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追撃

 耳をつんざく爆発音、あまたの叫び声、ろっ骨を叩くけたたましい鼓動――。

 それらが押し寄せては打ちつける波のように、絶え間なくシキとフェイメルに襲いかかってきた――。


 長い渡り廊下を全力で駆けて、やっと本校舎に抜けたと思った矢先、下階かかいから悲鳴がこだました。

 そこへ、タイミングを見はからったのか、はたまた偶然近くを飛んでいたのかは定かではないが、男子寮のお目付け役ゴースト、ファット卿(いつものフリルを豪華にあしらった古臭い貴族衣装ではなく、やたらとゴツイ甲冑に身を包んでいる)がぶわっと残像をひっぱって現れた。

「下の階は悪魔がウヨウヨしておる、とりあえず上の階に逃げるのだ!」

「そんな……!」

「ここはそれがしに任せて逃げたまえ!」と、勇ましく腰のサーベル――当然これも半透明――を抜き放つ。

「ファット卿……! ありがとう!」

「なんのこれしき!」

 だが、階段を駆け上がってくる気味の悪い足音がすぐ側まで迫ってきて、三人と一匹の身体がぎくりと硬直した。

 それはまるで生肉が石畳に貼りつくような、グロテスクで生々しい音。しかも音のみならず、生ごみの腐ったような臭いが鼻をツンと刺激してくる。

 足音の正体が腐敗した体躯の魔獣、グールだと気づいたときには、すでにファット卿の半透明の体が、甲冑ごと真っ二つに食いちぎられていた。

「ギャアアーッ! それがしを食らっても美味くはないぞ、やめろ屍犬ども! これっ、おいっ!」

 上半身と下半身をじたばたさせるファット卿の抵抗もむなしく、生肉の山が築かれてゆく。

 ――あの啖呵たんかはなんだったのか、という疑問がぬぐえない。

「ぜんぜんダメじゃん!」

「シ、シキ君……逃げましょう……!」

 フェイメルの青白い手をとって駆け上がると、そこは五階女子寮のフロア――つまるところ、男子禁制の階だった。

 さらに六階は男子寮、七階は教職員用……とは名ばかりの封鎖されたフロア。

 とすれば、シキらが逃げ込める場所は、ひとつしかなかった。


「五・五階で魔獣がいなくなるまで、なんとかやりすごそう」

 魔法学校のほとんどの生徒の憩いの場、談話室ラウンジに足を踏み込んだ瞬間、シキの身体はいっぺんに強張って、どっと心臓が激しくふるえた。

 談話室には、すでに両手では数えきれないほどのグールがエサを求めて徘徊していた。

 肩に乗るリュゼののどが、低くうなりだす。

 連中の腐敗した呼気が広々としたフロアにむっと充満し、大きな窓にかかるビロードのカーテンも、ハリスたちと語らった座り心地ばつぐんのソファも、テーブルも、なにもかもがずたずたに引き裂かれている。

 ふと、足元に視線を落とせば、だれのものかも判らぬ赤が、絨毯に染みをつくっていた。

「あ、あ……」

 声にならない声をあげるフェイメルは、その染みから逃れようと、動かなくなった足を引きずって後退した。

 シキはおのれの心が折れてしまう前に、友の華奢な手をいっそう強く握ると、右手の階段へ踵をまわす。


 もう、選択肢は時計塔しか残されてはいなかった。


「フェイメル、うしろはふり返らないで!」

「はい……!」

 背中や首筋に感じる、静電気のようなピリピリとするしびれは、グールが迫ってくる恐怖が生みだす錯覚だろうか。あるいは本当に醜悪な吐息が背中にかかるほど、やつらは距離を詰めてきているのだろうか。

 それを知るにも、ふり返っている時間さえ、いまは惜しい。


 それが起こったのは、時計塔の階段をやっと半分までのぼったところだった。

 ゴンッ、と巨人がハンマーで大地を殴りつけたような、重々しく、それでいて凶悪な一撃。

 腹をふるわせるほどの轟音、足の裏から頭のてっぺんまで駆け抜ける衝撃、巻き上がる石埃り――シキとフェイメルの悲鳴は、それらにきれいさっぱりかき消された。

 しばらくのあいだは、立っていられないほどの揺れを感じてその場にしゃがみ込み、上からバラバラ降りしきる小石と石埃を目をつむってやり過ごす。その間は、フェイメルとリュゼに覆いかぶさるように、ずっとふたりを抱きしめていた。

 次第に衝撃の波が引いていき、まったき静けさが訪れると――

「そんな……」

 シキはぼう然と天を仰いだ。

 本来あるべきはずの、階段の先が、ない。

 しゃがみ込んだ場所から十段ほど先は、時計塔もろとも、そっくり消え失せていた。

 塔の代わりにあるのは、濁った空だけ。


「ふはっ! よく逃げたな小僧!」


 突然、バサッとコウモリそっくりの翼を打って頭上に現れたそれは、さも、地を這う虫でも見るような目つきで、シキを見下ろしていた。

 それはシキが一年生のときに一度会ったことのある――

「お前は、針の森にいた悪魔……!」

「ああ、おれ様も憶えているぜ」

 燃えたぎる炎色の髪と血の色の双眸、そして、全身くまなく施された刺青の肌は浅黒く、右半身はひどい火傷を負ったらしき痕が深く刻まれていた。それよりも、あの日は当然のようにあったはずの右腕が、いまはどういうわけか失われている。

「おれ様の腕を奪ったあのクソ女のことは、あの日から忘れたことはない……!」

 悪魔の鋭利に連なる歯が、ギチッと軋む。

「だがな、貴様に膝を折られた屈辱は、そんなもんじゃない!」

 森をいぶしたような、胸がぐっと詰まるような匂いと凶悪な視線に、たまらずシキは身じろいだ。こめかみにじわりとにじむ脂汗が、いやに冷たい。

 シキの腕の中でフェイメルが小刻みにふるえ、蚊の鳴くような声で、ぽつりとつぶやく。

「ヴェルデ……」

 それを横目でちらりと見るや、悪魔ヴェルデは嫌悪とも、軽蔑ともつかない笑みを浮かべた。

「下等な人間ごときが」

 つばでも吐き捨てるようにいって、残った腕を天高く掲げる。

 すると、なんの前触れもなく、シキとフェイメル、リュゼは奇妙な浮遊感に陥った。感じたと思った瞬間には足元が沈んでいる。

 ゴゴゴ、とうなりをあげて石造りの階段は次々と抜け落ち、剥がれ落ちてゆく――。

 時計塔の高さはおよそ七階相当。

 崩壊に飲み込まれるようにして、シキらの体がゆっくりと沈んだ。

 悪魔の高笑いがはるか彼方で聞こえた。



「……っ、く、そ……」

 頭に細かく砕けた石や木屑がぱらぱら降りかかり、シキは軽く頭をふった。肩に爪を立ててしがみつくリュゼも同じようにプルプル頭をふってみせる。

 シキの右手がかろうじて掴んでいるのは、以前、メメリコーレ先生の授業で教室の壁をつき破ったゴンブトヅタだった。あの時ウルトが失敗してくれたおかげで、幸か不幸か、即死だけは免れた。

――つまり、ここは四階か……。

 でこぼこで丸太のように太く、頑丈なツタがシキの唯一の命綱だった。だが、全体重を支える両手はじっとり湿った汗で、しだいにすべりはじめている。

「シキ君!」

 デジャヴを感じながら頭上に視線を移せば、四階の魔法植物学の教室の壊れた窓から、めいっぱい身を乗り出して手を伸ばすフェイメルの姿があった。

 だが、どうあがいても手が届くような距離ではない。

 それ以前に、シキには片手を離す余力もなかった。

 しびれはじめてきた両手にあきらめを感じて、思わず苦笑がこぼれてしまった。


――今回ばかりはだめそうだ……。


「フェイメル……よかった、きみが無事で」

「いや……手を伸ばしてください、シキくん……!」

 シキの頬を、冷たい水滴がぱたっと叩く。それがフェイメルの涙だと知る頃には、右の薬指と小指がゴンブトヅタから外れた。

 フェイメルが声にならない声をあげた。

「フェイメルだけでも……逃げて!」

 ツタを掴む両手はもう、限界だ。

「いやっ……!」

 渾身の力で腕を伸ばしたその瞬間、大きく見開いた藍の目が、さらに大きく見開かれた。

 それをぼんやり見上げていたシキは、肩にぶら下がる相棒にぽつりとつぶやく。

「……ごめん、リュゼ」


 とうとうすべての指が、外れた。 

「シキくん! 木精霊の種を!」


 フェイメルの声を最後に、シキの体は高さ四階から地上へ向かってゆく。

 垂直落下のさなか、悪魔が翼を打つ音と、忌々しそうに吐き出した声だけ、やけにはっきりと聞こえた。


「……ああ、くそっ、生け捕りにしろって言われてたの、すっかり忘れてたぜ。閣下はなんだってあんな化け物みたいなやつを手に入れたがってんだ……殺したほうがよっぽど――」


 よっぽど、の先は聞きたくなかったから聞こえなかったのか。

 それとも風を切ってまっ逆さまに落下しているためか。


――木精霊の種……フェイメルが、僕の誕生日にくれたやつだ。


 内臓をすべて空に置いてきた感覚は、はじめてキリク先生と出会ったあの日、魔法の馬車で味わった感覚によく似ている。


――数秒後には地面か……。


 背中にヒリヒリとした幻想の痛みを感じながら、シキは無意識に、ブレザーの内ポケットに手を滑らせた。

 ひと粒の種が入った小さな巾着袋を取り出すやいなや、それは風圧で勢いよく真上に吹き飛んでいってしまう。まるで、磁石の反対の極が反発しあうように。


「あっ……」


 助かる唯一のすべは、上空かなた。

 シキは首にしがみつくリュゼを、身を丸めるようにして抱きしめる。そうすればリュゼだけでも助かるかもしれない――そう考えて、きつく、きつく。


 わずか四階からの落下が、とてつもなく、長く感じた――。


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