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0832  作者: 夏野ゆき
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一、海

 一、海


 【海とは生命が生まれ、還る場所】


***


「よくきたねェ、ほんと。この暑い中をサ」

「母さん、久しぶり!」

 

 どこか浮かれたような空気をまとって僕の母が目指したのは――この町の中でもひときわ大きくて、ひときわ年季の入った平屋の住居だった。

 木で出来たような門の前に立って、僕の母に手を振る、しわくちゃの干物みたいな腰の曲がった老婆が、僕のおばあちゃんだ。

 最後に見たのは僕が小学校を卒業したときだから、もう二年くらい顔をあわせていないことになる。

 おばあちゃんは相変わらず、しわくちゃの顔をもっとしわしわにして、僕らの来訪を喜んでくれた。


 おばあちゃんの背は、僕なんかよりもう随分小さくなっていて、それは腰が曲がってしまったせいもあるのかもしれないけれど、それが何となく寂しい。

 小さいときに僕を抱っこしてくれたときのおばあちゃんは、もっと僕より大きかったんだけど。


「あんたも元気かい? 今はもう、中学生だってねェ。時間が経つのは早いもんだよ、ほんと」

「母さんも年寄り臭いこと、言うようになっちゃったわよねぇ」

「もう年寄りだもんさァ。いつお迎えが来たっておかしくないやね」

「冗談でもやめてよ、母さん」


 からからと笑うおばあちゃんは、しわくちゃではあるけれど元気だ。

 少なくとも、炎天下を延々と歩いてきた僕よりかはずっと元気そうに見える。

 重い荷物を抱えながらも、「元気だよ、おばあちゃん」と僕が口にすれば、おばあちゃんは本当に嬉しそうに笑った。


「ま、早いとこ家に入っちゃいな。んで、汗を流しな」

「そうねぇ、汗かいちゃったものねえ」


 うんうんと頷く母さんに「誰のせいだと思ってるの」と言いたくはなったけれど、おばあちゃんの前で喧嘩するのも気が引けたから、僕は何も言わずにおばあちゃんの家に入る。

 母さんが先に汗を流すと風呂場に行ってしまったから、僕はそれまで庭でおばあちゃんの飼っている犬と遊ぶことにした。


 名前はタロと言うらしく、丁度二年前におじいちゃんが拾ってきたらしい。

 おじいちゃんはもうこの世にはいないけれど、タロはおじいちゃんよりおばあちゃんに良く懐いたのだという。

 血統書つきの犬でもなんでもない、ただの雑種だとおばあちゃんは笑っていたけれど、おばあちゃんはタロのことを可愛がっているようだった。

 僕が恐る恐る手を伸ばしてタロを撫でれば、タロは僕の手に擦り寄ってくる。

 フンフンと鼻を鳴らして寄って来る犬に、僕は少し愛着を持った。


 母さんの後に続いて風呂に入り、風呂から出てくれば縁側で母さんが団扇を扇いでいた。

 庭に足を投げ出すようにして、庭にいるタロを眺めている。

 投げ出された足は、氷水の入った盥に突っ込まれていて涼しそう。


「あら、上がったの?」

「うん」


 からりと氷のぶつかる音がして、母さんが僕の方へと振り向いた。右手に持った団扇には、朝顔が描かれている。

 こっちへいらっしゃいよ、と母さんは自分の隣を叩いた。

 僕が素直にそちらに行けば、母さんは盥から足を引き抜き、足先で僕の足下へと盥を押しやる。足癖、ほんとに悪いんだよね、母さん。

 母さんは、引き抜いた足をタオルでぞんざいに拭くと、もう夏よねえ、とのんびりと呟いて、ぱたぱたと団扇で僕の顔を扇いだ。

 母さんの代わりに、盥に足を浸してみれば、ちゃぷりと音がして足先に冷たさが広がる。

 ある程度溶けたのか、盥の中に浮いていた僕の足の裏の半分くらいの大きさの氷の塊は、 角が取れて丸みを帯びている。

 それを両方の足の裏で転がして遊んでいれば、タロが盥の近くまでやって来た。


「タロも暑いわよねえ、犬は毛皮を脱げないし」

「そうだね」


 足先で氷を転がしていれば、母さんが盥の中に手を突っ込んだ。母さんは、小さくなった氷の塊を盥から取り出して、タロの足下にそれを置き、氷にじゃれつくタロをのんびりと見つめている。


「海でも行ってきたら?」

「え、良いの」


 いつも通りに唐突だった言葉に、僕がそう返せば、「どうせやることもないでしょ」と母さんは笑う。

 楽しみだったんでしょうと付け加えられて、僕は曖昧にも頷いた。素直に認めるのは、ちょっと悔しかったから。




***



 海だ。


 おばあちゃんの家から少し歩いただけで広がるこの光景は、都会には無い潮騒に溢れた光景だ。


 真っ青な空の下に、深い紺が広がっている。

 柔らかにうねる波は、何かゼリー状の生き物を思い起こさせた。

 白く泡立つ小波は、浜に打ち寄せては引いていく。

 都会では見ることもないこの光景に、僕はしばらく見入っていた。

 整備仕切れていないような、海に沿って作られている道路をあるいてきたけれど、ガードレールの向こうには、もう砂浜が広がっていた。少し視線をずらせば、見晴らしの良さそうな、ちょっとした高台……この場合は、低めの崖、と言うべきなのだろうか、柵も何もなさそうな、少しばかり危険な場所が見える。

 僕は迷わず、その高台に向かう。危険なことには、興味がある年頃という奴だから、仕方ない。


 高台に向かって、なだらかな坂道を上る。履いていたサンダルに、砂が少し入った。今すぐに落としても良かったのだけれど、どうせまた入るのだからと、僕はそれをそのままにする。早く高台に上って、少しスリリングな景色を楽しんでもみたかったから。

 高台に至る坂道を中程まで登ったころに、僕は高台に人がいるのに気付いた。

 

 女の子だ。白いワンピースに、今時は誰もかぶらないような、少し大きい麦わら帽子。帽子から覗く黒髪は、長くて風に踊っている。

 背の低さから言うと、僕と同い年か、少し年下くらいだろうか。

 女の子は、高台から見える景色を、ぼんやりと眼に映しているようだった。潮風に靡く黒髪と、風にさらわれそうな麦わら帽子を、片手で軽く押さえて、崖の、高台の下をのぞき込もうとしている。


 柵も何もない、少し危険な高台の縁。危ないなと僕が思った時だった。


 何がどうなったのか分からない。


 女の子は四つん這いになって海を覗き込んでいたところまではしっかりと見ていたのだけれど。


 まず、左手が滑った。何もない宙を左手が泳ぐ。右手がそれに誘われるように宙に出て行った。上半身が高台からとびだす。その下は海だ。女の子の麦わら帽子がふわりと浮く。身体が傾げる。頭から海へ。長い黒髪が、後を追うように、つうっと青い空を滑った。白いワンピースの裾が、鳥の羽のように舞う。


 ――女の子が、海に落ちる。


 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。

 ただ、頭の中を跳ねるように、僕の鼓動が鳴り響いているのだけが分かる。

 破裂しそうな心臓は、僕より状況を理解していた。


 弾かれたように高台に駆け上がり、女の子がしていたように四つん這いになって下を見る。


 ――ざざん、ざざぁん、ざざざざざ。


 波音にかき消されたかのように、女の子の姿は見つからない。

 まるで最初からいなかったかのようだ。海は、女の子を飲み込んでしまった──


「嘘だ……」


 愕然とするしかなかった。

 目の前で人が海に落ちるなんて初めてで、僕にはどうしたらいいのかわからなかった。



「この場合は誰を、おばあちゃん? ちがう、家の近い人にしらせ、あ、いや救急車? とにかく、電話、連絡しなきゃ」


 後ろにすぐに振り返り、僕はとにかくどこかに連絡しなければ、と震える足で立ち上がる。

 馬鹿みたいに足がガクガクとした。力の入らない足はまるで生まれたての鹿のようで、情けなかった。

 立ち上がれないのだから。


「ああ、ちょっと、君」


 大丈夫? 危ないよ──その言葉と共に、白い手が目の前をよぎった。

 その手を掴もうとすれば、それはするりと僕の目の前から消える。 


「あ、なんだ、わりかし元気そう? ねえ、そこにいると落ちちゃうよ」


 危ないから早くこっちおいで。


 不思議な響きの声が、僕の頭上から降ってくる。僕の目の前には、白い布がひらひらと揺れていた。

 布から視線を上にずらす。

 麦わら帽子が見えた。


「ん? 顔色悪いね、大丈夫ー?」


 座り込んでしまった僕を少し心配そうに見つめていたのは、長い黒髪の女の子だった。


「……っ、……!?」

「わ、どうしたの、過呼吸? だっけ?」


 口をパクパクさせる僕に、女の子は目を丸くさせる。

 風に煽られた麦わら帽子が彼女の頭から滑り落ち、首にかけられたひものおかげで、背中あたりに落ち着いた。


「な、なんで、」

「どうしたの」


 それしか言えない僕に、女の子はくすくすと笑う。

 ひやりとした風が、僕の背中をなでていった。


「君、さっき海に」

「海?」

「海に、落ちたじゃないか!」


 やっとのことで口にした僕に、女の子はけらけらと笑ってそれを否定した。「夢でも見てたんじゃない」と。


「私は海になんて落ちてないよ。ほら、濡れてもないし」



 女の子が、くるりと回る。

 ふわりと白いワンピースの裾が、僕の鼻先を掠めていった。


 なんだっけ、ああそうだ、そういうのって“白昼夢”って言うんだよね──女の子は面白そうに笑って、僕の顔をのぞき込む。


「夢の時間には、まだ早いよ」


 ね、と微笑んで、女の子は僕の目をじっと見つめる。

 夜みたいに黒い瞳に、僕の顔が薄く映っていた。


「君、ここの町の人?」

「え、いや……ちがう、けど」

「だよね。見かけない子だもん」


 いつここにきたの、そう聞くこの女の子は、きっとこの町に住んでいる子なのだろう。

 海は珍しい?

 そう聞いたその子に、僕は頷いた。


「あは。じゃあ君は海のないところで育った子なのかあ。……珍しいのは良いけど、海は怖いからね」


 にこっと笑ったその子は、背中に垂れ下がっていた麦わら帽子をかぶりなおした。

 黒髪が、さらりと涼やかに流れる。


「じゃあね」


 ――また会おうよ。


 にこりと笑顔を付け足して、女の子は走っていってしまった。後に取り残されたのは僕だけだ。


「なんだったんだ……」


 女の子の姿はすぐに消える。

 白昼夢みたいだと――思った。

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