対話
「大佐」
声が、聞こえた。
「このままでは、黒竜王は本当に死んでしまうのでは……?」
声量をぐっと落としてそう話すのは、オーグ少尉だ。地下牢までの階段を、ゆっくりとふたつの足音が降りてくる。それが石の壁に反響して、ずいぶん長く尾を引いていた。
また意識を失っていたのか、だれかの声を聞いたのはかなり久しい。日にちの感覚も時間の感覚もとうに麻痺しているから、シキにとって、だれかの話し声が昼と夜を分けるただ一つの方法だった。
――どうせ、夜だからって眠れるわけじゃないけど……。
眠るのではなく、意識を失うのだ。吐き気も時おり思い出したように襲い掛かってくる。
「たとえ毎日血を抜かれているとはいえ、傷はすぐに自己治癒されますし、例の皿の件があったとしてもこの衰弱ぶりは、やはり自分には腑に落ちませ――」
「オーグ」
遮ったのは、リジルだった。特別厳しくもなく、しかし優しくもない口調で彼女はいう。
「お前がなにに疑問をもとうが勝手だが、詮索はするな」
「しかし……!」
「われわれは軍人だ。必然的に上官がいる。わたしは上官の命令に従わねばならないし、お前は上官であるわたしの指示に従う、それだけの話だ」
そのときふいに、リジルが檻のほうへ顔を向けた。
囚われの猛獣は相変わらず椅子にくくりつけられ、まっ直ぐに支えられない首は傾いであらぬ方向を見上げている。
シキは何を見るでもなく、ただまぶたを少し開けているだけの格好で、鉄格子の向こうの会話を右から左へ流していた。吐き気はそこそこ治っているものの、いまだ世界は右へ左へ揺れ動いていた。
「これでは、自分たちのやっていることは、過去の黒竜王となんら変わりないではありませんか」
「オーグ」
なおも食い下がるオーグ少尉に、リジルは抑揚を押さえた声でもう一度呼びかけた。
「提督はお考えあってのことだろう。わたしたちが知るべきことではない」
「しかし……」
「お前の言葉は聞かなかったことにしてやる。まだ軍人でいたいだろう?」
その言葉を最後に、シキの意識はぷっつりと途切れた。
それがほんのちょっとだったのか、または一時間、いや、一日だったのかわからなかったが、ふたたび意識が戻ったときにはすでに彼女の気配がそこにあった。
「哀れだな、黒竜王」
まったく哀れんでいるようには聞こえない声色で、リジルがぽつりといった。
どうやらいまは夜らしく、地下一帯は墓場の静けさが漂っていた。匂いから察するに、リジルは部下のオーグ少尉を連れずに単身この地下牢にやってきたらしい。
チャンスだ、とシキは思った。
ふたりきりになる機会など、ここ最近は一時もなかった。だから、このチャンスを逃すわけにはいかない。
聞きたいことは山ほどある。ここが正念場だ。
――僕のことが嫌いになったの? なぜ名前で呼んでくれなくなったの? きみの気に障ることをしたなら謝るから、理由が知りたいんだ。
下がった首を必死に持ち上げ、まぶたをこじ開け、のどを幾度も叱咤激励し、
「リ……ジル」
声をふりしぼった。
とたんに彼女の顔色が変わる。組んでいた腕をほどき、壁に預けていた背を浮かせた。
「なぜ、その名を――」
言いさして、リジルは言葉を切った。
目を見張って、怪訝に眉を寄せる表情は、いつもの毅然とした彼女にはめずらしい。
『リジル』は偽名だと前に彼女本人から聞いた。それなのに、なんでその名前を知っているんだ? とでも言いたげに目で訴えてくる。
シキは腹とのどにいっそう力を込めた。
「くび……だい、じょう、ぶ……?」
「は……? 首、ですか? ……黒竜王に心配していただく傷は負ってなどいませんが?」
「――そ……。じか……ん、でき、たら……、また――キリク、せんせ……に、みて、もら……て」
かすれた声では、これが精いっぱいだった。知りたいことはもっとほかにあったのに、結局シキが口にしたのは、リジルの身体の心配だった。
話の中身は虫食いだらけ。リジルに伝わるかどうか、甚だ怪しい。
シキは最後になんとか笑顔を作った。笑う努力をしただけ、といったほうが正しいかもしれない。きっとリジルの目には、口を引き伸ばしてちらっと歯が見えるだけの、なんとも情けない表情に映っただろう。汚れたシャツにスラックス、靴も履いていないみすぼらしい姿だから、なおのことだ。
それでも、こうやって笑うだけが、いまのシキには精いっぱいだった。
「……黒竜王、いま、なんとおっしゃいました?」
彼女の問いかけに答える力は残っていなかった。首を必死に支えていた力がいっぺんに抜けて、かくんと落ちる。
シキは自分の裸足をぼんやり見つめて、自問した。
リジルは僕を、忘れてしまったんだろうか?
またしても意識が飛んでいた。
目覚めたときには吐き気がすっかり治まっていたから、かなり長いこと意識を失っていたのかもしれない。
「黒竜王」
聞き慣れた声に、シキはふうっと目を細く開けた。石の床が、ぐらぐら揺れてぼやけながら視界いっぱいに映っている。しかし声の主の顔を確認しなくても、それがオーグ少尉だということはもうわかっていた。
「どうぞこのままお話することを、お許しください」
オーグは腰のあたりで両手を後ろに組んで、直立不動の姿勢のまま深く息を吸った。
「自分はケイ・オーグ、階級は少尉であります。なぜ北国の王たるあなたが、民の命を奪ったのですか? 調べたところ、助けを求めに魔法学校へやってきた市民さえも焼き払ったと……自分には、黒竜王の真意が判りかねます」
オーグ少尉の声には切羽詰まったような、焦燥のようなものが感じられた。地面に首を向けたままのシキには、彼の表情まではうかがい知れない。だが彼の訴えには、シキの胸に迫るものがあった。
オーグもまた、なに一つわからず困惑しているのだ。
その真摯な問いかけに、真摯に応えたいと強く思った。
「……ぼ――」
草木が擦れあうような、ひどく弱々しい音。
「ぼく、が……そん、な、ひど……こと、した、ですか……?」
オーグ少尉がはっと息をのんだのがわかった。彼は全身の筋肉を強張らせ、緊張を無理やり押さえつけるようにして次の言葉を待っている。
「なにも、わか、ない、ん……です……。けど、それが、ほん、と、なら、ぼく……ここに、連れて、こられ、た、意味……わかり……ま、す」
「本当に……本当に、なにも、覚えてらっしゃらないのですか?」
言葉の通じない者へ尋ねるように、彼は一音一音をはっきりと口にした。
シキは小さくうなずき、言葉を継ぐ。
「そ、それ、に……リジ――トリス……タ、大佐が、ど、して……冷たく、な……たかも……わか、ない……です」
えっ、とオーグ少尉は疑問符をつけて、ちょっと驚いた様子だ。
「あの方は……トリスタン大佐はいつもあんな様子でございますが……?」
少尉の口ぶりからすると、彼女の態度は普段どおりらしい。
もともとリジルは男のような口調ではあるけれど、内面はけっしてそうではない。少なからず、シキの前では、リジルはいつだって優しく強い意志をもった女の子で、あんなに冷たい態度を取ったことはなかった。
「なにが……あっ、たの、かな……」
「黒竜王、あなたは――」
「オーグ!」
彼の言葉をさえぎる一喝がとどろいた。石の階段を猛然と駆け降りてくるのは、リジル本人だった。獣の速さでリジルはオーグ少尉の襟をひねり、そのまま彼を鉄格子に叩きつける。
「勝手な真似をするな!」
少尉が小さくうめいた。
「早起きはけっこうだが、貴様、まだ寝ぼけているのか?」
「トリスタン大佐……貴女だって薄々気づいておいでしょう? 上層部の動きがおかしいことを……! それに、本当に黒竜王が自らの意思で市民を虐殺したとは、自分は――」
リジルが掴んでいた襟を放し、腰の軍刀を躊躇なく抜いた。それをオーグ少尉に突きつける。
「貴様もその目で見ただろう、第三セクターの、半分消滅した町を!」
「――っ、ですが、黒竜王はなにも覚えてないと、はっきりおっしゃいました。きっと、この件にはなにか――」
「黙れ」
チャッ、と刃が角度を変える。
「それ以上口を開けば、貴様を悪竜の餌にするぞ」
それきり会話は聞こえなくなった。
意識が飛ぶことにも、だいぶ慣れてしまった。
シキにとって現実はけだるく、すべてが重い。
「竜医師は必要ないと提督はおっしゃっている。それに、一族は百年近くもお払い箱になっているのだから、いまさら治療などできるはずもないだろう」
リジルが深いため息をついた。
「第一、消息もわかっていないしな……ああ、お前たちは先に行っていい」
「はっ」
自分たちよりかなり年若い上官に命じられてなお、鎧の兵士ふたりは迷いなく胸に拳を当てた。すぐに踵を返すと、金属音の尾を引きながら上階へと消えてゆく。
それを見届けたオーグ少尉は、眉のあたりを少しくもらせて、ふだんより控えめに切り出した。
「大佐、大丈夫ですか? あまり眠られていないのでは……」
「平気だ。少し疲れただけだ」
かまうな、とリジルが気だるげにつけ加えた。
「少尉、鍵をかけてわたしたちもさっさと出るぞ」
あっ、と気まずい声があがった。オーグ少尉があわてて軍服のポケットをあちこち触る。
「……申し訳ございません、鍵は部下に任せておりまして……」
「……いや、先に戻らせたのはわたしだ。お前に非はない」
自分の平凡な失敗にやや肩を落としたリジルは、「アンダイン」とつぶやき、人差し指と中指をぴったり合わせて逆さ三角形を宙に描いた。
そのとき。
輪郭のぼやけるふたりを眺めていたシキは、背の低いほうの手もとに、パッと光が散ったのをはっきりと見た。
「悪いが鍵をかけてくれ」
背中に薄い羽が生えた、とても小さな女の子が燐光のなかにいる。しかも、そこだけはなぜかぼやけることも、ゆがむこともなく、彼女の顔立ちさえくっきりと捉えることができた。
水色の羽は透きとおるほどに薄く、青い髪を背中に流した美少女は、前にフェイメルから借りた、『よくわかる精霊白書<絵と記号印の解説付き>』という本で見たことのある姿だった。
たしか、あれは――。
不思議に感じて、リジルに焦点をあわせる。だが、やはりリジルはぼんやりとしか認識できないではないか。そこでまた青い髪の、小さなひとに目を向けた。
彼女のまん丸の目も、長いまつげも、やわらかそうな素材のドレスらしき服も、すべてが鮮明だった。なにより不思議なのは、光のなかにいる彼女を見つめているときだけ、気分の悪さが和らぐことだ。
ぱちっと、彼女と目があった。
――こんにちは。
シキは心のなかで彼女に笑いかけた。
すると、彼女はきょとんとしながら大きな目を何度かまたたいて、すぐに驚いたような顔で口もとへ手をやった。あわてて主の耳元へ飛ぶと、なにごとかを耳打ちしている。
「……わたしの精霊に、なにを吹き込むつもりだ?」
少し棘のある視線と、訝しげな声が飛んできた。
「えっ? なんのことです?」
驚いたように声を上げるオーグ少尉は、リジルから半歩身を引いて不思議そうに見下ろした。
「……いや、なんでもない。こちらの話だ、気にするな」
「はあ」
そんなとき、ガラスのベルがやさしく音を奏でるような、透きとおった声がシキの頭の中に響いた。
(はじめまして、黒竜王)




