役立たずな力
最も大事なのはイメージだ。先は白い半円で、その下にはウサギのキャラクターが印刷されたケースが服のように纏われている。指で触ればそこそこの弾力があり、手の平にすっぽり収まる大きさ。授業には欠かせないシャーペンの相棒、その名も消しゴム。
勉強机に置いた消しゴムに意識を集中させて、ぐっと手を握れば、一瞬後には手の中に目的のものが瞬間移動していた。
「成功……っと」
くらりと頭が揺れた。急激な疲労が身体にのしかかる。優菜は座っていたベットに仰向けに倒れ込んだ。
一般にはサイコネシスと呼ばれるこの力。だが、なんの為に存在しているかは、十六年生きても優菜にはわからないままだ。それは生まれた時から備わっていたらしく、赤ん坊の頃はよく泣いてはおしゃぶりを移動させていたらしい。母が笑いながら話してくれた。
移動させられるものは小さく軽いものばかりで、日常で使えるかと思えば、まったくもっての役立たず。しかも使えばこの通り、体力の消耗が激しい。使用回数は一日三回が限度。市販の風邪薬を思い出す数字だ。注意事項には同じことが書かれていそうだ。限度を超えた使用は控えましょう。
どうせなら別の力が欲しかった。未来を予知するとか。テストの答えを透視出来るとか。こんなもの、面倒なだけだ。何かの弾みで無意識に使ってしまうこともあるため、こうして意識的に使うように練習しているのだから。
この間は美術の授業中に友達に後ろから驚かされて、その拍子に赤い絵の具を何処かに飛ばしてしまった。周囲にはバレなかったものの、おかげで優菜の絵の具入れには、一本分の隙間が空いている。
「早く買いに行かなきゃね」
優菜は呟いて、明日からの三連休に思いを馳せた。
翌日の昼過ぎ、優菜はようやく重い腰を上げた。今日は一段と日差しがきつい。優菜は家を出ただけでげっそりしてしまった。今すぐにUターンしたいが、そういうわけにもいかない。仕方なく、散歩するような足取りで路地を歩き出す。頭の中は一刻も早く家に帰って涼みたい。アイス食べたいと怠惰な願望でいっぱいだ。
狭い路地を抜けて広場の前に差し掛かった時、歓声が聞こえた。
「すげぇ! ホームランだ!」
「うおぉぉ、高いぞ!」
「危ないっ!!」
突如響いた言葉に顔を向けると、何かが凄い勢いで飛んできくる。反応する間もなく、優菜の顔面に突っ込んできたそれは、直撃する一歩手前でかき消えた。
「あ…………」
まずい。そう思った時には、視界がぐるぐる回っていた。気持ち悪さに足元がふらついて、血の気が音を立てて下がっていく。
「大丈夫か!?」
誰かが駆けてくる。優菜はテレビの電源を切られたように、ブツンと意識を手放した。
瞼の裏に光りを感じた。優菜は優しい温もりに起こされて、目を覚ました。薄く瞼を開けると、四人の少年に顔を覗きこまれていて、ぎょっとさせられる。
慌てて身体を起こしたところで、自分が知らない家のソファに寝かされていたことに気付いた。
「大丈夫か? 頭痛くないか? どっかおかしいとこないか?」
「おい、起きたばっかだぜ。質問攻めにするなよ」
「オレ、かーちゃん呼んでくるわ」
一斉にしゃべられて、頭が混乱する。何も言えずに瞬くばかりの優菜に、すっと横からコップが差し出された。
「これでも飲んで落ち着けよ」
相手の顔を見て優菜は驚きに目を見開く。話をしたことはないが、同じクラスの男子だ。名前は確か、朝倉だったはずだ。
「えっと、朝倉君、だよね?」
「そうだ。フルネームは朝倉健。あんたは飯塚優菜だよな?」
「うん。ここはどこ? どうして私寝てたの?」
「ここはオレのダチの家。あんたはオレ達がしてた野球のボールが直撃して、倒れたんだよ。そのままにはしとけなかったし、とりあえず広場から一番近い奴の家まで運んだ。理解したか?」
頷きを返して、受け取ったコップを考える時間を稼ぐために、ゆっくりと煽る。知らない内に喉が渇いていたようだ。喉を落ちていく水がおいしく感じる。全て飲み干して、コップを返すと、どこか心配そうに健が眉をひそめていた。しかし、そこに不審な様子はない。どうやら、野球ボールが消えた瞬間は見られていなかったようだ。優菜は安心して、緊張に強張っていた身体から力を抜いた。
「お水ありがとう。たまたま居た場所が悪かったみたいだね。迷惑かけてごめん。もう大丈夫だから、私帰るよ」
「いや、こっちが悪い。ボール当てちまって悪かったよ。まだ顔色も良くないし、もう少し休んでいったらどうだ? 何か急ぐ用があるのか?」
「そうじゃないけど……知らない子の家に長居するのもどうかと思って」
文房具屋はまた今度にしよう。今日は行く気がしない。絵の具はなくてもなんとかなるし、いざとなれば友達に借りよう。頭の中でそんなことを考えながら、優菜は身体にかけられていた毛布をめくり上げる。
いざ起き上がろうとすると視界が揺れた。野球ボールほど大きなものを飛ばしたことはなかったので、予想外に体力を消耗しているようだ。だが、一人で帰れないほどではない。
「あぁ、気が付いたのね。具合はどう? お家に連絡したいのだけど、電話番号がわからなくてね」
頭を押さえて眩暈を堪えていると、母と同世代くらいの女の人が近づいてきた。その後ろには優菜と同じ年くらいの男の子がいる。たぶん、この家の子だろう。
「いえ、大丈夫です。こんなことで親に心配かけたくないんですし、一人で帰ります」
「そう? 本当にごめんなさいね。聞けば、打ったのは家の馬鹿だって言うじゃないの。まったく、遊ぶのはいいけどもっと気をつけなさいよ」
「いてっ、暴力反対!」
母親に頭をはたかれた少年が、その部分を摩りながら文句を言う。しかし、優菜と目が合うと罰が悪そうな顔をして、ちいさく「ごめんな」と声が聞こえた。
「おばさん、卓だけが悪いんじゃないよ。野球やろうって言い出したのオレだし」
「それならオレも賛成した」
「まぁ、全員の責任だろ」
四人に口ぐちに謝られて、優菜は首を横に振る。立っていた位置と飛んできたボールのタイミングが悪かっただけだ。
「もう気にしないで。それじゃあ私、帰ります。玄関はどっちですか?」
「ドア出て左。卓、オレも帰るわ。さっき家からメール来た」
優菜の隣に健が立つ。携帯を見ながらため息をついている。
「なんだよ。急用か?」
「親父が早く帰って来たから、飯食いに行くんだと。強制だから、行かねぇとオレの夕飯がなくなる」
不本意そうな顔に、周りから同情交じりの同意が上がる。
「そりゃ、しゃーねーわ」
「育ち盛りに飯抜きはきついしな」
「悪いな、お前等。行こうぜ、飯塚」
「うん。お邪魔しました」
苦笑して謝ると、健はドアを開いて優菜を先に行けと促す。優菜はそれに従って軽く周りに頭を下げて廊下を左に進んだ。玄関で靴を履いて、ドアを開ける。
少し間を置いて、後ろでドアが閉まる音がした。
「じゃあ朝倉君、また学校でね」
実際に顔を合しても話すことはないだろう。そう思いながら、優菜は後ろを振り返って挨拶した。これまで関わりがなかった相手と、明日から友達になるとは思えなかったのだ。
しかし、健は酷く真面目な顔をしていた。まるでこれから大事な話でも切り出そうとしているように。薄い唇がゆっくりと動き、右手があげられる。
「なぁ、これに心当たりあるよな?」
彼の手には、失くしたはずの赤い絵の具が握られていた。