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壊れた時計3

*から視点が代わります。

「違う! そんなの嘘だよ!」


 頭を振る度に、涙が飛び散る。初めて聞く話のはずなのに、胸が引き裂かれるほど痛む。まるでそれが真実だとでも言うように。どうして、彼の言葉を嘘だと思えないのだろう。気付けば、静かに横たわる健を、幻影のように感じている自分がいた。


「貴方は、誰?」


 優菜は涙が零しながら、初めて青年に尋ねた。抵抗を止めると、身体を押さえていた彼の両手が解かれた。


「僕達が出会った頃、僕は今の貴方より年下だった」


 そっと振り向くと、青年は泣きそうな顔をしていた。頭の中に浮かぶ幼い顔が、目の前の表情と重なる。


「緑君、なの?」


 彼の眦から肯定の涙が溢れる。正面から強く抱きしめられた。まるで縋りつくような抱擁だった。


「やっと僕を見てくれたね。この時をどんなに待っただろう」


 緑は哀しみに湿った声で、優菜の知らない優菜自身の秘密を暴いていく。


「現実の貴方は、五年前から眠り続けているんだよ。だから僕は力を使って、貴方が見ているこの夢の世界へ来た。優菜さんを助けたくて。けれど貴方は僕の姿を見つけると、夢から夢に逃げてしまう。そしてその度に、僕のことを忘れるんだ」


 頭の中でパチンと音がして、散り散りの写真のように映像が浮かぶ。

 健と実験中に現れた緑が、逃げた猫を捕まえてストラップを差し出してくれた。

 DVDを借りに行った時、店の中で緑に会い、目を覚ましてと緑に縋られた。

 飛んできた野球ボールから身を呈して守ってくれた。

 その全部が行きつくのは最後の記憶。優菜が力を使い、意識を失う瞬間に見てしまった、動かない健の確かな死。


「あ……あぁ……っ、ああああぁぁぁぁ────っ」


 心を裂く絶望に、優菜は目を見開いて悲鳴を上げた。覚えがないはずの数百の光景が、胸に激痛を伴い渦になって押し寄せてくる。許容範囲を超えた記憶に、頭が激しく痛む。優菜はよくやく自覚したのだ。自分の愚かな行動が健を死に追いやったことを。


「……ごめん……ごめんなさい……健君が死んだのは……私のせい……」


「そうじゃない。ずっと見てきた僕は知ってる。貴方は最善を尽くしたはずだよ。自分の身を犠牲にしてまで、兄さんを助けようとしてくれた」


 緑の包容を振り切り、優菜は一歩、二歩と彼から距離を取る。


「でも助けられなかった! 私があの時、ストラップなんかで怒らなければ、健君は死ななくてすんだじゃない。私と出会わなければ、緑君もお兄さんを失うことなく、ずっと一緒に居られたはずだよ」


「それは結果論でしかない。兄さんの死は、誰にも予想出来なかったことだ。貴方が背負わなければいけない罪はないんだよ」


「なんで責めないの? 私を責めてよ。全部私のせいだって、言ってよ!」


「いいや、言わない。僕は、僕達は、優奈さんに会えて良かったと思ってるから。だからもう、自分を責めないでほしい」


「……ゆるさない。──私は私を許さない!」


「優奈さん!?」


 痛みの滲む声に応えるように、目の前がぐにゃりと歪む。緑が焦った顔で手を伸ばしてくる。その手を取ることなく、優菜はただ暗くなる視界に、血の沼に沈む健を映していた。


「ごめんね……健君……」


 彼の名前を小さく呼ぶと、意識が遠くなっていく。頭の中でパチンと音がしたのを、優菜は安堵にも似た暗い喜びと共に聞いた。

 終わりのない悪夢に身を投じ、絶望に焼かれて死ねればいい。

 それが、優菜が自分に下した罰だった。





****





 病室の中で目を覚ました緑は、寄りかかっていたベットから身体を起こした。白いベットの上には呼吸器を取り付けられて、眠り続ける優菜がいた。


 物言わない彼女の伏せた眦から一雫、涙が伝い落ちた。それが夢の中で見た優菜の叫びに重なり、緑は椅子から腰を上げると、服の袖で優しく受け止める。その際に触れた指先が確かな熱を感じ取り、歯痒さを噛みしめる。

 身体の脇に投げだされた優菜の右手を、緑はそっと両手で握りしめた。


「本来は安らぐはずの夢の中でさえ、貴方は自分を許さない。僕の言葉はどうしたら届く? どうしたら、生きようとしてくれる? 僕は貴方のためなら何でもするのに……」


 眠る年月が重なるほどに、筋力は弱っていく。このままではやがて、優菜は心臓さえも自力では動かせなくなる日が来るだろう。その前に、何としてでも彼女を現実に引き戻さなければいけなかった。それを彼女が望まなくても。


「──たとえ兄さんが相手でも、優菜さんは渡さない」


 この五年、兄を失った緑にとって優菜の存在だけが心の支えだった。それはもはや執着とさえ呼べるものなのかもしれない。

 当時抱いていた彼女への純粋な友情は、兄の死と共に何処かが歪んでしまった。他人と人づき合いが下手だった緑に、ここに居てもいいのだと教えてくれた二人は特別な存在だった。

 だから、ようやく手に入れた居場所を突然奪われた時に、凍えるような孤独に放り込まれたのだ。


「今の僕は昔とは違う。けれど、優奈さんに対する想いだけはこれから先も冷めることはないんだろうね」


 優奈に可愛いと言われていた少年は、二人が居なくなった時に死んだのだ。大学の人間から言わせると、今の緑は雰囲気が冷たいらしい。近寄りがたいと言われることも多い。


 健が亡くなった当初、面白半分に近寄る人間に随分と傷つけられた。どこから聞きつけたのか優奈のことを不躾に尋ねてきた者までいた。だからそれ以来、心を守る手段として他人は切って捨てるようになった。利益か無益かで判断し、無益な人間は歯牙にもかけない。それが今の緑だった。


「あら緑君、また来てくれたの」


 緑が振り向くと、優菜の母、美咲が病室に入ってきた。優菜とよく似た顔立ちには疲れが滲んでいる。本来は溌剌とした人なのだろうが、娘がずっと目覚めないのだ。その心労は計り知れない。


「すみません、お邪魔してます」


「いつも、ありがとうね。優菜、緑君もお母さんもお父さんも待ってるんだからね、早く帰ってらっしゃい。まったく、どこで迷子になってるのかしらね?」


 優菜の顔を覗き込んで優しく笑う顔には、母の愛が溢れていた。緑は彼女の細い手を乞われものを扱うようにそっと放すと、身体の脇に戻す。そして椅子から腰を上げる。


「僕達の声はきっと届いていますよ。今日はそろそろ帰ります。──優菜さん、また来るよ」


 美咲に軽く頭を下げて、緑は優菜に優しく笑いかけると病室を後にした。長い廊下を歩きなら次こそはと思う。彼女を取り戻すまで、諦めるつもりはなかった。


 美咲は静かに眠る娘の様子を確認すると、花瓶を抱えて病室を出て行く。

 心電図の電子音だけが響く中、優菜の指先がぴくりと動いた。





最後までお付き合い頂きまして、心よりの感謝を。三人の優しく切ない関係から何かを伝えられていたなら幸いです。

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