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暗闇を切り裂くかのようにスポットライトが照射されている。その中心にいるのは私だった。静まり返った広い空間に響くピアノの旋律。真っ白な鍵盤に負けないほどの透明感のある白い指が滑らかに動く度に荘厳なメロディが紡ぎだされていく。
ピアノソナタ第十四番『月光』第一楽章。二百年以上前にルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによって作曲されたこの曲は、私がもっとも好きな曲だ。弾いている最中は曲名の通り、月の光に包まれているかのような、落ち着いた気分になる。辛いことや、寂しい気持ちも全部忘れさせてくれるピアノの音色は、水面に浮かんだ自分の身体をゆらゆらと揺らすさざ波の如く、優しい。
およそ四分五十秒の演奏が終わると、ゆっくりと大きく息を吸い込み、目を開けた。私の右側から拍手が突風のように押し寄せてくる。私は椅子から立ち上がり、ステージの中央で深々とお辞儀をした。
今日は私のピアノコンサートであり、十二歳の誕生日でもあった。去年、小学生ピアニストとしてテレビで紹介され一躍有名になった私を、世間は『天才』や『神童』と囃し立てたが、連日の取材やテレビ出演で正直疲れ果ててしまっていた。元々、マイペースな性格なので私の意志とは無関係に過ぎていく嵐のような日々についていけなくなっていたのだ。
顔を上げて客席を見渡す。大人たちが満足気な表情で拍手をしている。その中に一人、私と同じくらいの年頃と思われる男の子が目に入った。客席の隅でぽかんとした顔でこちらを見ているので、微笑みかけてみると男の子は慌てて目を逸らす。寝癖のついた髪の毛が可愛らしいな、と思った。
鳴り止まぬ拍手の渦に見送られながらステージの袖に移動すると、腕組みをした母が険しい顔で私を睨むように見おろす。
「小さなミスが目立ったわ。あの程度で満足していちゃだめよ」
強めの口調でそう言い放つと、すぐに背を向けて去っていった。
母は私を褒めてはくれない。どんなにがんばっても優しい言葉を掛けてはくれないのだ。フリルのついた薄いピンク色のドレスのスカートを掴むと、強く握りしめた。
私が初めてピアノに触れたのは、三歳の時だ。その時の記憶は曖昧ではあったが、そこから母のスパルタ教育が始まったことは分かっていた。ピアノのレッスンは毎日、休むことなく行われ、私は友達と遊ぶことも許されなかった。家にいる時はほとんど、ピアノの前に座らされていたのだから、普通の子のような生活ができるわけはないのだ。
母は昔、ピアニストを目指していたが夢は叶わず、途中で挫折したのだと聞いたことがある。そこで私は子供ながらにぴんときた。母は自分の人生を子供に挽回させようとしているのだと。そして、私にはもう自由なんてものはなく、母の敷いたレールの上をひたすら走ることしかできないのだと悟った。
別に母を批判するつもりはない。ピアノを弾くのは嫌いではないし、この歳でピアニストになれたのも母のおかげだ。ただ、幼い私は母親の愛情に飢えていたのかもしれない。頭を撫でて『上手く弾けたね』と褒めてもらいたかったのだ。
コンサートを終え、母の運転する車で家まで帰る。二階建ての自宅前で車を降りようとすると母に楽譜の束を手渡された。所々、赤ペンでコメントが書きなぐられている。今日の演奏で母が気に入らなかったところだ。
「完璧に弾けるように練習しておきなさい」と冷たく言うと、私の返事も聞かずに母はそのまま車で出かけていった。小さな溜息を落として、楽譜を見つめる。こんなもの地面に投げつけてしまいたい衝動に駆られたが、なんとか堪えた。
自宅に入り、玄関から居間に向かう。ソファに座った父が「おかえり」と迎えてくれた。父は母の厳しいピアノレッスンに対して快く思っていないらしい。子供はもっと子供らしく生活してほしいと、そう思っているようだ。ただ、父は優しいが気が弱く、気の強い母には逆らえないのか、母の意見に押し切られてしまっている。
「あ、ひかり、おかえり。コンサートどうだった?」
庭の方から明るい声がしたので視線を向けると、開け放たれた居間の窓から姉の『サエ』が顔を出した。洗濯物を取り込んでいるようだ。
「うん、まあまあかな。お母さんは気に入らなかったみたいだけど」
「相変わらず厳しいね、あの人は」
サエは私よりも五つ年上の姉だ。私とは正反対の奔放な性格で思ったことは何でも口に出す。姉もピアノのレッスンを受けたようだが、すぐに嫌になって辞めてしまったようだ。姉はピアノレッスンに対して断固拒否の構えをとったので、さすがの母も諦めざるを得なかったのだろう。嫌なことを嫌と言えるその性格が私は羨ましかった。
「お姉ちゃんもコンサート来てくれればよかったのに」
「クラシックは眠くなるからパス。ロックやパンクなら喜んで行くけどね」
姉が縁側に腰掛け、取り込んだ洗濯物を畳み始めたので、私もその横に座る。すると、真っ白で大きな犬が嬉しそうに駆け寄ってきた。家で飼っている愛犬の『ジロ』だ。ジロは三年ほど前に親戚から譲ってもらった犬だ。元々は捨て犬だったためか警戒心が強く、最初のうちは懐かなかったが次第に心を開いていった。家に来た時はまだ小さな仔犬だったのに、今では私よりも大きく成長している。
ふかふかの毛を撫でてやると、ジロは気持ちよさそうに目を閉じた。アニマルセラピーというのは効果があるのだな、と思う。ジロと戯れていると心が安らぎ、落ち着く。しかし、リラックスした途端、溜まっていた疲れがどっと押し寄せてきた。
「ひかり、顔色悪いけど大丈夫?」
「うん、大丈夫」
内心はあまり大丈夫ではなかったが、隠すように立ち上がると母から渡された楽譜を持って居間を出る。自宅の一階には防音設備の整った部屋があり、そこがピアノの練習場所となっていた。
重い扉を開け、中に入るとまた一つ溜息を零す。最近、溜息が多いなと感じる。胸の奥に溜まり、収まりきらなくなったストレスが口から洩れてしまうのだろう。まるで重い塊を吐き出すような行為だと思えた。
ピカピカに磨かれて黒光りしているグランドピアノの前に座り、鍵盤蓋を開ける。両手の指を鍵盤の上にそっと置くと少しだけ息を吸い込んだ。何百回、何千回と演奏した曲の楽譜が頭の中に流れ込み、しんと張り詰めた部屋に軽やかなピアノの旋律が弾む。
初めて覚えた曲。バダジェフスカの『乙女の祈り』だ。
この曲を演奏していると、いつも脳裏に映し出される場面がある。
ピアノを覚えたての幼い私と母の姿。上手に弾けた私を嬉しそうに見つめる母。
でも、そんな記憶はない。憶えていないだけなのか。それとも、私の脳が勝手に作りだした幻影なのか。その答えは解からないけれど、現実味のない幸せそうな光景が悲しくて涙が出た。頬を伝って太腿の上にパタパタと雫が落ちる。それでも私の運指は乱れることも無く、機械仕掛けの人形のように演奏を続けていた。




