夢と現
もともと馬があったのか、優菜と朝倉兄弟はすぐに仲良くなった。休日明けに教室で声をかけてきた健に、周りは驚いていた。
時にはお互いの友達が二人の仲を勘ぐり、からかわれもしたが、そんな時には健がその場を笑いに持って行ってくれた。だからか、一か月も絶たずに二人は友達として周りにも認識されるようになっていた。
「優菜、今日家来いよ。この間見たいって言ってたDVDを緑が借りたんだ。一緒に見ようぜ」
「うっそ、行く行く!」
教室でのこんなやり取りも今では日常だ。不思議と健の傍は心が落ち着く。兄気質なせいか、または弟がいるからか、健は面倒見がよく甘やかし上手なのだ。一人っ子の優菜も気付けば甘えてしまっている。
授業も終わり、後は荷物を詰め込むばかりだった優菜は、鞄に入れるスピードをアップさせた。本当は先週借りようとしたのだが、評判がいいらしく、店では全部借りられてしまっていた。見れないと余計に見たくなるのが人の性だ。
絶対に見逃せないと慌てて帰り支度を整えて、二人は一緒に教室を出る。
「よく借りれたね、緑君。すごく感動するって聞いたし、楽しみだなぁ。私、一度家に寄ってから自転車で行くね」
「早く来いよ? 追いついたら、オレが漕いでやるから」
階段を下りながら話していると、廊下の前に私服姿の青年が立っていた。年は優菜達より五歳は上だろうか、背の高い健よりさらに上背がある。しんとした空気を纏う彼は、明らかに異質な空気を漂わせている。
目が合った瞬間、ぞわりと心がざわめく。初めて見る顔のはずなのに、既視感を覚えた。近づきたくないと突発的な苦手意識を抱く。
「ようやく見つけた……」
「え?」
青年は掠れた声で呟くと階段を降り切った優菜に近づいてくる。しかし、隣に立つ健はなんの反応もしない。
「どうしたんだ?」
ただ不思議そうな顔で足を止めた優菜を見ている。ふと気付けば、周りの様子もおかしい。私服の青年がいるのに、誰も注目していないのだ。
優菜が周りの様子に気を取られている間に、青年は目の前に来ていた。その目に浮かぶ感情を見たくない。咄嗟に顔を背けて、健の手を取って逃げようとした。だが、青年はそれを許さない。優菜の両肩に手を置いて、強く掴んでくる。
「優菜さん、もういいんだ。止めよう」
「や……っ」
落ち着いた低音が怖い。優菜は男の両手から身を捩って逃げる。この人が言っている意味がわからない。どうして健も周りもこの異常事態に気付かないのだろうか。
「健君、助けて!」
「はっ? 本当にどうしたんだ? なにかいるのか?」
意味が伝わっていない。見えていないのだ。その事実を自覚した瞬間、目の前がぐにゃりと歪んだ気がした。
「駄目だ!」
青年の焦りが混じる声が怖くて、優菜は目を閉じた。いつかと同じようにパチンと音がして、頭の中が白く弾けた。
「優奈さん、そろそろ勉強しないと」
「起きろー、起きないと顔に落書きしちまうぞ」
やわやわと揺すられて優奈は目を覚ました。瞼をひらいた途端に、眉を垂らした緑と口端を上げる健が見えた。
二人の顔に自分が彼等の家に来ていたことを思い出して、優奈は急いで起き上がった。人様の家で熟睡するなんて恥ずかしい。状況的に寝顔もばっちり見られてしまっただろう。それを考えると顔が熱くなる。
「ごめん。いつの間に寝ちゃったんだろう? せっかく勉強しに来たのに、ちっとも進んでないし」
ローテーブルに広がった白紙に近いノートに、優奈はがっかりした。テストが近いので一緒に勉強しようと言い出したのは自分だったはずなのに、普段使わない頭を使ったせいか、眠気に負けたらしい。それにしても変な夢を見ていた気がする。内容はあやふやだったが、どうにも嫌な後味の悪さを感じて、優奈は米神を押さえた。
「どした? 頭の使い過ぎで頭痛か?」
「痛くなるほど使ってないよ。どっちかって言うとそれがまずいよね。痛くなるほど使うべきだよ。なのに眠こけるとか、本当にごめん」
「気にするな。オレ達の傍でもリラックス出来たってことだろ?」
「そうなんだけど……さすがに花の乙女としてはどうかと思って」
「あの、本当に気にしなくても。僕は信用してもらってるみたいで、ちょっと嬉しかった」
緑が目元を赤くしてはんなり笑う。浦表のない真っ直ぐな好意が眩しい。自分で言って照れている年下の少年が可愛く思えて、その頭を撫でてみる。
「え、あ、え? ゆ、優奈さん?」
「私一人っ子だからさ、年下の子と関わったことがほとんどないの。だから年下の子ってよくわからなかったんだけど、緑君みたいな弟なら欲しかったよ」
「やらねぇからな。頭のいい弟が居ないとオレも困んだよ。なぁ緑―、これどういう意味だ? 語尾のなりけりって日本語かよ? さっぱりわかんねぇわ」
「古文だね。ほら、このページに意味の解釈が乗ってるよ」
おかしな話だが、中学生の緑に二人は勉強を教えてもらっていた。緑はとても頭が良く高校生の問題も楽々解けるくらいに学力に秀でている。しかしその代わりのように運動は極めて苦手で、体育の成績だけが極端に悪いとは健の弁だ。
そう言う健はどうかと言うと、理数は得意でも国語はまるっきり駄目らしい。今も教科書を捲りながら唸っている。
優奈自身はどの教科も勉強すればそこそこは出来た。しかし勉強をまるでしないでテストに挑めばやはりその結果は悲惨なものになる。そんなに勉強は好きではないが、赤点を取って補修を受けるくらいなら今苦労した方がいくらかましだ。
気合いを入れ直すと、優奈はやりかけの問題に目を向けた。しかし教科書に踊る数字に間を置かずにすぐ音をあげる。
「緑君、それ終わったら私のも教えてくれる? 因数分解がさっぱりなの」
「うん、ちょっと待ってて。兄さん、教科書の下に乗ってる解釈は全部暗記しといたほうがいい。これテストに出るよ」
「おう、赤線引いとくわ。いつも悪いな、テスト終わったらアイス奢るから勘弁してくれ」
「それは嬉しいけど、せっかく教えてるんだから平均はいこうよ?」
「……頑張ってはみる」
自信がないのか健の声はとても小さかった。普段の自信満々の様子からは想像出来なかった姿に、優奈は声を出して笑う。弱点が弟だなんて存外可愛らしいところもあったものだ。
「私も何かお礼するね。クッキーでも焼いてくるよ」
「なら、オレの分もよろしく」
「ちゃっかりしてるなぁ。健君って意外と甘党?」
「甘いのも辛いのも好きだな。ゴーヤみたいに苦いのはあんまり好きじゃねぇけど。緑はチョコレートが好きだよな? こいつアイスもいつもチョコ味ばっかり買うんだぜ」
「チョコが一番美味しいから」
「へー、よっぽど好きなんだね。なら、クッキーもチョコ味にするよ」
「ほんと?」
よほど嬉しかったのか、緑は満面の笑顔だ。気恥しそうな顔ばかり見ていたから、無邪気に喜ぶ様子が微笑ましい。
ふと健に顔を向けると、彼と目が合う。見ているこちらが恥ずかしくなるほど温もりの籠った優しい目が優奈達を見ていた。まるで前を歩く子供を保護者が見守るように、健は時折二人の一歩後ろにいる。それはおそらく間違いではないのだろう。彼が大人びているのか、はたまた優奈達が子供過ぎるのか。わからないが、優奈は健も子供にしてあげたいと思った。
「健君はチョコとバターと抹茶ならどれが好き?」
「オレか? オレは別にどれでも食えるよ」
「一番好きなのは? 緑君なら知ってるかな?」
「兄さんは抹茶が好きだよね」
「あぁ、まぁな」
どこか気まずそうに健が首元を触る。話を逸らそうとしたのは優奈の手間を考えたのだろう。そんな遠慮はしなくてもいいのに。
「私はバターが好きだから、どうせなら三種類作っちゃおうかな。それぞれ味を試食して、二人の感想を聞かせてよ。お世辞も遠慮も抜きにした正直なのをよろしく」
「うん」
「上手いのを頼むぜ」
照れくさそうな二人の笑い方は、血の繋がりを感じさせるものだった。