん」
紅茶に口をつけると、アールグレイ独特の香りが口の中に広がり、ほっとする。
「なんでお母さんとお姉ちゃんは仲が悪いのかな?」
素朴な疑問だった。別に答えを求めているわけでもない、独り言のような言葉だったが父はなにやら考えあぐねる。そして、父は決意に満ちた表情で話し始めた。
「ひかりに話しておかないといけないことがある」
いつもの優しい声ではなく、低いトーンの声だった為、きっと良くない話なんだと想像できた。
「実はな、お父さんとお母さんはもう夫婦じゃないんだ」
「え」
意味が解からなかった。
「二年前に離婚したんだ」
「リコン」
もちろんその言葉の意味は知っていたが、テレビでしか聞いたことがない言葉だったので、妙に現実感がない。
「お姉ちゃんは、そのこと知ってるの?」
「ああ、知ってる」
そういうことだったのか。姉の母に対する態度、母がほとんど家にいない理由。それがようやく繋がった。
「私だけ、知らなかったんだ」
家族から除け者された感じがして寂しかった。ジロをちらっと見る。きっとジロも知っていたんじゃないだろうか。飼い犬は、その家に起きたすべての出来事を知っているものだと、私はそう思う。
「ごめんな、ひかりが中学生になるまでは黙っておこうとしたんだ」
「どうして離婚したの?」
「それは」父が言い淀む。「大人には色々あるんだよ」
子供には言えないような理由なのだろうか。あやふやな回答で誤魔化されてしまった。曖昧さを受け入れるのが大人なんだと、いつか本で読んだ記憶がある。でも、子供にだって知る権利はあるはずだ、なんて居丈高に反論したくなるのはやはり私が子供だからなのだろうか。
離婚の理由に関しては、姉が母を見る時の憎しみや嫌悪感の込められた目から、母に非があるのだということは容易に察しがついた。
私は何も言わず、立ち上がる。ここで父の話を聴き続けていても暗澹たる気持ちは膨らむ一方だろう。親とは時に身勝手だ。子供の気持ちなんてお構いなしに離婚なんてしてしまうのだから。居間から出る際に振り返ると、父の背中がひどく辛そうに見えた。
階段を上がり、自分の部屋へ向かう途中で姉の部屋の前で立ち止まった。部屋の中からはロックだかパンクだかが大音量で垂れ流されている。姉はいつも嫌なことがあるとこうやって部屋に閉じ籠る。
機嫌が悪いだろうなと思い、遠慮気味にドアをノックする。暫く待ったが反応がないので、今度は強めにノックした。それでも返事はない。なんだか家族がバラバラになっていくような気がして悲しくなり、涙がぽろぽろと溢れだした。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
嗚咽をもらしながらドアを叩き続けていると、やがて音楽が止み、姉が顔を出す。私は姉に飛びついて大声で泣いた。
「ちょっとひかり、どうしたのよ」
「お母さんはもう家族じゃないの? もう私のお母さんじゃないの?」
その言葉で姉は、私の涙の訳を理解したようだった。
「ばかね。両親が離婚したからって、あの人が私やひかりを産んだことには変わりはないのよ。私は認めたくはないけど、紛れもなく母親なのよ、あの人は」
優しげな姉の声に「うん」と頷くが、涙は止まらない。今まで家族だった人が突然、家族ではなくなるということが、子供の私には不安で怖くて仕方なかった。
離婚の事実を、もう私に隠す必要がなくなったからなのか、母はピアノのレッスンの時にしか家には来なくなった。そのせいで父や姉は慣れない料理などをすることになり、キッチンは毎日、てんやわんやの大騒ぎだ。初めのうちは到底料理とは呼べない代物が食卓に並んだが、人間の学習能力とはすごいもので、今では感心してしまう程に立派な料理が作れるようになっている。
私もできるだけ家事を手伝おうとはするのだが、姉が疲れている私に気を遣って仕事を全部取ってしまう。私だってがんばれるのに、と不貞腐れるが姉は意に介さない。
その日、キッチンでは昼間から忙しそうにしている父と姉の姿があった。何をしているのかと訊ねると、「今日はクリスマスでしょ、ごちそうを用意するから楽しみにしてなよ」と姉が嬉しそうに言った。
「お父さん、今日は仕事じゃ……」
「有給休暇だ」と、姉と同様に嬉しそうに笑う。
さてはこの二人、料理にはまったな。
手伝うと言ってもどうせ手伝わせてはくれないのだろうから、私はまた教会に行くことにした。今でも教会通いは続いている。赤いジャンパーを着込み、マフラーと手袋をして外に出ると冷たい風が頬を打つ。首をすくめて空を見上げると、低い雲が広がっていた。
教会のある高級住宅街を進むと、どの家もイルミネーションのライトで飾られている。昼間は電気のコードが蜘蛛の巣のようで見栄えのいいものではないが、夜になったらさぞかし綺麗なのだろう。以前、私もクリスマスの日にはイルミネーションで家を飾りたいと言ったことがある。しかし、母と姉に恥ずかしいからやめろと強く言われた。何だかんだ言って、あの二人は気が合うのではないかと思う。
ひんやりとした重い教会の扉を開け放ち、中に入ると誰もいなかった。私は自分の家の中を歩くような慣れた歩調でピアノの前まで移動すると、ピアノに掛けられた布を取り払う。
白く輝く鍵盤の前で手袋を外しながら考えた。さて、何を弾こうか。祭壇の上あたりに目をやると、十字架に磔にされたキリストの像が目に入る。そうだ、今日はクリスマスなんだからクリスマスらしい曲にしよう。
バッハのカンタータ第一四七番『主よ、人の望みの喜びよ』が真っ先に頭に浮かんだ。清らかで厳かなこの曲ならぴったりだ。
自由に、楽しく。
この言葉を心の中で唱えないと、母に教えられた通りに弾いてしまう。私は瞼をそっと閉じると、演奏を開始する。
肩の力を抜き、自由にピアノを弾いていると自然と楽しい記憶ばかりが思い出される。ピアノを習いたての頃、私はバッハの肖像画を見て「怖い」と泣きだしたそうだ。『音楽の父』と称される偉大な人物に対して失礼極まりない。そういえばその話を聞いた時、家族四人で笑っていたっけ。
最後の一小節を弾き終えると、余韻に浸りながら目を開ける。指を揉みほぐす仕草をして一息つくと、教会内に自分以外の気配を感じて見回す。
全く気がつかなかったが、演奏中に入ってきたのだろう。私以外に二人の人物がいた。並べられた長椅子の前の方に私よりも少し年下と思われる十歳くらいの男の子。ハーフなのか、目鼻立ちがはっきりとした子だった。
もう一人は後ろの方に座る女性。母よりも少し若い気がする。綺麗な人だったが、どことなく寂しそうな顔が印象的だ。
男の子が瞳を輝かせてこちらを見ている。もっと弾いてと言わんばかりの表情だ。私は男の子に微笑むと鍵盤に指を置いた。小さな子でも分かる曲にしようと『サンタが街にやってくる』を選んだ。クラシック以外で弾けるクリスマスの曲はこれだけだ。
再び目を閉じて指を弾ませようとした時、椅子越しに僅かな振動を感じた。なんだろう、と思った直後のことだった。地面の下から突き上げるような激しい縦揺れが私を椅子から弾き飛ばす。
それはまるで、巨人が足踏みをしているように、ドン、ドン、と立て続けに起きた。それが何なのか解からないまま立ち上がろうとすると、さっきの揺れとは比較にならないほどの強烈な横揺れが私を再び床に叩きつける。その揺れで理解した。これは地震だと。
パン、という鋭い音がしたので反射的に音のした方に視線を向ける。上下の感覚が無かったが、私の向いているのが上だと知ることができたのは、音の正体がステンドグラスの割れる音だと分かったからだ。ステンドグラスの鮮やかな破片がキラキラ輝きながら降り注いでくる光景がスローモーションのように見えた。
ほんの数秒間の出来事だったのだろう。最後に聴こえたのは私のもとに駆け寄ってくる誰かの足音と、何かが崩れる轟音だった。




