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精霊たち

 声の主を捜してシキが視点をさまよわせていると、もう一度、頭の中に美声が沁みた。

(こちらでございます)

 直感を信じて青い髪の美少女に目を向ける。そこには、朝焼けの海面に宝石を撒いたような、輝く微笑が待っていた。

――きみが、しゃべったの?

 美少女が目を細めて首肯する。

(いままで一度だって竜王からご挨拶をされたことがありませんでしたので、とても、その……ほんとうに、とてもびっくりしてしまって)

 ごめんあそばせ、とドレスのすそを指先でつまみ上げ、彼女ははにかみ笑いを浮かべた。

(わたくし、水の精霊(アンダイン)と申します)

――アンダイン?

(そのようにお呼びくださいませ)

――驚かせてごめんね、僕はシキ……きみには、黒竜王って名乗ったほうがいいのかな?

(まあ。黒竜王のほかに呼称がおありだなんて……ほんとうに、不思議な竜王……)

――僕がこうやって、心の中で話しかけていること、アンダインには聞こえるんだね?

(もちろんでございます。けれどそれは黒竜王のみが許される御業みわざ。精霊の契約者あるじ以外の人間には、わたくしどもの声はおろか、姿だってほとんど見えませんもの)

――へえ、精霊学を選択してないから、ぜんぜん知らなかったよ。

(セイレイガク?)

――そう、きみたちのことを勉強する学問。

 水の精霊は訝しげに眉を寄せた。

(……黒竜王は、わたくしたち精霊のことを、ご存知ではないのですか? まだ王城へ降り立っておられない?)

――よくわからないけど、たぶん、そう。

 アンダインが不憫なものを見るように、眉を下げた。

――でも、リジルから……きみの主から、精霊のことを教えてもらったんだ。複数の精霊と契約してる人をフレアマスターって呼ぶって話も。きみたち精霊はとっても優秀だって、リジルがいってたよ。

 目を丸めたままのアンダインの頬が、ぱっとバラ色に染まる。コロコロ変わる表情が、なんとも愛くるしかった。

 彼女は羽をひとつ打って、あるじに何事かを耳打ちした。それを聞いて、リジルの顔色がみるみる剣呑になっていく。

「……なぜ黒竜王がフレアマスターのことをご存知なのでしょうか? 黒竜王の前で口にした覚えはありませんが」

 静かな怒りを感じ取って、あわてふためく水の精霊は主と黒竜王を何度も見比べている。

――きみの主は、僕のことを覚えてないんだ。まえは友達……だったんだけど。

 アンダインはどうするべきか判断に迷っているのだろう、右へ左へふわふわ漂い、しばらくそうしたあと、リジルの耳元へそっと手をやった。

 と、その瞬間、リジルが瞠目した。シキを愕然とした表情で見やり、血の気がひいたくちびるを強く引き結ぶ。

「行くぞ、オーグ少尉」

「はっ?」

「アンダイン、扉に鍵を」

(……はい、マスター)

 わけがわからず狼狽するオーグ少尉を引き連れ、リジルは階段を上ってゆく。

 悲しそうにうつむく水の精霊は、主の命令どおり、青い光を鍵穴に飛ばした。ガチン、と鍵のかかる音が、石牢に虚しくこだまする。一度だけ肩越しにふり返ったそのまなざしは、やはり悲しげだった。


 事態の急変は、それからすぐのことだった。


 いつものように、シキがぼんやりと自分の裸足を眺めていたとき、なんの前触れもなくいきなり鎧姿の兵士たちが地下牢になだれ込んできたのだ。

 普段はリジルとオーグ少尉、甲冑姿の二人組しかシキの前には現れないというのに、どうしたことだろう。それに、日に二度も兵士がやって来るなど、滅多なことではない。

 シキは鉄靴てっかの音を、なんとなく数えてみた。十人はくだらないのではないか。そこに鉄靴とは別の足音がひとつ、混じっていた。

 石牢の周囲を埋めつくす兵士たちのあいだをするりと抜け、白いローブに身を包んだ人物が、最前列に割って出た。

 豊かな長髪を襟足でゆるく結び、たっぷりとたくわえたひげは髪と同様、白いものがかなり多かった。その初老の男は目を伏せたまま、しずしずと胸に手をあてる。

「トリスタン殿! 時間はないのだ、さっさと――」

「お静かになさい、ファクロー中将。陛下の御前です」

 甲冑の兵士たちのうしろから、ぐぬっとうめき声が聞こえた。

 男はローブにしわができぬよう、きちんと膝裏に手を滑らせて両ひざを折り、それから指を揃えて冷たい石畳にぬかづいた。

「黒竜王、閣下の命により参りました、国軍付き上級精霊使いの、アーサント・トリスタンと申します……」

 彼は叩頭したまま、穏やかな口調でそう名乗った。


 トリスタン――ああ、リジルの苗字と同じ……。そういえば、前にリジルがお父さんも軍で働いていて、上級精霊使いだって言ってたっけ。きっとこの人がそうなんだ……。


 アーサントはしばしその姿勢のまま、押し黙っていた。沈黙を破ったのは、コンコンコンコンと、革靴を床に打ちつける音。どうやら誰かの苛立ちがピークに達しているらしい。

 そこでアーサントがおもむろに立ち上がった。

「……黒竜王が虐殺の真相を明かさぬうえに、北国をさらに劣悪な環境へと追いやっている。そう、閣下はたいへん立腹しておいでです。黒竜王は首を横にふるばかり、と。そこでわたくしが遣わされました……竜王には魔法、魔術のたぐいは通用いたしません。しかし精霊はすべての生命に干渉する力があります。わたくしと契約する精霊――時間と記憶を司る精霊が、閉ざされた記憶を黒竜王自身にお視せいたします」

 アーサントはくちびるを動かさないように、口の中だけで「どうかお許しを」と苦々しくつぶやいた。それは、五感の優れた黒竜王だけに向けて。

 すぐさま二本の指で砂時計のような形を宙に描きあげると、彼の手元にまばゆい光が散った。その光に誘われ、わずかに首をもたげたシキははっと息をのむ。

 金色の光がキラキラと舞う中心に、背中に蝶の羽をもった小さなひと――精霊が現れた。波打つ金の髪、長くて豊かなまつげ、艶めく真紅のくちびる。金色の瞳に見つめられるだけで、身動きが取れない気分になった。

 すっかり心を奪われていたシキは、彼女がいつの間に鉄格子を越えてきたかわからなかった。美しい顔立ちが、間近にある。

(あなたさまが竜王……)

 金管の音色のような、透きとおる声が頭の中に奏でられた。しかしその声は少し悲しげだ。

(黒竜王の血はすべての傷を癒す力をおもちですわ。しかし、古き竜王の血は現竜王にとっては猛毒)

――毒?

(ええ、黒竜王、あなたさまは毒の影響で記憶が閉ざされてしまっているのです……)

 精霊は燐光を散らしてシキに寄ると、額にやわらかなキスを落とした。ほのかに蜜の香りがする。

 刹那。目もくらむ閃光が視界いっぱいに広がった。



 光がぱちんと弾けて消えたとき、シキは学校の屋上から宙へ飛んでいた。

 これは、記憶だ。

 あの日の、記憶。

 屋上の扶壁ふへきから足が離れた瞬間には、奇妙な解放感を味わっていた。体は、浮いて歩いているかのようにとても軽く、それでいて思いのままに動くのだ。しかし、全身が熱い。燃えるように、熱い。血液が沸騰しているのではないかと思った。

 そしてやはりなにかが妙だった。なにか違和感がある。なにか、異物が血液中をすさまじい速さで巡っているような……。

――殺せ。

 突として、恐るべき言葉が頭の中に響いた。頭の中で問いかける。

 なにを?

――じゃまなもの、ぜんぶを、だ。

 なぜ?

――力を示すためだ。

 どうしてそんなことを?

――黒竜王がこの国の頂点たる存在だと、知らしめるためさ。

 きみは、だれ?

――知っているだろう、おれはおまえだ。

 僕はもう、竜王の力にのみ込まれたりなんかしない。

――そう、おまえは理性で本能を抑え込むことができる。

 だったら、どうしてきみがここにいる?

――おれが出てくるように、仕組まれたのさ。

 だれに?

――さあ? 黒竜王が殺戮さつりくに興じるところを見たい、だれか、だろう。

 僕はだれにも死んでほしくなんかない。

――いいや、本質は冷酷で無慈悲でしかない。

 ちがう、僕は父さんから優しくあれと教わった。

――父さん、おとうさん。そう、おまえはそのおとうさんに、いいように利用されただけだ。

 ちがう、父さんはそんなことしない。

――いいや、鳥の雛を育てるようにお前を育てたのさ。……そら、“刷り込み”というやつだ。本当はわかっているだろう? 

 ちがう! 父さんは僕を自分の本当の子どものように育ててくれたんだ!

――そう信じたいだけだろう?

 ちがう!

――哀れだな。

 黙れ、もう僕のまえに出てくるな!


 その刹那、終わりを告げる一言が耳朶の奥、脳髄に響き渡る。それは自分の、シキ自身の声だった。


――残念だったな。今回は、理性おまえ本能おれに勝てない。もう手遅れだ……はすでに、まわっている。


 学校の外にグールが迫っていた。敷地をぐるりと囲う壁の正面入り口、門柱の間に架かる、ひしゃげた鉄柵。教員のだれかが、悪魔や魔獣の侵入を防ぐために、ふだんは開け放している門を閉ざしたのかもしれない。

 助けを求めてやって来る第一セクターの人々。彼らの背後に迫るのは、腐ったからだの凶悪な魔獣グール。上から見下ろすと、やつらは豆粒みたいに小さくて、まったく気味が悪いとも怖いとも感じない。だから、迷いなく上顎じょうがく下顎かがくを開けた。咽喉のどの奥から高熱がこみ上げてくる。火炎をグールに向けて吐き出すと、一瞬でそれらは消えてなくなった。いや、火柱のようなうず高い炎の壁が、はるか遠くまで延びている。それにのみ込まれたのだ。赤い壁をはるか遠くまで築いたような、あまり現実味のない不思議な光景だ。

 門柱も、柵も、学校を囲む白壁の一部も、それにのみ込まれている。

 炎を吐き出す直前、赤ん坊の泣き声を聞いた気がした。いや、まちがいなく、泣き声を聞いた。なにより、その眼で見ていたのだ。すべてを、俯瞰で。

 赤ん坊を抱える母親。走るのをやめてぼう然と見上げる男性。群衆から置いていかれたのだろう、倒れてうめく老人。

 彼らのほとんどが、赤色にのみ込まれた。

 全身が鉛のように重くなった。めまいが起こり、胃がよじれる。空を飛んでいるのか地面に立っているのかさえわからない。

 頭が割れんばかりに痛んだ。

 ああ、そんな……僕は、助けたかっただけなのに――。

 僕が、助けを求めていたあの人たちを、グールごと、殺したのか――。

 そして、もっともっと、多くの人を――。


 全身が熱い。燃えるように熱い。

 まるで、地獄の業火に焼かれている気分だ――。



 パチン、と何かの切れる音が頭の中で鳴った。

 視界が黒に染まる。

 目を開けているはずなのに、何ひとつ目に映らない。黒以外のものが映らない。

(黒竜王、あなたさまは血の毒に侵されておいでですわ)

 現実の世界に引き戻され、閉ざされていた残酷な真実がシキのもとに返ってきた。

(いまも、その毒は身体を蝕んでいるのです)

 精霊の声は聞こえるのに、頭に入っていこうとしない。その姿さえ、もう見ることが叶わなくなっていた。両目はすべてを闇に変え、シキから光を奪っていった。そこから何かがしたたり落ちる。

 涙だった。

「――っ、ああっ……」

 かすれた叫び声が、無音の地下牢に響く。

 嗚咽で胸が痛むのか、理不尽に死んでいった人たちを想って胸が痛むのか、それさえわからなかった。シキはあふれる涙を止めるすべを知らない。

 椅子にくくりつけられ、後ろ手を縛られ、極限に体力が削がれていなければ、自分で自分の首を絞めていただろう。

 握った拳に、爪が食い込んだ。


「わたくしは精霊から真実・・を知らされました。精霊とは、嘘のない生き物です」

 アーサントはできるだけ平静であろうと努力しているのか、頬を強張らせていた。

「あの子は記憶を壊され、わが精霊にも取り戻すことができず、お恥ずかしながら、わたくしにはどうすることもできないのです……」

「トリスタン殿! どうだ、もう終わったのか?」

 ファクロー中将のイライラした声が飛んでくる。

「陛下、どうかお許しを……わたくしにはあの恐ろしい男に抗うことができない……たった一人の家族――娘の命がなによりも大切なのでございます!」

 とうとう堰が切れたように声高に叫んで、アーサントは鉄格子に掴みかかった。それにぎょっとした兵士たちが慌てて彼を引きはがし、乱暴に両腕を取ると、地下牢から連れ出してしまった。


 ――どうかお許しを。

 それは、僕がいうべき言葉だ。



 真実を取り戻したシキは、気力をすべて失っていた。

 直後に始まったファクロー中将からの拷問に近い尋問も、なにひとつ感じることはなかった。なにも見えない、真っ暗闇のなかでは、どんな拷問をされてもその暗闇の恐怖に勝るわけがない。

 死神が眼前に現れるのをひたすら待つだけだった。

 地下牢に静寂が訪れるのは夜である。そこへ現れたのは死神ではなく、リントヴルム・トリスタン大佐――リジルであった。彼女の凛としたかおりだけは変わることがない。それが懐かしく、そして辛くもあった。

「……黒竜王」

 彼女の声は困っているようにも聞こえた。

「あの虐殺の事実を認め、提督に従い天候を操作し、おそらく、『ペンドラゴン提督に王位を譲る』とひと言添えれば、このようなこと、もう終わりにできるのですよ」

 彼女は至極平坦に、淡々と述べた。

「昼間に――」

 言葉を切って、くちびるをほんの少し湿らせてから、彼女は仕切り直した。

「……昼間に、わたしの精霊が『提督に記憶を消され、都合よく駒にされている』と、耳打ちしてきました。精霊は秘密ごとを好みますが、嘘をつくことは絶対にありません。そいう存在なのです。黒竜王は以前からわたしを知っていたのですか? わたしに呼びかけた名、『リジル』は亡き母の名です。首には竜騎士に受け継がれる悪魔の呪いが刻まれています。それを知っているのは、魔法学校のキリク・パーシヴァル卿のみ……黒竜王はあの悪魔の男爵のこともご存知なのですね?」

 シキは垂れた首を小さくこくりとやった。

「……『黒竜王がなんらかの理由であの日の記憶を失っているなら、父の精霊の力で取り戻せる。記憶が戻れば、きっと黒竜王も提督に王位をお譲りしやすいでしょう』と、進言したのは、このわたしです」

 リジルが眉間に力を込め、奥歯を噛んだ。

「あなたはなぜ罪なき人々を殺した? あなたは何者だ……。黒竜王は残虐で非道な竜王、悪竜のはずです。なのに、私の部下はそうは思わないといったのです。わたしは、わからない……。黒竜王、こんな状態だというのに、あなたはなぜ、あのときわたしの心配をした? なぜ、笑った(ほほえんだ)のです!」

 リジルは噛みつくように鉄格子を強く握りしめた。理由もわからぬ葛藤が、彼女を焦らせているのだろうか。

 長い沈黙を経て、シキは最後の力をふり絞った。最後になるなら、どうしても言っておきたい。

 せめて、これだけは――。


「……ぼく、リジルの、こ、とが――すきだか、ら」


 きみの前ではいつも笑っていたいんだ――そう二の句を継ぐ前に、のどが潰れた。乾いた咳が数回、それ以上のものは出てこなかった。

 リジルの絶句が、夜のしじまをよりいっそう深める。

 リジルはよろめきながら後退し、地下牢をあとにした。

 シキの耳介に、彼女が去り際につぶやいた言葉がいつまでもこだまする。


 『精霊は、嘘をつかない……』


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