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ふたたび出逢う


 *


 地下牢に閉じ込められてどれくらいの月日が経っただろう。一ヶ月、二ヶ月、もっとだろうか。では、両の目から光が失われて、どれだけの時間が過ぎていったのか。一週間か、二週間か。

 とはいえ、シキは考えることをとっくに手放している。だからきょうが何月何日かわからずとも、さしたる支障はなかった。

 一日一回の尋問はほとんど機械的で、あっさりといってもいいくらい手短だった。もしかすると、すでに首をふる力さえ失っているから、尋問を担当する側――リジルも諦めているのだろう。そんなふうに、シキは思っていた。


 いつやってくるともしれない死神を待っていた、ある日のこと。

 兵士の足音がちらちらと聞こえ始めた頃――つまり、夜が明けたばかりの朝方――、そこで不思議な気配においが、突としてわいて出た。驚くほど濃厚な気配だった。森の奥深くで一夜を明かしたとき、そこでおこした火の匂いとも、またはその夜陰にまぎれて忍び寄る獣の臭いにも感じる。

 懐かしいような、初めての匂いのような。

 コツ、と靴が石畳を叩く音を聴いた。すぐ目の前である。

「黒竜王、お迎えにあがりました」

 若々しい男の声。芯の強さを感じさせる、迷いのない声だった。

 本当に死神だろうか、と思ったまさにそのとき。椅子にまわされた手の拘束具が、砂のようにサラサラとほどけていった。

 自由になった両腕が、ぎこちなくだらりと床に向く。

 あなたはだれ? と尋ねたくて、無駄だと知りつつも口周りの筋肉に力を込め――すぐにそれを放棄した。案の定、無駄だったからだ。

 首を垂れたまま動かないでいると、腕をぐいと引っ張られ、身体が軽々浮かび上がる。青年の肩に担がれているのだとは、すぐには理解できなかった。

「帝王のもとへお連れいたします」

 筋肉量が多くも、磨きぬかれてひきしまった体躯。感触からして皮製の上着に身を包んでいる。

 シキは彼の姿はもちろん、どんな顔立ちなのか想像もできなかったが、一本芯の通ったような物言いはだれかに似ていると思った。

 記憶をさらっていると、また彼が口を開く。

「偉大なる宰相リュシフュージェさまのためにも、かようなところでたおれてはなりません」

 ここで天啓が降りた。


 そっか、リュゼにちょっとだけ、似てるんだ――。



 北国国軍本部のけたたましい警報が耳をつんざいた。地下からの爆発は三階建ての基地より高く煙を吐き出し、石灰の雨を降らせている。

 焼け焦げたような煙の臭いはすさまじく、上空を移動するシキの鼻にも否応なく襲いかかってきた。顔をしかめたかったけれど、表情筋は完全に沈黙している。

 青年は背後を一顧だにすることなく、肩甲骨のあたりにある翼で早朝の風を切り、国軍本部基地からあっという間に離脱した。


 シキが地上を踏みしめたのは、地下牢から助け出されてほんの数分後。

 裸足が石の床以外のものに触れたのは、いつぶりだろう。しかし雪の絨毯の上にいるのだと気づくまでに、ずいぶんと時間が必要だった。キンと冷えた地下牢にいたせいで、からだの感覚がすっかり狂っていた。

 柔らかいのか、硬いのか、冷たいのか、痛いのかすらわからない。だから、「雪が深いので、足元にお気をつけて」と青年に声をかけられるまで、ここが雪の上だとは気付かなかった。

 身体を支えてくれていた腕が離れると、上体がぐらっと傾く。そのまま雪の上に突っ伏した。しかし体は石像に変えられてしまったみたいにぴくりともしない。

 ゆるむ、ということを体が忘れてしまったのだろうか。

「もうじき帝王がいらっしゃる――」

 頭の近くに立っていた青年が言いさしたとき、突然、懐かしい声が降ってきた。

「よくやってくれました、バルバス」

 さくっと雪を踏みしめる音。

「ルキフェル様、なんと勿体なきお言葉……! ああ、ではおれは失礼いたします。人間どもが向かってくる前に、お早く――」

 バルバスと呼ばれた青年は地を強く蹴りあげ、ひとつ翼を打つと、気配が忽然こつぜんと消えた。

 すると、うつ伏せの体をすくい上げるように、シキの上半身が抱き起こされた。ガチガチに固まった体が仰向けになる。その気配においに、はっとした。

 目は見えずとも、まだ感覚が生きていた。とても、とても懐かしい匂いだった。

「シキ……! 聞こえますか?」

 はるか昔に聞いたかのような、懐かしい声。それは、キリク先生の声だった。


 *


 シキを支えるキリクの手は、震えていた。

「なんということを……!」

 取り乱してはいけないと、おのれを強く戒めていたのに、声まで同じように震えてしまった。

 キリクはそのままシキを抱き寄せ、その胸にやさしくうずめる。ずっと同じ体勢だったためだろう、体は彫像のように硬く、なにより、屍人しびとの体のように冷たかった。

「竜王も睡眠が摂れなければ、衰弱してゆくのです」

 キリクは抱きしめる腕に、ほんのわずか、力を込める。骨のきしむ音が胸に突き刺さってきた。

「こんなに痩せてしまって」

 喉の奥から声を絞り出して、抱擁をといた。

 細くなった腕、骨ばった背中、やつれた頬。

 なにもかもが、痛々しかった。

 シキの胸に触れるか触れないかの距離で手のひらを向けて、そうっと力を注ぐ。あまり多くなってはならない。たとえ同質の炎だとしても、悪魔と竜王は異なる存在なのだから。


 *


 そこで突然、シキは盲目した両眼に光を感じた。黒以外のものはないはずだった。が、確かに光を感じる。

 まぶたを持ち上げると、まぶしさに思わず目を細めた。北国の空はいつだって曇天だが、暗闇の中にいたシキにとって、まさに晴天の輝きのように感じられた。

 ゆっくりと目を開く。見渡すかぎりの雪原には、木々の類はほとんどなく、はるか遠くにぽつん、ぽつんと民家らしき建物が見えた。

 あれほど苦しめられためまいも吐き気も、いまはない。世界は明るく、ただただ、静かだった。

 顔をあげて、やっと目の前のキリクを見る。ひとつにくくったキャラメル色の髪に、穏やかな空の色の目はかつてのまま……そのはずだが、驚くものを目の当たりにした。

「……え?」

 シキが大きく目を見開くと、キリクも同じようにきょとんとする。

「どうかしましたか?」

「先生……? どうして、泣いてるんですか……?」

 えっ、とキリクが驚いたように自分の頬に手を触れた。

 ゆっくりと頬を伝って流れていくそれを指先でぬぐい、キリクはややしばらくそれを不思議そうに見つめたあと、ぽつりと言った。

「どうして、涙が出ているんでしょうね……」

 何度かまたたいて、伏せた青い目を上げたときにはもう、キリクの目に涙はなかった。その代わり、細められた双眸には憂いのような、気遣わしげな色が混じっている。

「つらかったでしょう、私がついていながら、あんな結果にさせてしまうなんて……」

「……キリク先生」

「どうか、許してください」

 許してください。その言葉は真実を知ったあの日から、シキが繰り返してきたものだった。

 それは僕がいうべき言葉だ。僕がいわなければならない言葉だ。

 そのとき、キリクがシキの右手をとった。ゆっくりと、指を一本、また一本と開かせてくれる。手のひらには、爪が食い込んだどす黒いうっ血の痕がまざまざと刻まれている。すべての指を開ききると、いままで握られていたものが露わになった。手のひらにあったのは、金の指輪リング

 シキが牢獄に囚われたときから、ずっとずっと握りつづけてきたもの。使役獣のいない、空っぽの指輪。

 内側に北国の文字で「リュゼ」と彫られた、金色の指輪――。

 これまでの記憶が高波のように一気に押し寄せる。父と過ごした日々、リュゼと共に旅をし、キリク先生と出会い、学校で友人たちと語らい、最後に僕は多くの人を殺した……。

 目じりから、目頭から、洪水のように感情がせきを切ってあふれだす。

「先生……!」

 キリクの暗灰色のローブにしがみつき、シキは声をあげて泣いた。

「キリク先生……僕は……僕が、たくさんの人を……!」

 背に、腕が回される。

 三度みたび、キリクはシキを抱きしめた。

 シキの想いをあますことがないように、強く、強く――。



 どれだけの時間泣いていただろう。もしかすると、数分だったかもしれない。それでも、頬に流れた涙の跡は、もう乾ききっていた。

 ただ、泣いていたあいだは、ずっとキリク先生のぬくもりだけがあったのを、覚えている。


「シキ」


 やや経って、干からびたスポンジが水をふくんで急速によみがえるように、キリクの声が脳にしみわたった。

 おだやかな声だった。

「たとえ多くの人から恨まれ、憎まれ、恐れられていたとしても、共に過ごしてきた者たちはシキを信じて待っています。だから、自分の存在を軽んじてはいけません。たとえ悔やんでも、許せなかったとしても」

 一度言葉を切って、キリクはゆっくりと言葉を継いだ。

「リュゼは、なによりも大切なものに出会って、その命を懸けたのです。それは、リュゼだけではない……あいつも……シキの、父上も。だから、けして自分の命を無駄にしてはいけません。シキにできることをするのです」

 腕をほどいたキリクと向かい合うかたちで、シキは小さくうなずいた。

「シキ、よく聞いてください。私たちが対峙しなければならない敵は、北国国軍の提督、ソーナ・ペンドラゴンです」

「ペンドラゴン……軍の指揮官の、あの人が……?」

「その実態は、私と同族……悪魔です。シキに毒を撃ち、それを利用してシキに多くの人間を……攻撃させた……」

「でも、国軍の提督がどうやって僕に毒なんか……?」

 ペンドラゴンと会ったのは、国軍の地下牢が初めてだった。

 キリクはそれに答えようとはしなかった。

「いまにペンドラゴンは血眼になってシキを探すはずです」

 シキの脳裏に、地下牢の記憶がよみがえる。また囚われれば、今度こそ死が目の前にやって来る気がした。

「私の力を注いだので、ほんのちょっとは回復できたでしょうが、全快ではありませんね?」

 たぶん、とうなずいたシキのこめかみには、確かに鈍痛が残っている。心なしか、からだも気だるい。

「少量の毒ならばすぐに薄まっていくものですが……専門家ではない私には、竜王の処置の方法がわかりません」

 キリクがシキの両腕を優しく掴んだ。

「ここは第二セクターの外れです。しばらく、身を潜めなさい」

「身を潜める?」

「そう、万が一軍に見つかったときは、抵抗せず軍本部へ戻るのです」

「先生……僕は学校に戻れないんですか?」

「まだ、戻ることはできません。けれど、シキの帰りを待っている者がたくさんいます。どうかそのことを忘れないで下さい。必ず、必ず迎えに行きます」

 キリクは寂しそうに薄くほほえんだ。すぐに表情を改め、すっと視線を空に向けるとまたシキに向き直る。

「もう行かなければ……軍から追跡用の魔獣が放たれたようです。気配がこちらに向かっている。私はいま、軍から厳しい監視を受けているので、あまり長くは誤魔化せません。シキ、いいですね、できるだけからだを休めなさい」

「キリク先生、僕はどこに隠れれば……どこに行けばいいんですか?」

「……歩けるところまで。そうすれば、必ず出会えるはずです」

「だれと?」

 キリクはそれにも答えない。そのかわり、とびきり上品な微笑を刻んでこう言った。

「必ず、迎えに行きます」

 シキがうなずいたと同時に、キリクの姿はこつぜんと消えた。

 魔法で移動したのはいうまでもない。

 シキはくちびるをぐっと引き結び、足に力を込めて立ち上がった。

 もう泣いてうずくまることも、絶望して立ちすくむことも許されない。

 立ち止まらず、前に進むんだ。

 まず身を潜めなければ。

 ふと足元を見ると、ブーツが置いてあった。内側が羊毛で覆われた暖かそうなブーツ。その隣には、厚手のコート。それらを手に取って思わず笑みがこぼれた。

 キリクはいつだって紳士的な配慮を忘れない。

 シキは右手の中指に、金色の指輪を通した。

 まだ重たいからだを奮い立たせて、雪原を歩き出す。


 もう、死神の気配はなくなっていた。




 吹雪の音が、遠雷のように耳に響いた。吹き止まぬ音を真綿のような雪の上に横たわって聞きながら、シキは意識が薄れていくのを感じていた。

 身体が動かない。

 手足が冷たい。

 寒い。

 そのとき、ばう、ばう、ばう、と犬の野太い鳴き声を聴いた。

 とても大きな犬だろうか。鳴き声はどんどん近づいてくるようだった。

――食べ物だと間違われたらどうしよう。

 けたたましいはずの鳴き声が、だんだん子守唄のように聞こえてきた。そこに、男の声が混じる。

「ああ、くそ! うるっせえなぁ、黙れ犬っころ!」

 ばたん、と扉の開く音がシキのすぐそばで聞こえ、吠えまくっていた犬は驚いたのか、ぴたりと鳴きやんだ。

「おっ……でかいな、お前……」

 声がわずかに怯んだ。

「……言っとくけどな、ここには何もねえぞ」

 ばう、と犬が吠えた。

「おい、だから吠えなさんな」

 ばう、ともう一度。

「ん? なんだ、なに見て吠えて……げえっ!」

 ぐにゃっ、と音がしたかと思ったが、思っただけだった。

 シキは腕を踏まれて雪にめり込んだ。もともと埋もれかかっていたから、なお埋もれた格好になる。

 シキを踏みつけた男は驚いて飛び上がり、どすんと派手な音をたてて尻餅をついたようだった。

 ごうごうと吹き荒れる雪の音だけが、そこにあった。

 首筋に男の指が触れた。おそらく、脈を採っているのだろう。

 すぐに指が外れる。

「……こりゃぁ、まいったね。おい、お前も手伝えよ!」

 男の声と、ばうっと返事を聞いたのを最後に、シキの意識はぷつりと途切れた。



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