再会と小瓶
五階、六階は寮となっていて、男子も女子も互いの階には入れないことになっていた。
五階を通り過ぎると、踊り場の壁にひときわ目立つ赤い扉がひとつあって、その扉の前で椅子に腰掛ける小男を見つけた。かなり薄くなった髪をなでつけ、こちらに陰湿なまなざしを向けてくる。
「げっ、モリスのやつ、もういやがる。しゃあねぇー、モリスがいると面倒だから、またあとで来るべ」
ウルトに気づいた小男――モリスは両手でシッシッ、と犬でも払う仕草をしてみせた。彼は番犬よろしく、生徒を追い払ってほくそ笑むのが趣味らしい。
ウルトはみんなに解散だ、と手をふった。
「あの扉は五.五階という階につながっているんです。図書室や談話室のほかに、広い浴室もあって、プライベートな時間はそこで過ごすことができますわ。扉を開けてすぐ右の階段をのぼれば、時計塔があります。天文学の課題をするときは、時計塔からの見晴らしがおすすめなんですよ」
そういって、フェイメルはアリアといっしょに五階の女子寮へ消えていった。
シキは、フェイメルが見えなくなっても投げキッスをやめないウルトを引っぱって、上階の男子寮へ向かうことにした。
七階は教員用のスペースとなっていて、生徒の出入りは硬く禁じられている。さらに、八階は教員の寮、九階は校長室がある、とウルトは得意げに語ってみせた。
これが本校舎と呼ばれる塔で、ほかにも闘技場、旧闘技場などの建物が敷地内に存在するそうだ。
夕食を終えたあと、ウルトについてふたたび五階と六階のあいだの踊り場――赤い扉の前へとやってきた。するとどうだろう、扉の前には無人の椅子だけが置かれていて、あのはげた小男、モリスの姿はない。
「この時間ならきょうの仕事はおしまいだからな。あいつ、見張りが唯一の趣味とか、マジ性格わりーべや」
ウルトのぼやきは全校生徒のぼやきを代表したに違いなかった。
扉の中へと進むと、そこは、どうして踊り場にこんな空間が、と思わせる、天井の高い大広間が存在した。男子も女子も、多くの生徒がそれぞれが自由な時間をすごしている。
通路から見て左手には書架が何列も整然と並び、そばに一人掛け用の机と椅子、数人用の長机があって、読書家の生徒たちばかりが集まっているのか、ひと言もしゃべってはならぬ雰囲気がただよっていた。
シキはふと、その椅子のひとつに、読書にふけるユーリの姿を見つけた。
ウルトは図書スペースを素通りして、さらに奥へと進んでゆく。
「寮にも風呂場はあるけどさ、こっちの大浴場に入ったり、好きに話したり、ま、一部のガリ勉とかは勉強したりするけど……消灯時間まで一年から三年、いろんな生徒が集まってんだ」
やがて、まばゆい電灯のもとで、賑やかな声が響いてきた。大きな机を囲んだソファに腰掛ける同じクラスの男子生徒が十数名。
「こっち座れよ」
そのなかのひとりが言った。
シキに対する今朝の反応はとても冷ややかだったというのに、いまはその容姿にすっかり慣れたのか、全員があたたかく迎えてくれる。
「なぁなぁ、東国のこと聞かせてくれよ、一度も行ったことないから、どんな感じ?」
「おれもおれも」
北国にはない植物や動物、魔物の話、武勇伝や活劇のような胸躍るものはひとつもない。しかし、それでも北国出身のクラスメイトたちにとっては、どれも未知の物語だった。
みながみな、前のめりになってシキの話に夢中になっていた。
シキらが盛り上がるなか、ほかのクラスの生徒や上級生はひそひそとささやきあっている。
だが、それを意識的に聞かないようにするのは簡単でも、チクチク刺さる視線を避けるのは、けっして容易いことではなかった。
――こうして夜は更けてゆく。
「そろそろ消灯時間だ」
だれかの声が、どこからか聞こえた。
二十三時ちょうどの消灯時間にあわせて、多くの生徒が立ち上がり、ぞろぞろと歩き出した。
「あれ、シキも帰ろうぜ?」
ソファに座ったまま動かないシキに、ウルトは目をぱちくりさせて立ち止まった。
「すぐ行くから、先に戻っててくれる?」
シキにはやるべきことが残っていた。もちろん、それを早く思い出していれば、二人と一緒に部屋へ戻れたのだが、いまさら詮ないことだと自分に言い聞かせ、笑顔でごまかしてみる。
「もうすぐ消灯時間や。おまえのせいで俺まで怒られんのはごめんやねんけど」
「まあまあユーリ、そう邪険にいうなってーの。わぁった、じゃ、すぐ来いよ、シキ!」
ユーリのイライラした視線がつんとそっぽを向いてから、シキは手を上げてウルトを見送った。
――『今夜一人で時計塔のてっぺんまで行ってごらんなさい』
やがて五.五階は先ほどまでの賑わいなど遠い過去のように、しんと静まり返っている。
キリクの言葉を胸に、シキはひとりきりでフェイメルに教えてもらった階段を全速力で駆けのぼった。
例の元貴族ゴースト、ファット卿が「消灯時間!」と制止するのも気にせずに、時計塔を目指す。
階段を一段のぼるたびに、ひんやりとした夜気が、身体にヒリヒリとまとわりつき、呼吸をするたびに肺が凍ってしまいそうだった。
やっとのことでのぼりきったとき、身を切るほどの冷たい風が、ひょう、と不意をついて髪を巻きあげ、通り抜けていった。
思わず体を抱きしめた。外の世界は相変わらず真冬のそれだ。
時計塔は、縦長の開口部が四方すべてくり抜かれていて、石造りの、それもあまり手入れのされていない、古ぼけた印象の塔だった。ところが、くり抜かれた壁の穴から見おろす景色は、きわめて驚くものだった。感嘆が白い息となって、すっと夜に溶け込んでいく。
学校の広大な敷地は白い壁でぐるりと囲まれ、壁の向こう側にはさまざまな建築物の群像が広がっている。
シキの目に映るかぎり、施設や邸宅はとても立派で規則正しく立ち並んでいて、最初に見た、あの寂れた光景とはまったく違った。
見上げれば薄く夜空を覆う雲。その雲の切れ間から大小二つの丸い月が見えた。双子の月だ。それだけは東国で見たものと同じで、なぜか妙にほっとした。
ふと、片方の月にちいさな点が見えて、目を凝らしていると点はどんどん大きくなり、それが両翼をはばたかせる鳥だと気づいたのは、急降下し、シキの目の前で止まってからだった。
東国の魔物、夜狩鷹にたいへんよく似た優美な姿。唯一の違いは、その魔物が艶やかな薄青の羽毛できらめいているところだ。
巨大な鳥は二度ほど羽を打ち、すいーっと開口部のへりに降り立った。
あっけにとられるシキをガラス玉みたいな目で見つめ、
「シキ」
さえずるように、しゃべった。
「数日ぶりだな」
「えっ……?」
鳥は首をぐい、と伸ばしてシキの頬に大きな頭部をすりよせる。
「その声……リュゼ?」
「ああ、そうだ。シキの友の、ね」
「え……? どうして鳥の姿なの?」
驚くばかりのシキは目を何度もぱちぱち瞬いて、巨躯の狼から鳥の姿に変身して現れた友を見た。
「うん、おれは――まあ、変身できる動物なんだ。いまは詳しく言ってやれないが、いつかシキに話すから、そのとき聞いてくれないか?」
穏やかに語る友へ、シキは首肯してみせた。
「学校では許可された魔獣以外は敷地に入れない。しばらく会えないが、困ったときはパーシヴァル卿を頼るんだぞ」
これにも、シキは首を縦に振る。鳥の姿になったリュゼは、瞬膜をパチリとまたたかせ、目を細めた。
「シキが元気そうで本当によかった……さあ、もう行かなきゃな」
「えっ、もう?」
リュゼの言葉に心臓がひとつ鳴った。
もう少しだけ、一緒にいたい――。
「そうだ、僕、リュゼ以外にも友達ができたんだよ」そういって、ほほえんでみせる。
リュゼは嬉しそうにくくる、と目を細めて鳴いた。鳴くだけで返事はない。これ以上引き伸ばすことは、できなかった。
しょんぼり肩を落とす友を見かねたのか、リュゼは鋭いくちばしをうまく使って、シキのほほをやさしくなでた。
「いつもみている」
大きな翼を広げ、リュゼはふたたび夜へと舞い戻ってしまった。
その姿が闇にまぎれて見えなくなるまで、シキは時計塔のてっぺんで、漆黒の髪を夜風に揺らした。
そこに突然、塔の屋根から細く柔らかな女性の声が降ってきた。
「……消灯時間から十三分過ぎているわ」
はっと我に返って消灯時間のことを思い出し、姿の見えない親切な女性に礼を告げて、全速力で塔の階段を駆けおりた。
十三分もオーバーしている!
授業の合い間にアリアから、「規則を破った者にはおそろしいペナルティー」があると聞き、想像を膨らませて背筋が凍りついた。
はりつけにされるんだろうか、逆さに吊るされるんだろうか――。
そんなとき、シキの胸ポケットから淡い光があふれだした。慌てて胸元に手を入れると、正体は今朝キリクからもらった小瓶であった。
「そうだ、時計塔から戻るとき、ふたを――」
――回す。
そこから小さな光がぴゅんと飛び出し、シキの周囲をふわりふわり旋回し始める。
それは、シキを誘うようにゆらゆら動き、サービスと言わんばかりにくるりと宙返りをうつ。
目を凝らすと、光の正体は丸く薄い四枚羽が背中から生えた、とてもとても小さなひと――少年だ。
「妖精……!」
かつて父から読み聞かせてもらった絵本に登場した妖精そっくりのちいさな人。まさかこの世に存在するなんて。
「ついてこいってこと?」
光は来たみちとは別の階段や通路を通り、ぐんぐん進んでゆく。シキが途中で転ぶのも気にせず、瓶から解放されたそれは矢のように飛んだ。
直角に折れたところで、シキはつんのめるように廊下に転がった。顔をあげた先は、見知った扉。五階男子寮の扉だ。
「613……!」
勢いよく扉が開き、すぐさま部屋へと転がり込む。胸骨を無遠慮にがんがん叩く心臓が落ち着くまで、胸を押さえて喘ぐほかなかった。そうして、扉にもたれて呼吸を整えていると、ふっと影が落ちた。
「大丈夫だったか、シキ? ここまでだれとも会わなかったのかよ? すげえなぁ!」
「う……う、ん……」
潤むまなこで見上げると、ウルトのあ然とした顔があった。
「ゴーストのおっさんに見つからないなんて、奇跡だぜ!」
そういわれてはじめて、監視役のファット卿がいないことは本当に奇跡だと思えた。いや、この距離を見回りをしている教師のだれとも会わなかったことのほうが、奇跡に違いない。
「オレなんてすぐにばれて即ペナルティ! 『もう二度と女子寮には近づきません』って、全校集会のとき大講堂の壇上でいわされたんだぜ。もうこりごりだなぁ、オレはさあ」
それは自業自得や、と冷たい声が飛んできて、ウルトが恨めしい視線をユーリへと投げつけた。
「で、シキは何してたのよ?」
「……ちょっとね。友達と会ってて……動物だから……学校のなかでは会えないから」
へえ、と目を丸めるウルトの横で、ユーリがちらりと探るような視線をよこしてきた。
やっと落ち着いたシキは自分のベッドにどっと倒れ伏した。
充実感と疲労が一気に体を襲う。それでも、心地良さがシキを満たしていることには違いなかった。
あの小瓶の妖精のおかげで、だれにも見つからずに部屋までたどり着けたんだ――。
手に握ったままの小瓶は空のままで、それをぼんやり眺めながら考える。
おそらく、あいつは自由を掴んで、どこかの廊下をビュンビュン飛んでいることだろう。
「自由になったのかな……」
そうつぶやいて目を閉じた直後、意識は沈んだ。
リュゼとの再会から、一週間が瞬く間に過ぎ去った。