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「え、部屋移らないでいいの?」
柳井さんが目を丸くした。わたしと涼子ちゃんは相談室に来ていた。そして、一時的にではなく、あの二人部屋でずっと一緒に生活することを告げた。もともと、涼子ちゃんには別の部屋が用意されていたのだが、部屋の内装工事が終わっていなかったから、暫くの間だけ相部屋の予定だったらしい。しかし、二人で相談して一緒の部屋で暮らそうと決めた。お互い、心のどこかに寂しさを抱えていたから、それを少しでも埋めたかったのかも知れない。
「分かったわ。そう連絡しておくわね」柳井さんはなんだか嬉しそうにメモを取る。きっと、わたしたちの表情の変化に気づいたのだろう。「もうカウンセリングは必要ないかな」と微笑んだ。
「でも、まだ琴里の声は出ないから、助けてあげてください」
「了解しました」
柳井さんは敬礼する仕草をしておどけた。そんな二人のやりとりを見て、なんだか申し訳ない気分になった。わたしはまだまだ迷惑をかけてしまうだろう。優しい二人は迷惑だなんて思わないのだろうけど。わたしは目を閉じて、ラベンダーの香りをゆっくりと吸い込んだ。
相談室を出ると、涼子ちゃんの腰の辺りになにかがぶら下がっているのが見えた。ぬいぐるみだ。意地悪そうな顔をしたクマのぬいぐるみが揺れている。
「ああ、これ? 変な顔でしょ?」
困った顔で言うので『かわいいよ』と書かれた携帯電話のディスプレイを見せた。
「あたしの親友は、みんな変な感性をしている」
涼子ちゃんはそう言って苦笑した。変だろうか。本当にかわいいと思ったのだが。
「いつか紹介するね。このクマの本当の持ち主を」
『仲良くなれるかな?』
そんな文章を見せると、涼子ちゃんはなにかを思い出したかのようにけらけらと笑う。
「まず向こうが琴里のことを放っておかないわね。強烈だから覚悟しておいてね」
強烈とはどういうことだろう。あまりにも人物像の見えない表現が可笑しかった。
中庭へ出ようかと二人で廊下を進むと、渡り廊下の方に人影が見えた。車椅子に乗った男の子が動けなくなっている。前輪が溝にはまってしまっているようだった。まだ車椅子を上手く操れていない。そんな感じだった。助けなきゃと思った瞬間、涼子ちゃんが先に駆けだしていた。
涼子ちゃんは車椅子のグリップを右手で掴むと、ティッピングレバーを踏む。テコの原理で前輪が浮いて溝から脱出した。
「ありがとう」
男の子が爽やかな笑顔でお辞儀をする。その笑顔に若干の違和感があった。瞳は澄んでいて、心から感謝しているといった感じだったが、何故か悲しい笑顔に見えた。気のせいだろうか。
「どこまで行くの?」
涼子ちゃんが訊ねると男の子は「中庭まで散歩でもしようと思ったんだけど、車椅子にまだ慣れていなくてあんなことに」と自嘲気味に笑った。
「そっか、じゃあ一緒に行こう。いいでしょ、琴里?」
わたしは頷くと、車椅子のグリップを涼子ちゃんの代わりに握り、ゆっくり押し始めた。片手では押しにくそうだったからだ。
「ごめん、迷惑かけちゃって」
男の子が振り返って申し訳なさそうに言うので、わたしは『気にしないで』という意味を込めて首を左右に振った。
『三浦アユム』と名乗ったその男の子は栗色の髪の毛が特徴的で、穏やかな顔をした優しそうな男の子だ。真っ白なシャツが眩しい。いつか見た、ギターを弾く男の子とは真逆の印象だな、なんて考えた。
中庭に出ると涼しげな噴水の音と、むせかえるような夏の匂いに包まれた。三人を歓迎するように風が吹き抜ける。頬に掛かる自分の短い髪を払って空を見上げた。今日は少し涼しくなりそうだ。




