ひみつの理由
ごう、と風を切って、それは伸びた。
北国にやってきて、驚くことは本当にたくさんあったけれど、精霊の存在もそのひとつだった。
――僕の記憶がまちがってなければ、たしかユーリは「土に落とせば」と、いっていたけど……。
空に向かって消えていったはずの木精霊の種は、まったく予想だにせず、空中で発芽したのだ――。
「――フェイメル! 僕の手をつかんで!」
空で芽吹いた種は真下に向かってぐんぐん枝を伸ばし、シキを地面すれすれのところですくい上げるようにからめ捕るや、今度は空に向かって猛然と伸びていった。そして四階の窓から身を乗り出したままのフェイメルの手首を、シキは正確無比に捕まえた。
空を泳ぐようにして伸びつづける幹は、シキの胴回りの太さをあっという間に超え、いまや大木となりつつあるその先端では、北国ではそうお目にかかることのない、みずみずしい青葉がこんもりと生い茂っている。
「シキ君……」
「フェイメル、しっかりつかまってて……悪魔が追ってきてる」
「ガウッ」
猛烈な向かい風にもかかわらず、互いの声がはっきりと聞き取れるのは、木精霊の力によるものだろうか。
シキは体をちょっと伏せるようにして幹にまたがり、そのうしろで、フェイメルがぴったり体を寄せている。
ちなみに、シキのコートは木精霊の種に助けられたとき、風圧ではぎ取られてしまっていた。だから、ブレザーだけでは凍えてしまうと思っていたのだけれど、背中は友のぬくもりでずいぶんと暖かい。くわえて、懐にはリュゼである。
すでに校舎からだいぶ離れたにもかかわらず、蛇行しながら猛スピードで伸びつづける木精霊の種は、どうやら悪魔をふり切ろうとしているらしかった。
森を燻したような、悪魔独特の匂いがひたっとついて来ているのが、シキにもわかっていた。
おそらくそれはリュゼも感じているはずで、その証拠に、ずっと全身の毛が逆立っている。
「ラッキーだなあ! まだピンピンしてるとは、思わなかったぜ!」
悪魔の喜々とした声音が、すぐ背後から聞こえた。
――まずい、このままじゃ本当に捕まってしまう……!
「――シキ」
フェイメルに気取られぬよう、リュゼがささやいた。
「フェイメルといっしょに、無事にここから逃げるんだ。地面に着いたら、シキはパーシヴァル卿を捜してくれ」
「え、リュゼは……?」
「おれは、いっしょには行かない」
「待って、それって――」
つづく言葉を待たずに、リュゼがいきなり懐から飛び出した。
ぱっと宙に身をゆだねる魔獣の赤い目は、ずっとシキを見つめたままだった。
瞳で、なにかを語りかけるように。
仔犬のような体形に短い手足を広げた格好で、いつまでもその場にとどまっているような、永い永い刻がふたりの間にあった。
まるで、息さえ止まる、真空の世界にいるような――。
「――あ」
だが、その世界は刹那のうちに――あたかも水面に浮かんだ泡が、はかなく割れるように――パチンとはじけた。
「リュゼ?」
ごうごう吹きつける向かい風が、リュゼを容赦なく引き離していく。
それでも、赤い視線と黒の視線は絡んだままだった。
「リュゼ……! リュゼ!」
すうっと胃の中が冷えていくのがわかった。
遠ざかってゆく友へ伸ばした腕の、指の先からふるえが走る。
北国の強烈な寒風のせいではない。
「リュゼッ!」
「あの子には、指一本たりとも触れさせぬ。このリュシフュージェが相手になろう」
風に乗って、小さな友の敢然たる声が、シキの耳に届いた。
「いやだ、だめだ、リュゼ! リュゼ――」
「だめですわ、シキくん……! いま戻ったら、リュゼちゃんがせっかく足止めしてくださったことが無駄になってしまいます!」
大木から飛び降りようとするシキを、フェイメルが背後からきつく抱きしめ、力いっぱい引き止めた。
フェイメルはリュゼの行動の意味を、よく理解している。だがシキには理解できていても納得することができなかった。
友を置き去りに、どうして自分だけ逃げることができるだろう。
いまや心臓はこの寒さで凍りついたかのように、とても静かだった。いや、心臓だけではない。
脳さえもキンキンに冷えて、思索することをかたくなに拒んでいる。そして気道はびっしりと霜が張ったように、水分を失っていた。
シキをとり巻いているものは、しびれるような冷気と静寂だ。
木精霊の種のスピードが落ちはじめている。それの意味するところは、悪魔の追撃が止んだ――そういうことだった。
「ごめんなさい、シキ君……」
全身の力が抜け落ち、背を丸めて幹にまたがるシキから、そっとフェイメルの体が離れた。
シキはゆっくり首をふる。
「……フェイメルがくれた木精霊の種のおかげで、助かったよ」
蚊の鳴くような声は、べつのだれかのもののようだった。
「いいえ……」
「フェイメルが教えてくれなかったら、今頃リュゼといっしょにのし紙になってたかも……」
笑ったつもりだったけれど、鼻から少し空気が抜けただけで、頬の筋肉はピクリとも動いてはくれなかった。
「ありがとう」
「……いいえ、いいえ……」
「フェイメル?」
やっと、彼女の異変に気づいてシキは背後をふり向いた。
ゆっくりと焦点を合わせた先に、両手で顔を覆い、肩をふるわせるフェイメルの姿がある。
「フェイメル……大丈夫? 泣いてるの……? さっきので、どこか怪我を――」
「大丈夫ですわ……」
その言葉とは裏腹に、涙を堪えているのがシキにも感じとれた。ただ、そこでやっとシキは彼女の真珠の肌――手の甲にひどい擦り傷ができて、血まみれになっていることに気づいた。
よくよく見ると、素肌が露出しているところは傷だらけではないか。
それを知った瞬間、いっぺんに思考と理性が戻ってきた。
「待ってて、いま、治すから――」
「だめっ」
歯に親指をあてがったまさにその時だった。
フェイメルがシキの手を強く掴んだのだ。
「え……?」
「シキ君、いいんです。治してくださらなくて大丈夫ですわ」
「……でも、傷だらけで――」
「わたしの傷は時間が経てば治るものです」
「でも、僕のほうが早く治るし……」
困惑するシキは、フェイメルの波紋にゆれる藍色の目から、すーっと細い筋が頬を伝ってゆくのを見る。
シキの手が、やさしく、やさしく包み込まれた。
「それでも、シキ君だって、痛いでしょう?」
たったそれだけの言葉に、シキははっと目を大きくする。
ああ。
そっか。
この血の秘密はだれにもいってはいけないと、父さんとの約束だった。
でも血を使っちゃいけない本当の理由は、いつか自分にとって大切な人たちができたとき、彼らが教えてくれるといっていた。
子どもの頃は、てっきり、みんなが驚くからヒミツなんだと思っていた。
学校でたくさんの人に出会ってからは、僕は自分が化け物なんじゃないかってばかり考えていた。
でも、僕の大切な人たちは、一度も僕を怖れたりしていなかったじゃないか。
こうして僕を、いつも想ってくれていたじゃないか。
僕が傷つけば、僕の大切なひとたちの心も、傷つくんだ……。
「わたしのために、シキ君まで痛い思いをするのは、あのホロン山だけで……もうじゅうぶんですわ……」
「……ありがとう、フェイメル」
シキは目の奥が熱くなるのを堪え、もう片方の手を、フェイメルの手の上に乗せた。
ほどなくすると、首の長い動物がわざわざ地面に顔を近づけるようにして、木精霊の種が頭からずん、と地面に到達した。
本校舎の東側に面する大講堂のそばにシキとフェイメルが降り立つと、大木はみるみるうちに枯れて、ついにはおがくずのような状態になってしまった。それは風に巻かれて、またたくまに飛んで、姿を消す。
その一部始終を、避難誘導にあたっていた教員たちが口をあんぐり開けて眺めていた。
ちょうどそこに、鼻の頭に脂汗をうっすらにじませた、歴史学のマース先生が駆け寄ってきた。
「きみたち……! どこから来たんだね……ああ、それよりも、早く中へ……!」
シキが本校舎を仰ぎ見れば、四方八方から煙があがり、あちらこちらで爆発音が轟いている。
ここからでは小さな魔獣の姿など、当然、見えはしない――。
「フェイメル!」
大講堂の重厚な両開き扉をくぐると、アリアが人混みをかきわけて、飛びつかんばかりにガバッとフェイメルを抱きしめた。
「アリアも無事で本当によかったですわ」
「どこいってたの、心配してたんだよ……! フェイメルが……もしかしたら、って考えるとこわくて、あたし……!」
「ごめんなさい、アリア」
涙ぐむふたりの再会にほっと息をつき、シキは浮かない表情でぐるりと大講堂を見渡した。
「あっ、シキ!」
「シキ、お前……!」
名を呼ばれて、はっと正面に向き直ると、人混みを蹴散らすようにユーリが歩いてくる。その後ろにはウルトの茶髪が見えた。
「よかった、ふたりともぶじ――ぐえっ」
いきなりシャツの襟首をねじり上げられ、いつにも増して目つきが鋭い――いや、眼光ひとつで心肺停止にできそうな剣幕のユーリの腕に、二度タップする。
ほどなくして首元がゆるまると、萎えていたすべての回路がふたたび動き出した。
「いままでどこ行っとったんや!」
「……えっと、ごめん……もしかして、心配かけた……?」
「アホか! 当たり前やろ! なにが『心配かけた?』や!」
「あはは、いつものユーリだ……」
「笑とる場合か!」
怒気をふんだんに含んだツッコミに、シキはほんの数時間前までは当たり前だった日常を取り戻した気がした。
リュゼと離ればなれになって、パニックに陥った心臓もちゃんと動くようになっている。それをしっかり確かめて、シキはひとつ深く息を吸って、吐き出した。
「アリア。フェイメルをアイゼン先生のところへ連れて行ってあげて。全身傷だらけなんだ」
うなずいたアリアがフェイメルの手を取る。
「行こ、みんな手当の順番待ちしてるから」
「待って、わたしよりも――」
フェイメルの言葉をさえぎって、シキがつづける。
「ユーリ、ウルト。僕、行かないと……あとで、必ず戻ってくるから」
「はっ……? おい、行くて、どこへ――」
ユーリの言葉を待たずに、シキは迷わず駆け出していた。
背後でフェイメルとウルトの呼び止める声が聞こえたけれど、ちらともふり返らずに疾駆する。
「さっさと戻って来ぃや」
混雑する大講堂では叫ぶ声すら聞こえないはずなのに、ユーリのどこか寂しげな声だけがはっきりと聞こえた。
シキはほんのわずか、首をまわす。人混みのあいだから、紫色の宝石のような輝きが、目に飛び込んでくる――そんな気がした。
「ありがとう、ユーリ」
たとえ届かないとしても、背中をそっと押してくれる友にお礼をそっとつぶやいて、大講堂の大扉を引き開けた。
リュゼのところへ、早く――。




