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木々が紅く染まり始めるころ、母に対する密かな抵抗をするようになった。それは、ほんの些細なことで、抵抗と呼べるほど大袈裟なものではないかもしれない。
学校が終わった後、真っ直ぐ帰宅せずに寄り道をしてから帰るのだ。家に帰ればすぐにピアノのレッスンが待っているが、寄り道をすることで僅かだけど自分だけの自由な時間を作ることができた。
今日も私は自宅までの帰路を外れ、閑静な住宅街を行く。緩やかな坂道となっているレンガ造りの歩道を歩き続けると、明らかにお金持ちが住んでいそうな高級住宅が立ち並ぶエリアに出る。その一角に目的の場所はあった。
三角の屋根の先端に十字架が掲げられている。外国の景色に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えるその建物は教会だった。小さいながらも、独特の存在感を放つこの教会を発見したのは、一か月ほど前だ。
その日、家に帰るのがなんだか憂鬱で街中を彷徨っているうちにいつの間にかこの教会の前に立っていた。見慣れない白く美しい建物が教会だと判ると、導かれるように中へと吸い込まれてしまった。別に私はクリスチャンでもないし、神様に救済してほしかったわけでもないのに、なぜそうしたのかは分からない。ただ、その日からというもの、学校帰りに足繁く通うようになった。
私はいつもと同じようにアーチ状の門をくぐると、頑丈そうな木製の扉を開けて教会の中へと足を踏み入れた。しんとした礼拝堂は清らかな空気が満ちていて、神聖な雰囲気を醸し出している。自分以外には誰もいないようだった。
左右に並ぶ長椅子を指でなぞると、つるっとした感触がある。私はそのまま一番後ろの長椅子に腰掛けると一息ついて天井を見上げる。外界から聴こえてくる僅かな喧騒が、高い天井の中へ吸い寄せられては消えていくのを感じながら、ステンドグラスを眺めた。聖母子像の前で祈りを捧げる殉教者の絵だろうか。外部からの透過光で鮮やかに映えるガラスの芸術に見とれると、溜息を洩らす。それは、いつもの淀んだものを吐き出す溜息とは違い、感嘆の声を上げるかのような溜息だった。
毛布に包まれる感覚に似た安心感と疲労とが相まって、なんだかとっても眠い。昔、こんなシーンをアニメで見た気がする。傍らにジロがいたら、空から天使でも降りてきそうだ。
うとうとしていると、ゆっくりと歩く靴音で閉じかけていた瞼が開いた。こつこつと教会内に響く足音の方へ目を向けると、祭壇の前に牧師さんがいた。暫く様子を見ていると、牧師さんはこちらに気付いて微笑む。白髪で白い口髭を生やした恰幅のいい初老の男性だ。会うのは初めてではないが、毎回誰かに似ていると感じるのだが思い出せない。
「今日もいらしてたんですね」
穏やかな口調で話しかけてきた。私みたいな子供にも丁寧な敬語で喋るので、少しだけ緊張してしまう。
「すいません、いつもお邪魔してしまって」
「いえいえ、いつでも来て頂いていいんですよ」
そう言うと、微かに心配そうな瞳に変化した。
「でも、少し疲れているようですね。家でゆっくり休まれたほうがいいのでは?」
そんなにあからさまに判るほどに、私は疲れた顔をしているのだろうか。それともこの牧師さんは他人の胸の内を鋭く感じ取ることができるのだろうか。
「家にいた方が疲れるんです」
ぽつりと本音を零すと、牧師さんは私の隣に静かに腰を下ろした。
「もし、よろしければ話を聴きますよ。誰かに話すことで楽になることもあります」
その言葉は、スタートを待ち侘びるランナーにとってのピストルに等しかった。号砲で駆け出すランナーの如く、私の口からは溜め込んだ感情が溢れた。
「辛いんです。毎日ずっとピアノのレッスンばかりだし、お母さんは厳しいだけでちっとも褒めてくれない。私、がんばってるのに」
「ピアノが嫌いなんですか?」
「ピアノは、好きです」
「じゃあ、お母様のことが嫌いなんですか?」
私はぶんぶんと首を横に振る。「私は」涙を必死で堪えながら続ける。「私はただ、もっと自由に楽しくピアノを演奏したい。このままじゃ本当に、ピアノもお母さんも嫌いになっちゃう。そんなの嫌。嫌なんです」
私は俯いたままだったが、隣の牧師さんが天を仰ぐのを気配で感じる。「自由に楽しく、ですか」何気ない相槌だったが、それは曖昧な生返事などではなく、明確な意思を持った言葉に思えた。
「あなたの望む演奏を聴かせてくれませんか?」
優しい声でそう言うと、牧師さんは長椅子から立ち上がり、祭壇の方へ歩き始めたので私も後に続いた。
祭壇前で左に向きを変え、柔らかそうな布の掛けられた物体の前で立ち止まる。今まで気付かなかったが、壁際に置かれたそれが何なのか、私にはすぐ分かった。牧師さんが布を丁寧に捲って取り去ると、立派なグランドピアノが姿を現す。家にあるピアノよりもずっと大きいフルサイズの『コンサート・グランド』だ。
「素敵なピアノですね」
「そうなんですか? 音楽には詳しくないのでわたくしにはよく分からないのですが」
「専用ホールでのコンサートで使用するのと同じくらいのピアノです」
いつもコンサートで使用するピアノと同じサイズなので見慣れているはずだが、教会の中に佇むそのピアノはやけに神々しく感じられた。
「弾いてもいいですか?」
「どうぞ」
牧師さんの顔が綻ぶ。私は椅子に座り鍵盤蓋を開けると、そっと確かめるように音を出してみる。調律はしっかりとされているようだ。どの曲を弾こうか迷ったが、やはり一番好きな『月光』にした。瞼をゆっくりと閉じ、息を吸い込む。
自由に、楽しく。そう心の中で唱えた後、鍵盤の上で指を躍らせた。頭の中の楽譜を次々にメロディへと変えていく。母から注意を受けた箇所も自分の弾きたいように弾いた。ピアノの音色と私の身体が一体化するような感覚。それは今まで母の言う通りに演奏をしてきた私には経験したことがないものだった。
これが音楽なのだ。これが私の本当の演奏なのだ。
拍手の音で我に返る。気が付くと、すでに演奏は終わっていた。胸の内に心地の良い高揚感が残っている。拍手をする牧師さんにお辞儀をすると、なんだか照れくさくなって頭を掻いた。
大切な宝物をしまうように静かに鍵盤蓋を閉じると、牧師さんに訊ねる。
「また、ここでピアノを弾いてもいいですか?」
「ええ、いつでもどうぞ」
教会の外へ出ると、夕凪が頬を撫でた。茜色の空を細めた目で見つめると軽やかに歩きだす。振り返ると牧師さんが扉の前で見送ってくれていたので、またお辞儀をした。その時にようやく分かったことがある。牧師さんと会う度に毎回感じていた、誰かに似ているという感覚の正体。そうだ、フライドチキンのチェーン店で店先に立っている人形に似ているのだ、と。




