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十二月も半ばに入ると、本格的な冬が到来していた。朝、起きるのがさらに辛くなる時期だ。布団から出るのが自殺行為に思える。眠らないように寒さから逃げている自分は、雪山での遭難者のようだ。タイミングを計らい、決死の覚悟で起きる。フローリングの床が氷の如く冷たく、悲鳴を上げそうになる。
ダイニングルームは暖房が効いていて暖かかったので、飛び込むように避難した。今日は翼の姿はないようだ。翼も朝、起きるのに苦労しているのだろう。最近は迎えに来るのが遅い時がある。
朝食が用意される間、置いてあった新聞でも読んで時間を潰すことにする。テレビの番組欄を確認してみるが、今日は興味のある番組は放送されない。適当に新聞を開いて気になる記事を探すと、近所の地名が目に入った。また、放火事件だ。ここのところこの地域で頻繁に発生している。深夜に人気のない所で火を点けて逃げるなんて陰湿だなと思う。『深夜』というキーワードに、穂村のことを連想した。深夜に穂村が火を点けている姿を想像する。なんだか、あまり違和感がなかった。「まさかね」と苦笑しながら新聞を畳むと、母の運んできたトーストを齧った。
登校途中に駐輪場の壁が焼けたマンションの前を通った。ここも放火された場所だ。バイクに被せられていたシートが放火され、バイクと自転車が燃えたらしい。黒く染まった壁が犯人の残した悪意の塊のように思える。「ひどいな」と翼が呟いた。僕はなんとなく、穂村の話をしてみることにした。『それは怪しい』と、過剰なまでの反応が返ってくると思ったが、意外な答えが返ってきた。
「深夜に歩いているだけで放火魔扱いはひどいだろ」
「そうだけど、中学生が深夜になにやってるんだろ?」
「さあな。それにただの噂なんだろ? 実際に見たわけじゃない」
それもそうだ。翼はたまに冷静な発言をする。『疑ってごめん、穂村』と心の中で謝ると、『いいよ』と穂村が言った気がした。僕の脳内は都合よくできているようだ。
「もうすぐクリスマスだな」
なんの脈絡もなく、苦虫を噛み潰したような顔で翼が言った。きっと、世間の浮かれた雰囲気も複雑な気分にさせるだけなのだろう。五年前、クリスマスの日にあんなことがあったのだから。まだ、震災の爪痕は翼の心に残っているのだろうか。被災した際、翼は崩れた教会の下に丸一日閉じ込められていたらしい。うまいこと瓦礫が隙間をつくり、そこで翼を含む三人が励まし合いながら救助を待っていたというが、その恐怖は計り知れない。
「今年はウチでクリスマス過ごさないか? 家族もみんな歓迎するぞ」
「いや、やめとくよ。おれってさ、施設でも人気者だから、おれがいないと施設のクリスマスが盛り上がらないんだよ」と、おどけて見せる。「よく言うよ」と僕は笑った。
眠りから覚めた時、数秒間だけ現在の状況が一切分からなくなることがある。今まさにその瞬間の渦中にいた。今日が何日で、今が何時なのかも分からない。そして、なぜ勉強机で寝ていたのか。
勉強机の隅に置かれた携帯電話に目をやると、時刻は深夜二時を示していた。そうだ、今日はクリスマス・イブだ。しかし、いつの間にか日付が変わって、クリスマスを迎えている。そこで完全に理解した。受験に備えて勉強をしていたはずだが、眠ってしまっていたのだ。まだ志望校も決まっておらず、明確な目標もないのに勉強に身が入るわけなどない。
机に突っ伏して寝ていた為、身体が痛い。立ちあがって伸びをしたあと、そっとカーテンを開けて外を見る。陽が落ちてから降り始めた雪はもう止んでいて、月が出ている。
この辺りは高級住宅街で街灯が多く、夜でもかなり明るかった。無機質な街灯が発する、ぼんやりとした光を眺めていると、向かいの家の塀に影のようなものが見えたので目を凝らしてみる。
人がいた。別に珍しいことではないが、問題はその人物だ。まるで幽霊でも見たような、背筋がぞくっとする感覚がある。街に氾濫する都市伝説が事実だったと、自分だけが知ってしまったらこんな気分だろうか。
穂村だった。
いつか、信号で見かけた時と同じで、ポケットに手を突っ込んでふらふらと歩いて行く。別に散歩しているだけかもしれない。それでも、気になってしまったものはしょうがない。僕はダウンジャケットに袖を通し、家を出た。
テレビで見た探偵や刑事の真似をして、物陰に隠れながら穂村を尾行する。穂村は時折、空を見上げるような仕草をする。僕も釣られて空を見上げるが、漆黒の空には月が輝くばかりで特に何もない。何か意味のある行動なのだろうか。
閑静な場所なので足音がしないように細心の注意を払い、尾行を続ける。雪が積もるほど降らなくてよかった。
自分は真実に近づいている。
そんなことを考えながら歩いて行くが、一向に何かが起こる気配がない。穂村がポケットから手を出すとライターが握られており、それを使って積まれたゴミ袋に火を点ける、ということはもちろんなかった。十五分ほどすると、街灯が少なくなってきたせいか、どんどん尾行も雑になる。寒さで手もかじかんできて、帰りたくなった。同級生が放火魔なんて発想は我ながら馬鹿馬鹿しいな、と思い足を止めた。穂村がレンガ色のマンションの角を右折するのを電信柱に寄りかかりながら確認すると来た道を戻り始める。もう帰って寝よう、そう思った時だった。
ごん、と鈍い音が響いた。ここが喧騒に包まれていたなら、きっと気にも留めなかっただろう。しかし、暗闇と静寂が支配するこの場所に、その音は不自然過ぎた。再び踵を返してマンションの角から様子を窺うと、人が立っているのが見える。街灯がない為、はっきりとは判らない。すると突然、周囲が明るくなる。
ゆらゆらとした光だった。光源を探すと、すぐに見つかる。火だ。ゴミ捨て場の古新聞や雑誌が燃えていて、それがどんどん大きく延焼していく。吸い込まれるように一歩踏み出すと、視線を感じて右側に目を動かす。穂村がいた。やっぱりあいつが放火魔だったのか。しかし、変だ。なぜ倒れているのだ。穂村は地面にうつ伏せに倒れていて、顔だけがこちらを向いている。じゃあ、さっき立っていたのは誰だ。視線を上にあげるとその人物と目が合う。
揺らめく炎に照らされるその顔は、よく知った人物のものだった。
「翼……?」
絞り出すように呟くと、翼の手から何かが滑り落ち、カランと音を立てる。鉄パイプのようなものが転がった。状況を理解しようと様々な思考が頭を交錯するが、形の合わないパズルのピースを無理矢理はめるようで、全くまとまらない。
翼は一瞬、悲しそうな表情を見せると、僕とは反対方向に逃げるように駆け出した。反射的に僕も後を追うように駆け出す。勢いを増す炎も、倒れている穂村も目に入らず、救急車や消防車を呼ぶという発想はこの時にはなかった。なによりも、翼が心配だったからだ。
途中まで翼の背中が見えていたが、やがて見失う。運動能力が違いすぎる。僕が翼に勝てるスポーツは水泳だけだ。どこまで走ったのか、白い息を吐きながら周りを見渡すと見覚えがある場所だった。学校の近くの商店街だ。翼の暮らす養護施設とは逆方向だから、帰ったわけではなさそうだ。その場に座り込み、呼吸を整える。地面に手をつくと、ひんやりとしたアスファルトに体温を奪われそうだった。
遠くの方で消防車のサイレンが聴こえる。誰かが炎を発見して通報したのだろう。さっきの翼の姿を思い返す。なんとなく解かってきた。翼は穂村が放火している現場を目撃してしまったのだ。それで目撃者を殺そうと穂村が襲いかかってきたため、自己防衛のために翼は落ちていた鉄パイプで穂村を殴ってしまったのだ。そうとしか考えられない。正当防衛なのだから逃げなくてもいいのに。なんだか安心して立ちあがると、はっとなった。
あの場所にいるかもしれない。直感めいたものに誘われるように商店街を進み、タバコ屋の角を曲がる。薄暗い路地を小走りで抜けると廃ビルの前に立った。入り口のドアが少しだけ開いている。ここに翼がいると確信した。ビル内はまるで異世界みたいに真っ暗だったが、躊躇することなく埃っぽい廊下を歩いていく。暗闇から怪物が現れたり、床に地獄への穴が開いているというわけではないのだから。
屋上を目指して階段を上がり、ゆっくり扉を開けると淡い月明かりが洩れてきた。その中に翼はいた。
「翼」と声を掛けると、びくっと翼の体が震えるのが分かった。そして、信じ難い行動をとった。手すりを乗り越えて屋上の縁に立ったのだ。
「おい、危ないよ。何やってるんだよ」
いつもの翼の悪ふざけだと、そう思いたかったが違う。こちらを見た翼は今にも泣きだしそうだった。初めて見るその表情が不安な気持ちにさせる。
「おれ、もうだめだ」
「何言ってるんだよ。翼は放火魔に襲われたから自分の身を守る為に相手を殴ったんだろ? 正当防衛じゃないか。警察にちゃんと説明すれば罪にはならないよ」
「違う」
翼は首を振った。
「放火魔はおれだ」
「笑えないよ。冗談はやめて、こっち来いって」
「冗談なんかじゃない。火を点けてるところをアイツに見られたんだ。だから、落ちてた鉄パイプで殴った」
「嘘だ」
僕の口からはその告白を否定する言葉が出た。信じられない。翼がそんなことをするはずがない。僕は知っているんだ。翼はいい奴だって。
「嘘じゃない。今までの放火事件も全部おれが」
「嘘だ! 何でだよ! そんなことする理由がないじゃないか!」
悲鳴に似た声でそう言うと、翼の瞳から光が消えたように見えた。感情のない、人形のように虚ろな瞳だった。
「人は理由なんかなくたって、罪を犯せるんだよ」
ぞくっとするトーンで言った。今、目の前にいる翼が別人のように思える。偽物なんじゃないかと疑ってみるが、長年一緒にいる親友の顔を見間違えるわけもない。悪い夢なら醒めてくれと、懇願するような祈りは届きそうになかった。
「あの震災できっと、心はすでに壊れてたんだ」
「カウンセリングを受けて立ち直ったんだろう?」
「一時的なものだったよ。時間が経つにつれ、恐怖が蘇ってきた。そして……」
翼は手すりを強く握りしめ、なにかに怯えるような表情で続けた。
「黒くて恐ろしい感情が湧いてくるようになったんだ。気が付いたら火を点けてた。炎を見ていると落ち着くんだ。変だろ? 被災地で火事になった現場もたくさん見たのにさ。それなのに、炎を見ると落ち着くんだ」
「分かったから、もう帰ろう」
落ち着かせる為に声を掛けながら少しずつ、気付かれないくらいにじりじりと翼に近づく。刺激すると飛び降りかねない。
「いつも愛想良くしているおれと、放火魔のおれ、どっちが本当のおれなんだろう」
「馬鹿なこと言うな。翼はいい奴だよ。僕はよく知ってる」
自分の発したその言葉に違和感を覚えた。
『よく知ってる』
本当にそうだろうか? 僕は翼の抱える苦しみをこれっぽっちも解かっていなかったではないか。そんな僕が親友面してもいいのか? しかし、今はそんな自問自答をしている場合ではなく、脳内に湧いた疑問を無理矢理かき消す。
「アユム」
翼が顔を上げると、涙が一筋流れた。
「おれ、生き方が解からないよ」
「生き方なんて僕だって解からないよ。正しい生き方を知っている奴なんているもんか。だから、色んなことを学んだり、考えたりして頑張って生きていくんじゃないか」
説教じみているとは思ったが、言葉は止められない。気が付くと、僕の目からも涙が零れていた。
「翼は僕なんかよりよっぽど生きていくのが上手いじゃないか。僕なんて何もない、普通で平凡な生き方しかできない人間だよ」
自分を卑下するように言う。口には出さなかったが、僕はいつも翼が羨ましかった。明るく輝く翼と、何もかも普通な自分を比べてしまい、落ち込むことすらあった。
「アユム、それは違う。普通でいることは大切なことなんだ。でも、おれはもう普通じゃない。このままじゃきっと、もっと大きな事件を起こしてしまう」
そこまで言うと、翼の顔が、はっとなった。
「いや、もう起こしてしまった。おれが殴ったあの男、多分死んだよ。力の加減なんてできなかったから」
翼は自分の行いに恐怖したのか、一度目を伏せた後、再び視線をゆっくりとこちらに戻す。
「救ってくれるのはさ、家族じゃなくて、親友だと思ったんだ」
なんのことだろう、と一瞬戸惑ったがすぐに理解した。ウチの養子になることを断った時だ。
『アユムとは、兄弟じゃなくて親友でいたいんだ』
あの時にそう言ったのは、いつかこうなることが解かっていたからなのだろうか。
「そうだ、僕が救ってやる」
一歩踏み出すと、翼はニコリと笑った。
「やっぱり、アユムはいつも大事なところが抜けてるよな」
そう楽しげに言うと、翼は両手を左右に広げた。トンボに似たその姿勢のまま、後ろにゆっくりと倒れていく。考えるよりも先に体が弾かれるように動いた。
僕が助ける。僕が助ける。僕が助ける。
それだけしか頭になかった。無我夢中で地面を蹴り、手すりを越えて翼に向かって手を伸ばす。ジーンズの裾をうまく掴むことができた。良かった。翼は助かる。助かるんだ。
空を飛んでいるような浮遊感の後、下から突き上げる風を感じた。振り返ると、僕たちが立っていたはずの屋上がひどく遠くにあった。




