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あの屋上での一件の後、あたしと創一くんはメールや電話でのやりとりを頻繁にするようになった。――が、実際に会うことはほとんどなかった。たまに学校ですれ違うくらいで、その時も軽く挨拶を交わす程度でしかなかった。そして、結局そのまま夏休みに突入してしまった。
会いたい。
そんなメールを作成しては消去を繰り返す。こんな乙女チックな部分があたしにもあったのかと思うとなんだか恥ずかしくなり、自室のベッドの上で無意味に手足をバタバタとさせてもがいた。暴れすぎてベッドから落下し、全身を強打する。
「バカみたい」
そう呟き、溜息を吐き出す。フローリングの床がひんやりと心地良く、しばらくそのまま横たわっていた。
視線だけを動かして、ふと時計を見るとちょうど日付が変わるところだった。このまま寝てしまおうか。そう思ったとき、突然けたたましい音とともに携帯電話が震えた。慌ててディスプレイを確認する。創一くんだ。
「はい! 涼子っす!」焦って語尾がおかしくなる。
「あ、寝てたか?」
「いえ、寝てないです。眠たくないです」
こちらの姿なんか見えていないのはわかってはいるが、寝ようとしていた形跡を消すため素早く起き上がり目を擦る。ついでによだれも拭いた。
「そっか。じゃあさ、今から海に行かないか? 約束したろ?」
「え」
ふいの誘いに戸惑った。たしかに約束はしたが、今から海? もう深夜なのに?
「朝陽を見に行こう。ほら、行くのか行かないのか」
「い、行きます!」咄嗟に答えてしまった。創一くんは「よし」とだけ答えて一方的に電話を切った。相変わらず強引だ。呆気にとられてしばらく携帯電話を耳に当てていたが、当然なにも聞こえはしなかった。
それからおよそ三十分後、バイクに乗った彼が自宅前まで迎えに来た。私服姿の彼を見るのは初めてだ。半袖のシャツにジーンズ。あたしの格好と大差ない。女の子らしい服を持っていなくて鏡の前で愕然としたのは十五分前のことである。
「親とか大丈夫? 怒られないか?」
心配そうに彼が訊く。時間が時間だけに連れ出すのに躊躇いがあるようだ。
「大丈夫。割と放任主義だから」
少しだけ嘘をついた。両親は厳しくはないが、放任主義と言うほどではない。さすがにこの時間に外出するのは止められるかもしれないので、寝ている両親を起こさないようにこっそりと出てきたのだ。
「そっか。じゃあ、ほら」
創一くんはフルフェイスのヘルメットをこちらに寄越した。バイクと同じ真紅のヘルメット。彼とお揃いのものだ。
「これ、あたしのために?」
「ああ、海までは遠いしな。この間みたいにヘルメット無しで乗せるわけにはいかないだろ」
ヘルメットのシールドに映る自分の顔が綻ぶ。それに気づかれないように、あたしは慌ててヘルメットを被り、バイクの後ろにまたがる。すると彼がコツンとヘルメットを当ててきた。
「この間よりもとばすからな。しっかり掴まってろよ」
「うん」
あたしは小さく返事をすると、彼の腰に両腕を回して強くしがみついた。シャツの生地越しに体温が伝わる。温かい。そして、あたしと創一くんを乗せたバイクは夜の闇をすり抜けるようにして走り出した。
夜の海というのはなんだか吸い込まれそうな感じがする。波音も普段より大きく聞こえ、何か得体の知れない巨大な生き物の唸り声のようにも思える。あの闇色をした波に捕らわれたら二度と戻ってはこれない。そんな恐怖すらおぼえる。
「ほら、コーヒー」
自販機から戻ってきた創一くんが冷たいコーヒーの缶をあたしに手渡した。
「ありがとう」
受け取った缶を開け、コーヒーを口に含む。ほろ苦い味が一瞬で口の中に広がった。
砂浜へと続くコンクリートの階段に腰掛けたあたしたちは夜明けを待つ間、他愛もない会話をした。学校の話や友人の話、子供の頃の話だったりと、どれも取り留めのない話だったけれど、ただ楽しかった。
だが、肝心なことは訊けないでいる。どんな女の子が好みなのか、好きな女の子はいるのか。この質問をしようと試みると、どうしても自身でブレーキをかけてしまう。言いたいことも言えない、こんなあたしらしくない自分に嫌気がさす。
「初恋っていつですか?」
この質問をひねり出すのが精一杯だった。創一くんはうーんと考え込む。
「恋っていうのかはわからないけど、五年くらい前にすごい女の子を見てさ」
少し照れくさそうにしている彼を見て、胸の辺りがざわめく。
「俺よりひとつ年下の子でさ、十二歳で天才ピアニストって呼ばれて、ちょっと有名になった子がいただろ? 憶えてないか?」
「あ、なんとなく憶えてるかも。その子の影響でピアノを習い始めた子がたくさんいたもん」
たしかテレビにもよく出演していたはずだが、どんな感じの女の子だったのかは、はっきりとは思い出せなかった。
「俺、その子のピアノコンサートに行ったんだ。親に連れられて嫌々だったんだけどさ。でも演奏を聴いて素直に感動したよ。それと同時に衝撃を受けた。俺より年下なのに、こんなすごいことができるのかって。それ以来、テレビとか雑誌でその子を見るとなぜかドキドキしたよ。バカみたいだろ。有名人に恋なんて」
照れ隠しで頭を掻いた後、寂しそうに続けた。
「でも、その子、急にテレビとか出なくなったんだよなぁ。噂だとピアノをやめたって聞いたこともあるし、今頃どうしてんだろ」
初恋の対象が身近な相手ではなかったことには安心したが、同時に不安も湧き上がった。仮に彼が『人よりも突出した何か』を持っている相手しか恋愛対象として見ないのだとしたら、いったいあたしには何があるんだろう。何もないではないか。あたしでは駄目なんだろうか。
気持ちが抑えきれない。今度はいつ会えるのか分からないのだから、もっと核心をつくことを訊きたい。ならば早く言ってしまえ、と心臓が早鐘を打つ。
「創一くんは、どんな女の子が――」
そこまで言いかけたとき、眩しい光に照らされた。
「おー」
創一くんが勢いよく立ち上がる。海の向こう。水平線の彼方から、神々しい輝きを放ちながら朝陽が昇ってきた。まるで闇を裂くように、漆黒の海にきらめきが戻っていく。
「きれい」
思わず口に出していた。
「だろ?」
隣で彼は自慢げに言いながら、嬉しそうに笑う。
朝日が照らしたのは暗い海や空だけではなく、あたしの心もだった。深い霧が立ち込めていたあたしの心を、太陽の光が祓ってくれた。
あたしは何を焦っていたんだろう。隣で大好きな人が笑っている。バイクに乗るときだけは両腕で彼を抱き締めることができる。それだけで充分じゃないか。この恋はゆっくりと育てていこう。枯らさないように、大切に。
「また連れてきてくれる?」
「ああ、また来ような」
彼の優しい声が耳から入って、全身に染み込むように溶けていく。また、この景色を創一くんと見ることができる。
それならば今はまだ片想いでもいい。そう思えた。