電話線
――ほんとに僕って馬鹿だよね。
そう話しかけると、電話口に黒木くんの抑えた笑い声が聞こえた。つづけて、電話の向こうから、
「……って、ごめん。多原さん」
こんな明らかに笑ってる声で謝られても今更だよねと、生意気な口を利く。
ひとしきり笑う黒木くんを軽く諌めつつ、僕は右手で名刺サイズのカードを意味もなく裏返したりながら、ぼんやりと眺めていた。こども相談窓口の『ひとりでなやまないで』という標語の横でウサギとイヌの丸っこい可愛らしいキャラクターが優しい笑みを浮かべている。裏面にはここの電話番号。
はじめ、黒木くんは彼の通う中学校で配布されたこのカードを見て、電話をかけてくれたらしい。
「多原さんは馬鹿じゃないよ」
落ち着いた黒木くんの声に急に意識を戻される。笑い済んだみたいだ。
ところでさ。
黒木くんが恵生駅の近くにあるファストフード店の新メニューの話をし始めた。流行りの味だが、あまり美味しくないらしい。食べたことある? と尋ねる楽しそうな声に、思わず首を右に傾ける愛らしい仕草を想像する。
彼は電話で話している限りとても利発で明るい少年のようだった。時々こっちがドキッとするような鋭い言葉を呟き、こどものようによく笑った。大人びた雰囲気を持つ一方で、母親との距離感に少し戸惑っているような節があり、それなりに中学生らしくもあった。
僕はまだ黒木くんから相談を受けたことがない。
夕方に電話がかかってきて、お互い他愛もない話をする。ただ、それだけ。彼と話していると、自分の役割を忘れそうになる。
そうだ。僕は相談員だ。僕の仕事は、他人の悩みを聞くことだろう?
「多原さん、聞いてる?」
黒木くんが訝しげな声を上げる。
「ごめん。途中から聞いてなかった」
僕が素直に謝ると、正直者は救われるんだよと黒木くんがふざけて笑った。その心地よい声に決心を固める。今までの計11回の電話のやり取りの中で、彼が一度も触れなかった核心へ。
あのさ、黒木くん。
「学校は、楽しい?」
僕の問いかけに対し、電話の向こうは少しの間沈黙していた。
僕がいつものように『無理に言う必要はないよ』と声をかけようとしたとき、やっと黒木くんが口を開いた。
「僕、今は学校に行ってないんだ」
そうかと曖昧に相槌を打つ。いわゆる不登校というやつだ。
「何が原因か、多原さんならわかるかな」
彼は案外余裕そうな声で言う。
見当もつかないなと嘯いた。
「ヤマトっていう幼馴染がいたんだ」
いた、ということは、今はいなくなってしまったのだろうか。
悩みというよりは秘密を打ち明けるように、彼はこう続けた。
「僕はその幼馴染にカッターで刺されたんだ」
へえ、『幼馴染に刺された』んだ。
僕はそう声をかけようとしてやめた。僕が同じ言葉を口にしても、彼のような重みはない。黒木くんは、今、どんな思いでその言葉を発したのだろう。憎んでいるような口調ではなかったように思えたが、実際はどうなのだろう。
でもさ。
「黒木くんがそのヤマトくんを傷つけたんじゃない?」
自分でも失礼で無遠慮な質問だと思ったけれど、電話の向こうの黒木くんは、そうかもしれないねと、ただ寂しそうに呟いただけだった。
その声があまりにも小さかったので、とても悪いことをした気分になる。言い過ぎただろうか。
「多原さんはさ、人を、友達を刺してしまったことある?」
「まだないかな。刃物で刺されたんじゃないかってくらい深く傷ついたことはあるけど」
「それで、そのときはどうしたの?」
「誰にも言えなかったよ。誰も気づいてなんてくれなかったし」
じゃあ、多原さんに打ち明けることが出来た僕は幸せな方なのかなと、黒木くんが言う。
悲しい声は出さないで欲しい。黒木くんには笑っていて欲しい。そんな思いが口をついて次々と飛び出す。
「その友達を殴りたいなら殴ってしまえばいいんだよ。やりたいようにやって、言いたいことは吐き出してしまえばいいんだ」
黒木くんはまだこどものままでいいんだよと、勢いに任せて力説する。
一瞬の空白のあと、堰を切ったように静かだった電話の向こうが笑いで溢れた。それはかっこよすぎて真似できないよと、また生意気なことを言う。
「あとのことはあとで考えればいいんだよ」
笑われたのがなんとなく恥ずかしくて少し投げやりになる。黒木くんが、今度は、大きく声を上げて笑い始めた。その声がむず痒くて、頭を掻く。
ありがとう。なんか元気出た。
中学生らしく、照れくさそうに言う。僕は、これが仕事だからねと、誇らしげに胸を張った。
でも、すべてが万事解決したわけではない。これは黒木くんの問題だ。
それでも、黒木くんの心の負担をほんの少しでも減らすことが出来たようで清々しく爽やかな風が心を通り抜けたが、でも、片隅ではまだもやもやした雲が晴れないでいた。
どちらかが切り出すのをお互いに待っているような、微妙に居心地の悪い空気が漂う。
「じゃ、今までありがとうございました」
唐突に電話の向こうから聞こえてきた、黒木くんの改まった挨拶に戸惑いながら、適当に返事をして、電話が切られるのを待つ。
再び、少しの沈黙。
あのさ、多原さん。最後にさ。
黒木くんが遠慮がちに口を開いた。
「携帯電話の番号、聞いてもいい?」
僕は黒木くんと同じことを考えていたのが妙に嬉しくて、でも恥ずかしくもあって、なぜか顔が火照った。
読んでくださってありがとうございました。
拙い文章ですが、私の今の精一杯です。
この作品は学校の小さな規模の小説大会で、優秀賞をとった思い入れが深い作品です。
あの経験がなかったら、今の自分はありません。
それくらい自分に影響を与えた出来事でした。
知識不足な面が多々あると思われます。
指摘してくださるとうれしいです。
雪之進