帝王
青く澄んだ目を、一度、二度またたかせて、ポケットから身を乗り出すと、おあつらえ向きのタイミングで大きな手が差し出された。そこに、長い尻尾を垂らしてすっくと立ち上がる。
指先でヒゲをぴーんと伸ばし、身だしなみを整えた。
たとえネズミの姿だとしても、紳士たるもの失礼があってはならない。
さて、首尾は上々。いざや参らん。
地面に向けて、ぽんと身を投げた。
まもなく着地というとき、宙に図形を描くバショカフの足がぶるっとふるえたのを、青い目がとらえた。
ああ、そうか。
もっとも真実に近いところにいるのは、ロエッタ、あなたでしたね。
とうとう私の正体に気づいてしまったのか……。
完成した魔方陣から光がぱっと散ったと同時に、バショカフの体がこの場からこつ然と失せた。
移動魔法。それも、一連の流れは鮮やかかつ、優美、あるいは繊細である。
なんという人間だ、ロエッタ・バショカフ。
その研鑽のたまものともいうべき知や識の豊富さ、大局を見誤らぬ炯眼、からだの中心に据わる不動の精神。なにより、努力で磨きぬいたのであろう、その鮮やかな魔術はだれをも魅了する。
あなたが教えを説く者ではなく、そちら側――武に生きる者とは、なんともったいないことだ……。
ボッ、と炎が燃えあがる。
硬岩石の床から天井へと、赤黒い火の束が伸びあがった。
炎のなかからするりと手が伸びてくる、が、白い手套は灰になるどころか、燃える気配もない。
その手がゆるやかな仕草で、まとわりつく煙をふっと払うかのように、炎を掃いた。
一瞬で、それが消散した。
なめらかな布地の、暗灰色のマントをゆらして、一歩、進み出る。
空色の眼、長く尖った耳、薄く開いたくちびるの隙間から覗く、ギザギザの鋭い歯、かぎりなく黒に近い、竜王とよく似た翼をもつ、男。
胸の前で、握っていた手をゆっくりとひらいた。そこからなにか光るものがぱらぱらと落ちて、床をカチン、カチンと跳ねていく。
色とりどりの、耳飾である。
そう、いつも魔力を限界まで押さえ込むためにつけていた、ピアスだった。
キャラメル色の長髪を高いところでひとつにくくったその男は、とびきりの微笑を浮かべて、こう告げる。
「これは、これは、閣下。お会いしたくてこの日をどんなに待ったことか」
喜劇でも演じる役者のように、大仰なふるまいで胸に手をあて、恭しい会釈をひとつ。
すると、北国の武のもっとも高みに君臨するペンドラゴンの歯が、カチカチ音をたてはじめた。
ガクガクゆれだしたひざを引きずって、一歩、後退する。
つねに威厳があらねばならぬ瞳が、せわしなく泳いでいる。
ペンドラゴンの全身は、どうしようもないほど、震えていた。
「キ、キリク……パーシ、ヴァル……」
「そう、軍にはその名をくれてやった。友からもらった、大切な名だ――だが私にはもうひとつの名がある。お前たちの支配を受けていない、名が」
脊髄にしびれが走るような、低く、硬く、じゅうぶんに冷えた声。地獄から響いてくるような、がらがらと不気味な音。
ペンドラゴンのかすれた声が、音のないホールにやけにはっきりと響いた。
「――帝王、ルキフェル……」
*
ほんの少し前に、上の階からすさまじい爆発音が聴こえたように思えた。うとうとしていたところに、そんな音が聴こえれば、いやがおうにも目が覚める。
いつのまにか、入り口を固めていたふたりの兵士の姿がなくなっていた。
――なにかあったんだ。
もうすっかり硬さと冷たさに慣れた石の椅子から立ち上がり、シキは鉄格子にへばりつくようにして顔を近づけた。
だれかいないのだろうか。
シキが放り込まれている石牢のそばに、兵士の影はない。ただ、上階からは、大勢の兵士のせわしい足音と、何事かを叫ぶ声がひっきりなしに聞こえていた。
しかしそんなことよりも、バチバチと強く燃えさかる火の音、そして、なにかの焼け焦げた臭いがシキの顔をこわばらせた。
「火事だ……どこかで火事が起きてるんだ……」
ぞっ、と肌があわだった。
石牢には鍵がかかっている。むろん、外側からだ。
ゴツ、ゴツ、ゴツ、と階段を下りてくる靴音を耳がとらえた。にわかに心臓があわただしくなったのは、軍靴の音にまじって、金属特有のガチャガチャとした音が鳴っていたからである。剣身を納める鞘が、どこかにぶつかる音だ。重たい剣。それを腰に下げていたのは、たしか……。
「ファクロー中将……!」
嫌な予感がして、シキはとっさに鉄格子から飛び退いた――ちょうどそのとき、なんの前ぶれもなく、急に足音が途切れたのだ。
ほどなくすると、ふたたび石の階段を下る音が響きだした。ところが、先ほどよりも音が軽い。しかもどういうわけか、二人分である。
これは、と思ったとき、シキのよく知る人物が鉄格子に飛びついてきた。
「リジル……! と、オーグさん!」
「少尉、顔は見られていないな?」
「はい」
「よし、機会はいましかない」
互いにうなずきあって、オーグ少尉は手に持っていた鍵束から一本を選んだ。
リジルは息を整え――
「黒竜王」
深い青で黒い瞳を射抜く。その眼には、声には、決意が灯っているように感じた。
「わたしは、わが精霊の言葉と、おのれの心を信じることにしました――黒竜王はお優しいお心をもっていらっしゃる……あの事件には、なにか、事情がおありなのでしょう。竜王に対するいままでの非礼は、けっして許されるものではありません……ですが、罰は、黒竜王を無事に逃がしてから下していただきたい」
「……え?」
「われらは、黒竜王を信じます」
がちん、と重々しい音とともに、檻の扉が開け放たれた。
「どうぞお早く」と、オーグ少尉。
「こんなことをすれば、オーグさんたちが提督に裁かれるんじゃ……」
「万が一、そうなったときは覚悟しております」
決然とした言葉だった。
そこに、リジルの声がつづく。
「なぜ、もう一度お逃げにならなかったのです? あのときよりも、ずっとお加減がよろしいようだというのに……」
「約束、したから」
シキがやわらかく笑った。
その気の抜けるような笑みを前にして、リントヴルム・トリスタンは、もう、追求しようという気にはならなかったようだ。
「……ああ、そういえば、黒竜王にこれをお返ししなければ――」
実際、シキが軍のなかを移動するのは、これがはじめてのようなものだった。
ゴツゴツした石の階段を、全速力で駆けあがる。
先導は、リジルであった。
「自分は中将を地下シェルターまで運びますので、陛下と大佐は、どうぞお気をつけて」
オーグ少尉とはこのように、階段のなかほどで別れていた。
かなり体格のよいファクロー中将を難なく担ぎ上げた少尉に、「うわっ、カッコいい」なんて、いかにも子供っぽい声をあげてしまったのは、どう考えても失態だった。
目をぱちくりさせる少尉と、目を点にさせたリジルの顔といったら……。
階段をのぼりきって、一階の通路に飛び出したとたんに、ごった返す兵士の波にもまれてしまった。
まずなにより、あたり一面の火の海に驚いた。
「すべての出入り口に、たぶん、強力な魔法がかかっている」
「軍を襲うなど、だれが……!」
「どうする、このままでは蒸し焼きだ!」
ほとんどの兵士が汗だくで、ボンベのようなものを手に怒鳴りあっている。
「解除できないのか?」
たまらずリジルがそばにいた兵士のひとりを捕まえると、その周囲の兵士たちも目玉をひんむいて、あっ、とか、えっ、とかのどを詰らせた。
「な、な、なんで……!」
「黒竜王……?」
「まさか、だって、いま、地下牢に……」
「ど、どうする、早く捕まえないと――」
「えーと、兵士のみなさん、あまり騒ぎたてないでもらっていいですか?」
もとのざわめきを取り戻した一階の通路で、リジルが汗の浮いた顔でふり向いた。
「黒竜王だけでもここから脱出してください。精霊四体の力をあわせれば、きっとどこかの壁を破れるはず――」
「リジル」
紋章を描こうとしたリジルの指を、シキはつかんだ。
「三階にまだだれかいる……そのなかに、悪魔の気配があるんだ」
「……パーシヴァル卿、ですか?」
「たぶん、ちがう」
言葉が理解できない、といった顔で、リジルが見つめ返してくる。
長いまつげのかかる目をぱっちり見開いた、その麗しい顔貌が間近にあるだけで、めまいが起こりそうだった。
平常心、平常心……と口のなかで唱えて言葉をつぐ。
「キリク先生から感じてた気配より、もっと濃くて、ずっと強いんだ。こんなに離れていても、はっきりわかるくらいに。三階にいるのは、低級悪魔って呼ばれるものじゃない」
「そんな……ありえません。この国にいる悪魔は、パーシヴァル卿のみです。そもそも、軍の施設丸ごと魔術で悪魔の侵入を防いでいるんですよ? 軍の許可のない悪魔はまちがっても入ることなど……」
「軍のことはよくわからないけど……」
つかんでいた手をそっと離して、シキは微笑した。
「行ってくるよ」
「黒竜王……!」
すがるような声だった。それでも、シキは決然と火の海に視線を投じる。
ここから一番近い階段――だったものはすでに炎にのまれてしまっている。だから、左右の通路を見比べて、火の勢いの弱いほうへと足を向けた。
三階の気配に呼ばれたわけでも、行かねばならぬ理由もない。だが、そこに行くべきだと、本能が告げてくる。その眼で知るべきだ、と理性が断じる。
だから、僕はゆくのだ。
「お待ちください、黒竜王!」
階段のすぐそばにぽつんと立つ、人間そっくりの氷の彫刻をまじまじ見ていたときだった。床からちょっと浮きあがったんじゃないかと思うくらい、その声に心底びっくりした。
リジルであった。
長い通路を全力で駆けてきたのだろう、ずいぶんと呼吸が荒い。
彼女の、青く燃える激しいまなざしに、シキは一瞬、わけもなくたじろいでしまった。
「こちらの東階段も火の勢いが強くて、とてもじゃないが上れません! いかに黒竜王とて、この炎のなかをゆくのは、危険です!」
「火の勢いが、強い?」
「中央階段側にお戻りください、ここにいては黒竜王も、燃えてしまいます!」
リジルの言葉で、この広々としたホールの奇妙さに、ひとつの答えが降ってきたような気がした。散り散りになっていた点が、ひとつにつながってゆくのを感じる。
爆発音。
襲撃。
火災。
悪魔の気配。
彼女に見えているもの。
自分に見えているもの。
『必ず迎えに来ます』――。
つながった点の先にある真実が、おぼろげに見えてきた。
「リジルには、炎が見えているの?」
「……質問の意味が、解りかねます。ここも、すでに火の海でございましょう……?」
リジルの視線を追って、シキも広いホールをぐるっと見やった。
「……リジル、ここは火の海になってないよ」
「……は?」
あちこちが穿たれた石の床、剥がれ落ちた壁、亀裂の入った天井。地下と二階へ延びる大きな階段。
それだけだ。
「どこも燃えてない」
「ご冗談を……」
まるで、得体の知れない生き物を探すかのように、リジルが注意を払ってあたりに目を配った。
「リジルに見えているものは、たぶん、まぼろしだと思う。幻覚魔法の火じゃないかな。それは、僕には効かないものだから」
脳裏に、なぜかベルガモット先生のくすりと笑んだ姿がよぎった。
「たしかにさっきいたところの火事は本物だった。でも、通路の途中から火はおさまってたし、こっちの階段には、火なんてどこにもないよ。……リジル、いま、熱さを感じる?」
リジルがはっと息をのんだ。
「ほら」
リジルが危険だと訴える階段へ、手を伸ばす。
「ね?」
がく然と目を見開いたまま、リジルは薄くくちびるを開けた。なにか言いたげだというのに、音が出てこない。
いったい、なにが起こって、なにが正しいか、彼女はそれがわからないのだ。
わからないから、なにも言えない。
「僕のこと心配してくれて、ありがとう」
立ちすくむリジルに精一杯の笑顔を向けて、シキはきびすを回した。階段を一段、また一段とのぼってゆく。
立ち止まらずに前へ進む。
もう、ずっと前から腹は決まっているのだ。
「――黒竜王!」
何度目になるかわからぬ呼びかけだった。だが、その声はそれまでと違って、並々ならぬ決意が込められているようにも思えた。
ふり返ると、リジルが奥歯を噛み、まなざしを強く、シキを見上げていた。
「わたしも、ともに参ります。黒竜王がゆくとおおせであらば、このトリスタン、どこへなりとも、ついてゆきます」
階段のすぐ手前で屹立するその足が、わずかにふるえているのを、シキは見た。
「黒竜王を、信じると、誓ったのです」
しかしその瞳に怖れは微塵もない。――だからだろうか。
シキは無意識に手を、差し出していた。
それは、舞踏会であと一歩が踏み出せないお姫さまをエスコートするようなさりげなさで。
黒竜王を見つめる彼女の青い目には、もう、あの燃えんばかりの怒りや憎しみは潜んでいなかった。




