リュゼ
頭上からバラバラと降りしきるガラス片の雨。
それをなんとか両腕だけでしのぎ、シキは本校舎の裏庭を全速力で駆けた。
東塔への連絡通路が無事である保証がないいま、このルートが最短距離であり、唯一の選択肢でもあった。
リュゼが木精霊の種から飛び降りたとき、東の見晴らし塔が足下にそびえ立っていた。そう、うっすらと記憶している。
――リュゼとあの悪魔が移動していなければ、おそらく時計塔と東塔のあいだの、どこかにいるはず。
胸が、ざわめく。
――まだ戦闘中だろうか。それとも、あの悪魔を倒してひと息ついている頃だろうか。
あまたの蟲が皮膚の下を這いまわるように、胸の奥は気味の悪い音をたてて、早く、早くとシキを急き立てていた。
全速力で走っているというのに、もっと、もっとと煽っているのは、きっと自分自身に違いない。
肺はいまにも破裂せんばかりに膨張し、のどはかすれ、ゼイゼイ干からびた音が鳴っている。
これが体力的な話ではないことくらい、シキとて理解できていた。だからこそ、気道が焼けるように痛んでも、喘ぐ声も出せないほどに苦しくても、それでも走る速度をゆるめるつもりはなかった。
ふたたび轟く炸裂音。頭上から細かい石があられのように降り注いでくる。
やっと抜け出したかと思うや、今度はモゾモゾうごめく低級悪魔の群がりが、シキの行く手をふさいだ。それを手当たり次第に蹴り飛ばし、一心不乱に校舎のわきをひた走る。
そうやって走り続けていると、ふいに、だれかの叫ぶ声も、何かの爆ぜる音も、ぱったりと聞こえなくなって、シキは自分の耳がついに壊れてしまったのかと不安を覚えた。それほど、あたりはひっそりとしている。
――終わった、のか……?
ふと、早鐘を打ちつづける心臓から「見ろ」と促されるように、シキは視線をもち上げた。
その先には、今まで姿が見えなかった石造りの細長い塔――東塔が不気味に佇立している。
あたりは一面、どこから飛んできたのだろう、大きな石の塊が点々としていた。
人の姿も、魔獣も、悪魔の姿もない。
それは、悪寒を走らせるにはじゅうぶんすぎる、異様な光景だった。
「リュゼ……」
肩で息をしつつ、とうとう歩をゆるめた。
そこは旧闘技場(そのさらに奥には東塔がそびえている)のそばの、ひらけた一角。だがどういうわけか、土埃が舞い上がるかわりに、あたりは血煙がもうもうとたち込めていた。
暗闇のなかを手探りで行くように、ゆっくりと、慎重に歩を進める。
足はすぐに止まった。
赤いもやが薄らいだそこには、ぎくりと全身がこわばるほどの陰惨たる光景が広がっていた。
一面に悪魔の屍(手や足、どこともわからぬ一部)が散乱し、あるいは累々と折重なり、赤黒い血しぶきがしばれて、硬い地面に浸み入ることなく、そのまま異臭を放っている。あの赤髪の悪魔がそこに沈んでいるとしても、見つけ出すことはまず不可能に近い。
つ、と足をずらせば、ぐにゃりと柔らかなものを靴裏に感じて視線を下げる。吐き気をもよおす血肉の断片が、そこにあった。
口をふさぎ、ゆっくり、ゆっくり首をめぐらせると、やけに大ぶりの石の影を、血煙の向こうに見る。
つかの間、息が止まった。
それは石の影などではなく、仔犬らしき獣の影だったのだから――。
ろっ骨をガンガン叩きはじめた心臓に突き動かされ、震える足を無理やり動かし、それの側へ駆け寄ると、なだれ落ちるようにひざを折った。
「……リュゼ?」
ふうっと引いてゆくもやの中で、仰向けになって四肢を投げ出すそれの半垂れ耳が、ぴくりと動いた。
小石に頭を乗せる、魔獣リムリット――リュゼである。
「リュゼ……」
眼前の小さな魔獣は、全身が赤黒く染まっていた。
ふるえて仕方のない手でおそるおそるリュゼの前肢に触れたとき、固く閉ざされていたまぶたが、ゆっくりと持ち上がった。アーモンド形の真紅の目が、そのまま空を見つめる。
そこに、逼迫した声が空気を裂いた。
「リュシフュージェ!」
マントを翻して現れたのはキリクだった。
怪我を負っているのか、返り血を浴びたのかは定かではないけれど、鉄さびたにおいが、熱気さながらたちのぼっている。
普段は余裕を感じさせる所作のキリクが、ひどく血相を変え、シキの前で乱暴に片ひざをついた。
「シ……キ……? ああ、パーシ……ヴァル、卿……」
ゴボッと鈍い音を吐いたその口の端から、赤黒い血の泡が口吻を伝う。
うつろな目は、シキやキリクに向いてはいない。
「リュゼ、リュゼ……!」
「……なん、だ。せっかく、あいつから、にがしたのに、戻って、くる、なんて……」
「平気だよ……リュゼが、あの悪魔を、倒したんだろ?」
リュゼは目を少し細めて、口唇をきゅっとひいた。人間の苦笑する仕草によく似ている。
「この、ちっこい、ナリじゃ、息の根まで……は、止められ、なかった……」
「リュゼ、あんまりしゃべるなよ、死んじゃうだろ……いま、僕の血を分けるから」
腕をまくるシキを制したのは、目の前から伸びた手だった。
シキはわずかに口を開けて、それからふっと顔を上げた。
信じられないものを見るように、まじまじとキリク先生の顔を見つめる。
静かにシキを見下ろしてくる青い目が、雨に打たれる湖面のごとく、ゆらゆらと波打っていた。そして、キリクは無言でゆっくり首を横にふった。
「先生……僕は、リュゼを……リュゼを治すためなら、僕の怪我なんてどうってことない……なんて、もう、考えていません……リュゼを助けたいだけなんだ……」
キリクはくちびるをぐっと結んで、もう一度首をふる。
それを見つめるだけで、両目が燃えるように熱く、焦げてゆくように思えた。
ふたたびリュゼののどがゴボッと鳴った。
「……シキ、の血は……どん、な傷も治すが……うし、なったものは、もどせない……死者は……よみがえらない、し、しんぞうを……吹きとばされた、あくま、は、治、せない……」
今度は口から大量の血が溢れ出た。
本来、心臓のある場所には大きな風穴がぽっかり口を空けている。――胸部そのものが、失われていた。
「魔獣の器だというのに、よくぞ守ってくれました、リュシフュージェ……」
キリクは白い手袋が汚れるのも厭わず、そっとリュゼの口もとをぬぐった。
「……も、ったいない、おこと、ば……御身にお仕えし……命を、ささげた身で、ありながら、さいご、まで……おとも、することが、できず、もうしわけ……ござい、ません」
「どうしておまえが謝るのです……」
「ああ、ですが……シキの、そばにいたこの、七、年間……とても、こう……ふく、でした。かんしゃ、いたします……わが、君……」
リュゼの声はどんどんしぼんでいった。
まぶたが、落ちようとしている。
「リュゼ! リュゼ……!」
呼びかけに応じて、ふうっとまぶたが持ち直った。
「シキ……おまえは、やさしい、子だ……おれの、いちばんの、とも、だち……いつか、また、いっしょに、たびを、しよう……」
「うん、うん……」
うなずき、リュゼの手をとる。ひんやりと冷たい。いや、もしかしたら自分の手が、この外気にさらされて冷えているのかもしれない……そんなふうに、シキは考えた。
短い尻尾が仰向けの体勢のまま、かすかに動いた。
取ってつけたような愛らしい尻尾がサワサワと動くから、思いがけず、シキはほおがゆるんでしまった。
「リュゼ」
シキが声をかければいつものように、なんだ、と返ってくる。――返ってくるはずなのだ。
「リュゼ……?」
だが、友はただ無言だった。
シキの両眼がよりいっそう、熱を帯びる。
ジリジリと、焦がすように。
「リュゼ、リュゼ……」
友はまぶたをうっすら開いたまま、虚空を見上げている。
やさしく燃える暖炉の炎色の瞳は光を喪失し、ただ、虚空を見上げていた。
それが、死であると、シキは知っていた。
なぜなら、幼い頃にも愛しいひとの沈黙した瞳を、同じように見下ろしたことがあるのだから。
「――あ……」
眼窩から、生温かいしずくがほろり、と頬を転がり落ちていった。
シキは友のまだ少し温かい体をすくい上げるようにして、その胸に掻き抱く。
弛緩した小さな体から、短い手足がたらりと垂れた。
ブレザーが、シャツが、じょじょに赤黒い湿り気を帯びてきて、しみはどんどん広がってゆく。
大粒のしずくが頬を伝わずに、ぼろぼろとまっすぐ落ちていった。
失ったのだ。
友を。
かけがえのない、友を。
唐突であっけなく、はかない死が、シキのすべてを奪い去ろうとしている。
「ああ……――」
慟哭が、凍てついた曇天にこだました。
*
涙も鼻水もとめどなく流れ、滴り、そして落ちてゆく。それが繰り返されて、いかほどの時間が過ぎたか、キリクにはわからなかった。もしかすると、それほど時間は経っていないのかもしれない。
だが、シキはしゃがみ込んだまま顔を伏せ、ぴくりとも動かずに、魔獣の亡骸を胸に抱いていた。
嗚咽はすでに止まっている。
――どうして。
この死は、必然ではない。
リュゼという友の存在が、波紋を生むかもしれない。そうと気づいていた。それなのに、長い間、シキのもっとも近くにリュゼを与えたのは、この私だ。
かけがえのない友として、そばに置きつづけたのは、この私だ。
孤独に膝を抱えていた少年に、憐みを感じたのだろうか。
いや、そもそもはあの男を軽んじた結果だろうか。あるいは私の傲慢、過信が生んだ結果だろうか。
いずれにしても台本を狂わせたのは、私自身……。
この世界において、悪魔とは、まさに害そのものだ……。
キリクはいま一度、おのれを嘲ってから、くちびるを強く噛みしめた。
「シキ……」
反応はない。
「シキ、やるべきことがあります」
酷であると知りつつも、重く、低く、きっぱりと告げた。
だが、それにもシキは顔さえ上げない。
ただ顔を伏せたまま、ぽつりとつぶやいた。
「先生……助けてください」
「助ける……? なにをいって――」
「リュゼを、助けてください」
キリクは眉をひそめた。そしてシキが胸に抱く魔獣の亡骸へ、視線を投じる。
「シキ……」
「キリク先生は魔法使いでしょう……? 魔法で、リュゼを助けて……生き返らせてください」
突然、シキの右手がキリクのマントをわし掴んだ。
うつむいたままで表情までは読み取れないにしても、マントを掴んでくる力は、ことのほか強い。それが間接的に、キリクに気づかせた。
十七歳なのだ。
十歳のあの頃の痛みとは、まったくちがうのだ。
魔法などで命がよみがえるはずがないことは、わかっているはずだ。
わからないほど、もう、幼くはない。
このままでは、シキが、壊れる。
そう直感した。
だからキリクはすべての思惑を捨て去って、ただ思うがまま、ただ感じるがままに、言葉をつむいだ。
「……シキ、よく聞いてください。リュゼを生き返らせることはできません」
「…………どうしてですか。先生はすごい魔法使いでしょう?」
「魔法使いでも、命を蘇らせることはできないのです」
「キリク先生は、闇の力をもつ悪魔でしょう?」
「……ゴーストや屍人を作ることはできても、悪魔に生命を蘇らせることはできないのです」
「どうして……?」
「それが天と地の定める理なのです」
言って、シキの肩にそっと手を置いた。
「それだけは、黒竜王にも成しえることができません」
マントを掴む手が、わずかにゆるんだ。ゆるむと同時に、うつむいていたシキの頭がゆらりと持ち上がる。
だがその顔を見るや、キリクの胸がひとつ、強く拍動を打った。
涙を流す眼窩は、虚空だった。
まるでそこに死を宿しているように。
シキはキリクを見ているようで、なにも見てはいなかった。
無意識にシキを抱きしめたのは、この傷ついた少年を慮ってか、それとも己を責めてか。
それさえもわからずに、キリクはただ、骸となった魔獣ごと、シキをきつく抱きしめる。
様々な音が、深々と降る雪に覆われるがごとく、一切消えてしまったようだ。
そう考えたとき、ひとつの決然たる想いがキリクの胸に湧きあがった。
私にいまできることを、成さねば。
そのために、私はここにいるのだ。
「シキ、やるべきことがあります。前を、私を見なさい」
きっぱりと言い放って、シキの顔に両手を添えた。手套越しに、冷たい頬の感触が伝わる。
潤みきったうつろな目でぼんやりと顔を向けてくる姿が、濡れそぼった仔犬を思わせるほどに、あまりにも憐れだった。
壊してなるものか。
リュシフュージェ、おまえが命を賭してこの子を守ってくれたのだから。
「リュゼの……死を無駄にしてはいけません」
「……死?」
「そうです、だから、まっすぐ私を見なさい」
うつろな眼窩から、音もなく大粒の涙がほろりとこぼれ落ちる。
「シキにはやるべきことがあるのです」
そういって手套をするりと外すと、あえかな白磁の陶器を扱うように、シキの頬に流れる涙をやさしくぬぐった。
その瞬間、壊れかけていた瞳に、ゆっくりと、淡い光が差し込んできた。
戻って来なさい、シキ。
「……先、生」
キリクの青い目に、はっきりと視線を感じる。
「リュゼは、死んでしまったんですね……」
「そうです」
「もう、会えないんですね……」
「そうです、だからこそ」
キリクは一拍おいて、静かにささやいた。
「ともに歩んだ時間を、忘れてはならないのです」
そしてやわらかく、真綿のようにほほえんだ。その笑みがキリクにとって無自覚であり、セラフィト・ガヴェイン校長が生徒たちに向ける、慈母のような微笑だったことは、当然キリクは知らない。
本来、この悪魔が持ちえない、ほほえみ方なのだから。
シキの目からふたたび涙が流れた。しかし今度はゆるやかに頬を伝ってゆく。
それがぽつ、とあごを離れて、胸に抱くリュゼの額へしみ込んだ。
「さあ、立ち上がって」
先にすっくと立ち上がり、シキに手をさしのべる。
やわらかく吹きつける風が、ボロボロになったマントをひらりと揺らした。
「行きましょう」
シキは一度だけまぶたをぎゅっと閉じて、涙の線を親指でぬぐう。
その目が開かれたとき、キリクはそこに磨きあげられた漆黒の宝石を、見る。
とても強く、まことに美しい輝きだ――。
「戦いを終わらせるのです」
「……はい」
キリクが差し出した手は、確かな力で握り返された。
*
「あとで、ふかふかの土に寝かせてあげるから、待っていて。
リュゼ」
*




