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リノリウムの廊下にゆっくりと靴音が響く。全開の窓からは新鮮な空気が絶え間なく入り込んでいた。すうっと深呼吸をしてみる。自然が豊かな場所だからか、なんだか酸素が美味しく感じた。
『相談室』と書かれたプレートが掛かったドアを軽くノックし、特に遠慮することもなく室内に入ると、ほのかなラベンダーの香りがした。
「お、今日も元気ね、琴里ちゃん」
優しい顔をした白衣の女性が迎えてくれた。スクールカウンセラーの柳井さんだ。柳井さんと小西先生は同じ年齢らしいが、とてもそうは見えない。柳井さんは童顔で、身長もわたしとたいして変わらないほどに低かった。それに笑った顔が子供のようで可愛い。
クッションの敷かれた椅子に座ると、柳井さんと向かい合った。小西先生のときは机を挟んで向き合っていたが、柳井さんは間に何も挟まないので、身体全体で向き合う形になる。なんだか、心が近くなるような感じだ。
「もう学校は慣れた?」
わたしは大きく頷く。特別支援学校『花鳥風月』に通うことになって二か月が過ぎていた。声は相変わらず出せないでいたが、この学校ではそんなことは全然、苦にもならない。どんな障害や病気を持った生徒にも、しっかりとした対応ができている。正直、すごい学校だなと思う。
机の上に目をやると、かわいい容器の中に置かれたコーン状のお香が、糸のような細い煙をゆらゆらと上げていた。ラベンダーの香りの正体はこれだ。ラベンダーの香りにはリラックス効果があるらしい。お香がじわじわと灰になっていく様子をじっと眺めた。
「最近はどう? 事件のことを思い出して辛いときはない?」
柳井さんが穏やかな口調で訊く。わたしは笑顔で頷いた。
「そっか、でも辛いときは我慢しないでいつでも言うんだよ?」
その言葉に少しドキリとした。柳井さんは、わたしの胸の内をすべて分かっているのではないだろうかと、そんな風に思うことがある。今だってそうだ。きっとばれている。わたしが嘘をついたことを。
相談室から出ると、そのまま階段に向かう。相談室は生徒たちの暮らす二棟の寮のうち、A棟と呼ばれる建物の一階にある。本当は校舎の方に相談室をつくる予定だったのだが、柳井さんの希望で寮内につくったらしい。校舎内よりも寮内に相談室があった方が、生徒たちが話をしに立ち寄ってくれるからだそうだ。
わたしは階段を三階まで上がると、階段のすぐ横にある部屋の前に立ち、鍵穴に鍵を差し込んだ。『A・三○一』というプレートが貼ってある木製のドアを手前に引いて開け、中に入る。ここがわたしの部屋だ。この部屋はもともと二人部屋らしく、家具などが二組ずつある。わたし一人でこの部屋を使っているが、広すぎる部屋が少し寂しい気持ちにさせた。
両開きのクローゼットを開けると、スケッチブックが山のように積まれている。この学校に来てから使ったスケッチブックだけでなく、自宅にあったスケッチブックも祖父にすべて送ってもらっていた。
一冊、手に取って開いてみる。近所の河川敷、公園、駅前などの見慣れた景色が、ページをめくる度にまるでスライドショーのように現れた。以前なら、この白黒の景色を眺めていると鮮やかな色が頭に浮かんできたのだが、今はただの濃淡で表現された絵にしか見えなくなっている。心が色を失ってしまったように感じられた。
気がつくと、白黒の景色はスケッチブックの中だけに留まらなかった。部屋の中、窓から見える空、着ている服までもが鉛筆で描いたように色褪せていた。
これはどういうことだろうと考えていると、水が飛び散るような音が響いたので周りを見回す。白黒の景色の中に目が痛くなるほどに目立つ色があった。
赤だ。しかし、鮮やかな赤ではない。赤黒い、邪悪な塊みたいな赤だ。それが部屋の壁やカーペットを染めている。足下に血が筋となって流れてきた。すぐ傍らに人がうつ伏せに倒れており、血溜まりができている。誰? お父さん? 近づいて顔を確認する。
目つきの悪い男だ。口からは血が溢れ、瞳はわたしを恨めしそうに見据えていた。背中を鋭利な刃物で一突きされたのか、傷口から血がじわじわと滲んできている。
ぬるっとした感覚が両腕にある。目を落とすと、わたしの両腕は血塗られていた。真っ赤になった手には鈍い光を放つ小刀がしっかりと握られていて、刃からは血が滴り落ちている。
まさに悲鳴が吐き出されるその刹那、弾かれるように瞼が開かれた。
薄暗い部屋には荒い息と、やたらと大きい心臓の鼓動だけが耳に入った。尋常ではない量の汗がパジャマをぐっしょりと濡らしている。上半身を起こすと身体ががたがたと震えだした。
まただ。ここのところ、恐ろしい悪夢で目を覚ますことがある。周りには明るく振る舞い、もう平気だという顔をしていても、やはりあの事件はわたしの心や脳内に深い爪痕を残しているようだ。柳井さんに相談すれば、楽になるのかもしれない。でも、例え誰であっても苦しい顔は見せたくない。笑顔でいたい。
怖い。身体の震えが大きくなっていく。わたしは二段ベッドの上段から梯子を使って下りていく。明け方なのか、申し訳程度の明かりがカーテン越しに部屋を浮かび上がらせていた。梯子から下りると脚に力が入らず、カーペットの敷かれた床に崩れ落ちる。わたしは這いずるようにしてクローゼットへ向かうと、中から一冊のスケッチブックを取り出し、開く。
そのスケッチブックには風景画ではなく、人物画が描かれていた。寄り添うように描かれているのは両親だ。真っ白なページに優しい笑顔を湛えていたが、所々滲んでいる。そして、またそこに新たな染みがつくられた。大粒の涙が両親の笑顔の上にぽつぽつと落ちては紙に染み込んでいった。
そのスケッチブックのすべてのページに両親が描かれていて、すべてのページが涙で滲んでいる。もう、何の絵なのか判別できないページもある。悪夢で目を覚ます度、わたしはこのスケッチブックに悲しみを封じ込めてきた。
笑顔を絶やさないと決めたのに、それなのに忌まわしい記憶がいつまでもわたしを苦しめる。辛い。辛いよ。お母さん、お父さん。わたしはスケッチブックを抱き締めて、うずくまる格好で泣いた。スケッチブックはもう、ぼろぼろになっていた。
夏休みに突入すると、寮の中から人の気配が随分と消えた。夏休みの期間は皆、実家へ戻って過ごす生徒が多かった。わたしも祖父の家に帰省してもよかったが、この学校は別にそれほど離れた場所にあるわけでもなく、帰ろうと思えばいつでも帰れる。だから、祖父には気が向いたら帰ると告げてある。
だが、本当は帰る気なんかなかった。理由は、悪夢で目を覚ます頻度が多くなっているからだ。祖父の家で生活していたら、いずればれるだろうと思ったのだ。今日も深夜にうなされて目を覚まし、その後も怖くて眠れずに朝を迎えた。
時計は午前九時を示している。少し散歩でもしようかと、部屋を出た。廊下に出ると冷房がよく効いていて、少し寒いくらいだった。外へ出ようかと思ったが、窓から見えた太陽がぎらぎらと輝いていたのでやめた。
一階まで下りると、相談室の前で足を止める。ドアノブに『外出中』のプレートが掛けられている。柳井さんは不在のようだ。わたしはそのまま、渡り廊下へ移動した。わたしのいるA棟は渡り廊下によって、B棟と校舎に繋がっている。中庭にもここから出られるようになっていた。渡り廊下を進むと、道が二手に分かれる。一方はB棟へ、もう一方は校舎へと続く。わたしは気の向くままに校舎方面を選んだ。
校舎の中もしんと静まり返っている。教職員も夏休みに入っていて、ほとんどいないようだった。ここへ来るまでに、まだ誰とも顔を合わせていない。なんだか、わたし以外の人間がこの世界から消えてしまったような、そんな思いに駆られた。職員室から聞こえた、けたたましく鳴る電話の音だけが、その想像をうち消してくれた。
紫外線の直撃を覚悟して、屋上へ出てみようと階段をゆっくり上がっていく。足の不自由な生徒の為に、校舎にも、寮にもエレベーターがあるが、階段を選んだ。すると、三階まで上がったところで、静寂の中にかすかな音が混ざり始める。耳を澄ますと弦楽器特有の、弦が振動して空気を揺らすような音がメロディとなって聞こえてきた。ギターの音色だろうか。
聴覚だけを頼りに音のする方向を探る。四階まで上がるとさらにはっきりと聞こえてきた。廊下を進んでいくと、少しだけドアの開いている部屋があり、そのドアの隙間から零れるように柔らかな音色が漏れてきている。聴いたことがあるメロディだったが、曲名は思い出せなかった。
そっと、ドアの隙間から中の様子を窺う。まず、大きなグランドピアノが目に入った。きれいに手入れされているのか、光沢が美しく、漆黒に輝いている。ここは音楽室だろうか。わたしが授業を受けている肢体不自由者のクラスには音楽の授業はなかったが、他のクラスではあるのかもしれない。
窓際には人の姿が見えた。窓からの逆光が眩しく、目を細めてその姿を確認する。後ろ姿だったが、男の子だということが分かった。短い黒髪に黒いシャツ、抱えているアコースティックギターも黒色で、まるで影のようだと、そんな印象を受けた。
コードを押さえる彼の左手がなめらかに動く度にメロディが次々に紡ぎ出されていく。たった六本の弦から、なぜこんなにも多彩な音色が出せるのか、不思議だった。
もう少し聴いていたかったが、その場を離れた。最近の寝不足のせいか、急激に睡魔が襲ってきて意識を失いそうになったからだ。名残惜しい気持ちで来た道を戻る。自分の部屋へと着く頃には意識は朦朧としており、二段ベッドの上段に上り布団に倒れ込むと、すぐに眠りの淵へと落ちた。
どれくらい眠ったのだろう。目を覚ますとまだ部屋は明るく、見慣れた白い天井がぼんやりと視界に入った。なんだか、少し寒い。まさか、眠りすぎて冬になってしまったのではないかと思ったが、そんな馬鹿なと自分の考えの愚かさに呆れた。
そのまま布団の上でまどろんでいると何か物音がすることに気づく。まだ頭がぼうっとするが身体を起こしてみる。冷たい風の流れが真横を通り過ぎていくのを感じた。冷房がついている。誰がつけたのだろう。わたしは二段ベッドの上から見下ろすように部屋の中を見渡すと、女の子と目が合った。
綺麗な長い黒髪が印象的で、気が強そうではあるが整った目鼻立ちの女の子だ。なぜか彼女の周りにシャツが散乱している。傍らに置かれた大きなバッグを見て理解した。ここは二人部屋だから、きっと一緒にここで生活するルームメイトだ。わたしはなんだか嬉しくなって笑みをこぼしたが、彼女はわたしには興味もないような素振りで視線を逸らし、散らばったシャツを拾い始めた。
その様子をしばらく眺めていると、シャツを畳もうとしているが上手くいかないようだったので、手伝おうと梯子を下りる。彼女の横に座ると、わたしもシャツを畳んでいく。母の家事の手伝いをよくしていたから得意だった。
ところが、彼女にシャツを奪うようにむしり取られる。表情を窺うと、彼女は怒りに満ちた顔をしていた。しかし、なぜだろうか。怒りの中に苦痛や絶望感のような、そんな様々な感情が混じって見える気がする。
「あんたみたいに、ちゃんと両腕があれば、服くらい畳めるわよ!」
彼女が発した悲痛な言葉によって、混在する感情の理由が分かった。彼女は夏なのに長袖のシャツを着ている。そして、中身のない左の袖が力なく揺れる全体像は、左右非対称だった。
彼女には左腕がない。
服を畳むことに慣れていなかったということは、左手を失ってまだ間もないのだろう。自分の身体の一部を失う。その苦しみは計り知れない。
目の前にいる彼女はまた、シャツを畳み始める。簡単な作業すらできない自分が悔しいのか、唇をぎゅっと噛みしめながら、それでも諦めずに何度もシャツを畳もうとしていた。
わたしの中に何かが込み上げ、身体が震えた。そして、熱い雫が落ちた。
なぜ、涙が出るのかは分からなかった。同情だろうか。いや、違う。彼女の悲しみがわたしの心に流れ込んでくるような、そんな気がする。
彼女は押し殺しているのだ。自分の内側に様々な負の感情を閉じ込めてしまっているのだ。きっと彼女は人前では泣かないのだろう。プライドがそうさせているのか、それは分からない。けれど理由はどうあれ、わたしに似ているとそう感じる。彼女の涙が、わたしの身体を通して流れたのではないかと、本気で思った。
しかし彼女は、そうは思っていなかったようだ。同情の涙だと、そう言った。違うと、伝えたかったが、ものすごい剣幕でわたしの涙を否定されてしまい、それは叶わなかった。仕方のないことだ、わたしにもこの涙の理由は解明できていない。彼女の言うとおり同情なのかもしれないのだから。それに、どちらにせよ声の出せないわたしには何も伝えられないのだ。
結局なにもできずに、ただ部屋を後にした。わたしはだめだ。声が出せないとなにもできやしない。右手で喉の辺りを擦りながら落ち込む。
なぜこの声帯は振動しないのだ。このままでは例え失声症が治っても、声の出し方を忘れてしまうのではないか。首を絞めるように喉を指で強く掴むと、爪が食い込んで痛かった。
涙を拭いながら階段を下っていくと、途中で柳井さんとすれ違う。
「琴里ちゃん、どうしたの?」
心配そうな声で訊かれたが、わたしは笑顔で『なんでもないよ』という素振りを見せて、階段を駆け下りた。
柳井さんの声は優しくて、柔らかくて、悲しい気分のときでさえ毛布にくるまれているみたいに落ち着く。それに比べて、かつて魔法の声と呼ばれたわたしの声は、なんて陳腐なのだろう。見せかけだけの友達しか作れなかったじゃないか。柳井さんの声こそが魔法の声だ。そんなふうに思うと、少し羨ましかった。
渡り廊下から中庭に出ると、噴水の縁に腰掛けた。絶えず吐き出され続ける水が、飛沫となって頬をわずかに濡らす。いっそのこと、水の中に飛び込みたい気分だった。気持ちがいいだろうなと思うが、もちろんそんなことはできない。
うなだれるように足下を見ると、蟻が忙しなくうろうろと歩いている。女王蟻のために必死で食料を探しているのだろうか。わたしは意地悪をしてみようと、履いている上履きで、蟻の進行ルートを塞いでみる。蟻にしてみれば、目の前にいきなり巨大な壁が立ち塞がる感覚だろう。それでも蟻は、それが当たり前であるかのように上履きを乗り越えて進んでいった。逞しいなと思う。わたしは大きな壁を前にリタイアしそうだ。心だって身体と同じように疲弊する。それが限界を迎えようとしていた。
ふいに足音が聞こえたので顔を上げる。さっきの女の子が近づいてきてわたしの横に座った。女の子の目は赤く。涙の跡が筋となって残っていた。
「さっきはごめんなさい。あたし、あなたに酷いことを……」
震える声で彼女は言うと言葉を詰まらせた。泣くほど後悔して、謝りに来たのだと分かった。
どうして? 悪いのはわたしなのに。彼女の辛い気持ちも知らないで、無神経なことをしたわたしが悪いのに。
彼女の膝の上に置かれた右手が強く握られ、小さく震えている。謝るという行為は簡単そうに見えても勇気がいる。相手に許してもらえなければ大きなショックを被るからだ。
わたしは彼女の震える右手を両手で包むように触れた。びくっと身体を硬直させてわたしの顔を見る彼女に対して、声こそ出なかったが口を『わたしこそ、ごめんね』と動かして笑った。すると彼女は安堵の表情を浮かべて笑顔になった。わたしよりもずっと大人っぽい顔をしているが、笑うと同年代の少女なのだなと実感する。
「あたし、桐島涼子。二年生よ。よろしくね、琴里ちゃん」
そう自己紹介された。わたしより一つ年上だ。なぜか、わたしの名前を知っていた。こちらも挨拶をしたかったが、どうしたらいいんだろう。筆記用具でもあれば文字で伝えることができるのだが。戸惑っていると、それを察してくれたのか、涼子ちゃんはなにか閃いたかのように携帯電話を取り出してわたしに差し出した。
「メモ帳の機能を使えば話せるね」
なるほど。わたしは携帯電話を受け取ると、文章を打ち始める。以前は毎日のようにメールをしていたが、最近は携帯電話をいじることすらなかったので懐かしい感じがする。指が感覚を覚えているのか、文章を作成する速度は衰えておらず、軽快にプッシュ音が鳴っていく。
『宮坂琴里、一年生です。よろしくお願いします。琴里でいいですよ』
その文章を見せると涼子ちゃんは「わかった、琴里って呼ぶね」と笑った。そして「あと敬語はやめてね」と付け加えたので、わたしは大きく頷いた。
涼子ちゃんは、最初に見たときとは顔つきが違っていた。憑き物が落ちたようにすっきりとした顔で、瞳の中に希望の光が小さく宿っている気がした。この短時間でなにがあったのかは分からないが、なんだか嬉しかった。
二人で他愛もない話をした。わたしは携帯電話で文字を打って話すので、会話に時間差が生じてしまうが、涼子ちゃんは全く気にしていない様子だった。言葉が溢れるように出てくる。柳井さんともたくさん話したが、やはり同年代の女の子と言葉を交わすのは、違った楽しさがある。それは涼子ちゃんも同じだったようだ。まるで今まで話せなかった分を取り戻すかのように会話を重ねて、気がつけば夜になってしまっていた。
「そろそろ部屋に戻ろうか」
涼子ちゃんが背筋を伸ばす仕草をしながら立ち上がると、二人のお腹が同時にぐうと鳴った。「その前に食堂だね」と笑う。
声を失ってから、初めてできた友達だ。スカスカになった携帯電話のアドレス帳に、名前が一つ増えた。そんな些細な出来事が嬉しくて、何度もアドレス帳の名前を確認した。その度に携帯電話のディスプレイの光が、二段ベッドの上段で横になるわたしの顔をぼんやりと照らす。真っ暗な部屋に聞こえるのは、下の段で眠る涼子ちゃんの寝息だけだ。
暗闇の中、突然重苦しい不安が圧し掛かってきた。涼子ちゃんは事件のことを柳井さんに聞いたという。でも、わたしにはまだ誰にも話していないことがある。
両親を殺害した犯人に復讐しようとしたことだ。
今思い出しても、全身に虫が這うような不快感に襲われる。未遂とはいえ、わたしが殺人を犯そうとした事実を涼子ちゃんが知ったら、どう思うだろう。きっと恐ろしいと思うに決まっている。わたしを拒むだろう。
話しては駄目だ。せっかくできた友達を失うことになる。駄目だ駄目だと思っているのに、わたしの親指は携帯電話のボタンを叩き続ける。長い文章だった。内容は、黒々とした感情に支配されていたときの行動のすべてだった。このまま送信のボタンを押してしまうと、わたしの中にあるおぞましいものを涼子ちゃんの携帯電話に送ることになる。隠したままでいい。いいんだ。
『それで、なにが変わるの?』
誰かが囁いた気がして、はっとする。分かっている。わたしの本心がそう言っているのだ。なにかを変えようとするときにはリスクが伴う。いつまでも逃げていてはなにも変わらないんだと、わたし自身がそう言っているのだ。
携帯電話を握る右手を高く掲げ、一呼吸置いた後に送信ボタンを押した。
涼子ちゃんも携帯電話をベッドに持ち込んでいたのだろう。真下から短い着信音が聞こえた。携帯電話を確認する気配がする。まだ起きていたのだ。
見ている。わたしの心の底に溜まった、泥のように澱んだ部分を、今まさに見られている。
やがて静寂が訪れた。呼吸する音も聞こえないほどの張り詰めた静けさだ。それを破ったのは涼子ちゃんの声だった。
「琴里は優しいね」
暗闇の中に響いた声に耳を疑った。優しい? そんなこと考えたこともなかった。
「琴里は誰よりも人の痛みが分かる子なんだよ。だって見ず知らずのあたしの苦しみを敏感に感じ取って泣いてくれたじゃない。他人を思いやれる子なの。それが例え憎い相手だったとしても、例外じゃなかったんだよ。あたしだったら、きっと犯人を刺してた。でも、琴里は違う。強いなって思うよ」
涼子ちゃんは、ゆっくりと落ち着いた口調でそう言った。鼻の奥がじんとなる感覚があった。
「琴里の優しさと強さがあたしを救ってくれた。あたしはね、なにがあっても琴里と友達でいるから。もし琴里が絶交だって言っても、あたしのことが嫌いだって言っても、友達だから」
今まで抑え込んでいたものが一気に爆発した。人の温もりに触れたくて堪らなくなる。わたしは飛びつくように梯子を下っていくと、下段で横になっていた涼子ちゃんに抱きついて、まるで苦しみを吐き出すように泣いた。いつだったか、タロが死んでしまった日に母の胸の中で泣きじゃくった記憶が蘇る。涼子ちゃんはあのときの母と同じように、わたしの頭を撫でてくれる。そして、そのまま寄り添うようにして一緒に眠った。内包した苦しみを解放したからなのか、その日を境に悪夢を見なくなった。




