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あたしには、恋なんて無縁なものだと思っていた。
小学生の頃から身長なんてそこらの男子なんかよりよほど高かったし、スポーツだって男子たちのサッカーやらバスケやらに混ぜてもらい、やはり負けてはいなかった。
なによりもあたしは気が強かったのだ。男勝り。平成の巴御前。女カレリンなどと揶揄されてきた。どれもとても女性に対する褒め言葉とは思えない。
高校生になると、少しだけ状況が変わりはじめた。なんと、モテるようになったのだ。
だが、それは男子生徒からではなく、女子生徒からであった。バレンタインデーには可愛くラッピングされたチョコレートを手渡されたり、古臭い漫画のように下駄箱へのラブレター投函など、そのすべてが女子生徒からだった。女子高ならともかく、あたしが通っているのは共学の高校だ。それなのに同級生、上級生問わず投げかけられる熱視線はすべて女子生徒なのだ。長い黒髪に高身長、そして気の強そうな眼差しが女子生徒曰く、そそるらしい。当然、あたしにはそっちの気はない。
もはやあたしは普通の恋愛などできないのだと、半ば諦めかけていた。
しかし、そんな高校一年の夏。あたしは恋をした。
その日、珍しく寝坊をしたあたしは、マンションの建ち並ぶ住宅街を駆け抜けていた。陸上部に所属しているあたしの脚はカモシカのようだと言われているらしい。実際にカモシカの脚がどんな形状なのかは見たことがないので知らないが、一応は褒め言葉として受け取っている。
やがて、その脚がゆっくりと止まる。
脚力には自信があるものの、真夏の太陽からこれでもかというくらいに降り注ぐ熱気に、さすがのあたしも体力を奪われていたのだ。
大粒の汗が額から顎を伝って落ちる。アスファルトにできた小さな染みはすぐに乾いて、跡形もなく消えていった。
荒い呼吸を整えながら、左手に巻かれた腕時計に目を落とす。
始業ベルが鳴るまでに学校に辿り着くには絶望的な時刻だった。
「無理だぁ」と思わず呟く。負けず嫌いなあたしだが、さすがに諦めるほかなく、とぼとぼと歩きだした。
鳴り止まぬ蝉時雨が耳に痛い。
いつもなら登校する学生たちで賑やかなこの通学路も、この時間では井戸端会議に花を咲かせる主婦や犬の散歩をしているおじさんくらいしかいない。爪の音を鳴らしながら歩く柴犬とすれ違いざまに目が合う。犬はこちらに興味を示すこともなく、ふんっと鼻を鳴らし、飼い主を引き摺るようにして通り過ぎていった。
犬に鼻で笑われた。
犬にしてみればそんなつもりはさらさらないのだろうが、なんとなくそう感じて溜息とともに空を仰いだ。
空が高い。呆れるほどに雲が白い。このまま学校をサボってどこか遠くへ行ってしまおうか。そんなふわっとした感情が込み上げるも、蝉の声をも凌駕する爆音が背後から接近してきたことで、それは一瞬にして霧散した。
真紅の鉄の塊。
それが暴力的な風を伴ってあたしの真横を過ぎ去った。
バイクだ。乗っているのは学生服姿の少年で、よく見ればあたしの通っている高校の制服のようだった。
小さくなっていくその後姿を恨めしく眺めてやると、まるでそれに気づいたかのようにバイクは道の途中でゆっくりと停車した。
少年がフルフェイスのヘルメットのシールドを上げ、こちらを振り返る。そして「来い」とでも言わんばかりに手で合図を送ってくる。なんなんだろうか。あたしは特に躊躇することもなく、少年に近づいた。
「遅刻したくなけりゃ、後ろ乗れよ」
バイクの彼はそう言うと、指でバイクの後ろを示した。たしかにバイクなら間に合うかもしれないが、同じ学校の生徒とはいえ知らない相手だ。どうしたものかと逡巡していると、彼は急かすように言う。
「どうした? 乗るのか、乗らないのか」
彼の言葉はぶっきらぼうなものだったが、その目はどこか優しげで信用できる気がした
「じゃあ、よろしく」
それだけ伝え、あたしはバイクの後ろに飛び乗る。そして、遠慮がちに彼の学生服を掴んだ。
「それじゃ危ねえよ。両腕を俺の腰に回してしっかり掴まれ」
彼はあたしの腕を掴み、腰のあたりまでぐいっと引っ張った。なんだか照れてしまったあたしはぎりぎり聞こえるか聞こえないかくらいの小さな返事をすると、彼の腰に回した腕をきゅっと締めてしがみつく。
「少しとばす。落ちるなよ」
その言葉と同時にバイクが唸り声をあげ、急発進する。あたしの長い髪が踊り、耳元では風の音がごうごうと鳴っていた。速度が上がっていくと少し怖かったが、風を切って疾走する感覚がどこか心地よくもあった。
学校近くのマンションの前でバイクの速度が緩み、大きめの駐輪場にバイクは停められた。ずり落ちるようにしてバイクから降りたあたしの身体には、エンジンの音と振動が余韻として残っている感覚があった。
「不良」
風で乱れた髪の毛を手櫛で整えながら、あたしは意地悪っぽく言う。
「不良じゃねーよ。ちゃんと免許は持ってる」
彼がヘルメットを脱ぎながら答える。そういう問題ではなくて、バイク通学は禁止されているだろうという意味で言ったのだが、口には出さなかった。
彼は大人っぽい顔をしていた。こうして並んで立ってみると、身長も随分高い。おそらく上級生だと思われるが、髪の毛に激しい寝癖がついていてちょっと可愛らしかった。
「お前、一年の桐谷涼子だろう?」
ふいに名前を呼ばれ、どきっとした。校舎に向かって歩き出した彼は、戸惑うあたしを見て続けた。
「けっこう有名だぞ。美人の一年がいるってな」
「び、美人?」
言われ慣れない言葉に思わず声が裏返る。女子生徒からならばともかく、男子生徒からそんなことを言われるとは。そんなあたしの反応が可笑しかったのか、彼は愉快そうに笑った。なんだか恥ずかしくなり、顔が熱くなる。
なんで彼はそんなことを言うのだろう。さっきまで抱きついていた大きな背中を見ながら後をついていくと、ふいに彼が足を止める。
「ああ、それから」
彼は人差し指をぴんと立て、思い出したかのように言う。
「間に合わなくて、すまん」
その瞬間、校舎の方角から始業ベルの音が聞こえた。
あたしよりもふたつ年上の三年生。名前は藤田創一。
バイクの彼に関して得られた情報はそれだけだった。あの後、二人して校舎へダッシュしたため、それだけ聞くのがやっとで、お礼すらろくに言えなかったのだ。
「うーん……」
一限目の授業が始まってから何度目かの小さな呻き声をあげる。やはりお礼が言えなかったことが気になってしょうがない。間に合わなかったとはいえ、バイクで学校まで送ってもらったのだからお礼くらいは言わなければいけないだろう。
「うーん……」
また呻き声を生み出す。
くたびれた感じの数学教師がなにやら難しい公式を黒板に書き連ねているが、授業の内容が全く頭に入ってこない。
「テストに出るぞ」とお決まりの台詞が聞こえてきたが、さっきからあたしのシャープペンシルは手の中で回り続けているので、ノートは眩しいほどに真っ白だ。
窓の外を見やると、グラウンドでは体育の授業が行われていた。男子生徒たちがサッカーボールを奪い合っている。あの中に寝癖頭の生徒がいないか探したが、いない。当然だ。着ているジャージの色を見ると、二年生だった。
三年生の藤田創一くんか。
彼のことを思い出してみた。
楽しそうに笑う顔。寝癖のついた髪。大きくて温かい背中。
胸の奥がコトンと動く感じがした。止まっていた歯車がゆっくりと動き出すような、不思議な感覚だ。それが何を意味するのかはわからないが、このままではだめだ。会いに行こう。会ってお礼を言おう。そう決めた。
昼休み。あたしは三年生のクラスが並ぶ廊下にいた。周りにいるのが上級生ばかりでなんだか緊張する。ここへやってきた理由はもちろん創一くんを探すためだが、彼が何組なのかは聞いていないので自力で探すしかない。クラスは全部で八クラス。一クラスずつ探していけば必ず見つかるはず。それにいざとなれば誰かに尋ねればいいのだ。簡単だ。
A組のプレートが掛かっている教室をのぞく。
休憩時間なんて、どの学年でも過ごし方は同じなのだなと思う。お喋りに夢中な女子生徒たち。携帯ゲーム機の通信対戦で盛り上がっている男子生徒たち。黙々と読書に耽る生徒。死んだように眠る生徒。スマホを凝視する生徒。皆、思い思いの時間を過ごしている。しかし、その中に創一くんはいないようだ。
続いてB組の教室をのぞく。
よほど嬉しいことでもあったのだろうか。男子生徒が奇声を発してガッツポーズしている光景が目に飛び込んできた。もちろん創一くんではない。教室中を見回してみたがここにもいないようだ。
C組の教室はドアが閉まっていたため、そっと開けて中をのぞき込む。
「誰か探してるのか?」
「あ、はい」
背後からの不意の質問に相手の顔も見ずに返事をする。視覚に集中し創一くんを探す作業に必死だったので、正直話しかけないでほしかった。空気を読んでほしい。
ふと、思考がぴたりと停止した。
聞き覚えのある声にはっとして慌てて振り返り、相手の顔を確かめる。きょとんとした寝癖頭の少年は紛れもなく今朝、見た顔だ。
「うおっ」
あまりにも突然の再会だったせいか、おかしな声が出てしまった。
屋上に出ると、相変わらず容赦のない太陽が出迎えた。だが、風は気持ちよく流れ、髪を揺らす。
この学校の屋上は開放されており生徒の出入りは自由だが、安全を考慮して三メートルほどあるフェンスに囲まれているため、少し窮屈に感じる。籠の中の鳥はこんな気分なのかもしれない。そのせいもあってか、ここで休み時間を過ごす生徒の数はまばらだ。
一言、お礼だけ伝えて帰るつもりだった。教室の前でその旨を告げると、創一くんの友人と思しき男子生徒数人が興味津々といった様子であたしたちに視線を向けてきたので、二人で逃げるように屋上へ上がってきた次第だ。
「しかし律儀な奴だな、別に礼なんていいのに」
創一くんは珍獣でも見るような目であたしに言った。
「……迷惑でした?」
「いや、どちらかというと感心したかな」
彼の柔らかな笑顔に、また胸がコトンと鳴るので慌てて目を逸らす。逸らした視線の先は遠くの空だ。そこには大きな入道雲が、まるで巨大な雪山のごとくそびえ立っていた。隣に立つ彼も同じ空を見ているようだ。
「俺さ、小さい頃に入道雲を見て、でっかい綿菓子だと思ったんだよ」
「綿菓子って、あの綿菓子ですか?」
「ああ。でさ、あそこにいけば綿菓子を腹一杯食べられるんじゃないかって思って、入道雲を目指して延々と歩き続けたことがあるんだ」
「かわいいですね」と笑うと、彼は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「で、結局迷子になってさ、夜になるといよいよ不安になって泣き出したんだ」
呆れ口調で話していたが、語を継ぐ彼は急に嬉しそうな表情を見せる。
「そうしたらさ、バイクに乗った知らないお兄さんが泣いてる俺を見つけて、家までバイクで送ってくれたんだ。旅の途中だったらしいんだけど、とにかく格好良くてさ。その時に俺もバイクの免許を取れる歳になったらバイクに乗ろうって決めたんだよ」
まるで小さな子供みたいに話す彼が微笑ましい。自分でも驚くほどに優しい声で相槌を打っていた。
「お前をバイクの後ろに乗せたのも、その人の真似をしたかっただけなんだ。ただの自己満足さ。だからさ、礼なんていらないよ」
清々しい笑顔でそう言うと彼は大きく伸びをしながら、校舎の中へ戻るための扉に向かって歩き出した。あの金属製の扉を彼が越えていったとき、あたしと彼は少し話をしたことがあるだけの、ただの先輩後輩になってしまうのだろう。
このままでいいの? そう自問する。
なぜなら、本当はあの胸の奥でコトンと鳴る音の正体に気づいているから。
「また、バイクの後ろに乗せてください!」
彼がドアノブに手をかけた瞬間、あたしはそう叫んでいた。
「え」
彼は目を丸くして振り返った。当然の反応だ。あたしは何を言っているんだろう。しかも叫んだものの、次に繋がる言葉を用意していない。
「えっと、その、バイクに乗るのって気持ちいいですよね、それで……それで」
素直に彼に興味のある素振りでも見せればいいのに、自分の気持ちに気づかれるのを恐れて適当な言葉をつい並べてしまう。あたしはどうやらかわいい女にはなれない。
彼は考え込んでしまった。あたしは何をやっているんだろう。困らせてしまったではないか。猛烈に後悔して、首をもたげる。
「そうだな、もうすぐ夏休みだしな。今度、バイクで海にでも行くか?」
「へぇっ?」
意外な返答にまた、奇妙な声をあげてしまった。
その後、どんなやりとりがあったのかは記憶にないが、お互いの携帯電話の番号を交換して彼は屋上から去っていった。残されたあたしは右手に携帯電話を握り締め、左手はその携帯電話を死守するかのように、右手を強く掴んでいた。やがて予鈴の音に気づき左手の指から力を抜くと、右手の甲に爪の跡がくっきりと残っていて、ちりっと一瞬痛かった。