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「たからもの」

 *


 『意識が戻りました』


 それは待ちわびたひと言だった。

 養護教諭のアイゼンから連絡を受けたのは、ジンの報告がほとんど終盤にさしかかった頃だった。


 夜をいっぱいに映した大窓。そこを背にして置かれた美麗な執務机。その前に立つのは、ふたりの教師――光の魔術と闇の魔術学担当、ジン・ホランドと魔法学担当のキリク・パーシヴァルである。

 ちなみに、隣同士で並ぶと背丈の落差がきわめて著しい。


 壁に掛かる山羊ヤギの首の剥製はくせいが、のんびり草を食むようにしゃべるのを、キリクは黙って聞いていた。

 ジンもまた、後ろ手に指を組みつつ黙然と耳を傾けている。

『――いまはキャメロットの友人たちとにぎやかにしていますよ。もう心配はご無用です、校長先生』

「それはなによりじゃ」

 襟元で結った大ぶりのリボンを指先でいらいで、セラフィト・ガヴェイン校長は満足げにほほえんだ。

「ご苦労様でしたね、アイゼン先生。あしたの朝までよろしく頼みますよ」

『承知しました。では、失礼します』

 それを最後に、山羊はぴったり口を閉ざし、ただの剥製に戻ってしまった。


 ガヴェインはゆるりとからだを正面に戻すや、ふたたびジンへと視線を投げた。その細長の眼鏡の奥にある金色の光は、水面みなもに朝日をちりばめたようにキラキラと明るく、そしてやわらかい。

「さて、どこまで話しましたか……」

「七階に領域魔法をかけたのはキエではありません、のところまでです」

 対するジンの深い緑の目は、ひじょうに硬かった。それはこの校長室に呼ばれてから現在に至るまで、すこしの変化もないままだ。

「ふむ」

「あの女は隠していたつもりでしょうが、魔力のかけらもない……。ガヴェイン先生もご存じだったのでしょう?」

「ええ。彼女は提督が極秘で置く補佐官、まあ、魔術は専門外だったようじゃな」

「……まさかわざと泳がせていたんですか?」

 ジンの探るような強い視線を浴びて、セラフィト・ガヴェイン校長はにっこりと笑みを作った。それはまるで、ひっかけ問題に気づいた生徒へ「たいへんよくできました」と称えるような、そんな笑顔である。

「ちなみに年齢もサバを読んでいたようじゃ……まったく化粧とはおそろしいものですね」

 一瞬、ジンがぽかんと口を開けそうになるのを横目で目撃したキリクは、あわや吹き出しそうになるのを堪えてあさってのほうを向いた。

 かねてよりキツイ猫目が、いまは愛らしい子猫のようにまん丸になっているのだから、これは今年一番の珍事ではないか。

 ものの数秒もしないうちに、ジンがはったとわれに返る。

「なぜ先生があえて軍のスパイを学校に迎え入れて、あまつさえ野放しにしていたのかわかりません!」

「生徒の身に危険が及んだことはわたくしの不徳の致すところ……」

「いえっ! 先生のせいじゃありません!」

 声を大にしての、全力否定。

 ついいましがたガヴェインを非難したばかりではなかっただろうか?

 恩師の前ではいたく可愛らしいジンが目に楽しかった。いや、むしろ愉快というべきだろうか。

 もちろん笑ってはいけないとわかっている。わかってはいるが、キリクの肩の震えはすでに制御不能で、このままでは横隔膜が痙攣するのも時間の問題である。

「うれしいことをいってくれますね。だれも命を落とさずに済んだのは、ひとえにジン、貴女が学校を守ってくれているおかげじゃ」

「……それは、それは先生直々のお願いでしたから……! オレ――私にできることがあればなんだってやります」

「いい子じゃ。これからも頼みますよ、ジン」

 ガヴェインは満腔まんこうの愛情をその瞳いっぱいに浮かべた。さながら母親がわが子を見つめるように――。

 これですっかり毒気を抜かれたジンは、照れくさそうに首だけでうなずいた。

「……でも、キエの協力者はわからずじまいです。キエはときどき校内から姿を消すときがありました。まったく足取りがつかめなかったんです」

「うむ……隔靴掻痒かっかそうようといったところですか……」

 あなたはいったいなにをやっていたのだ、などとガヴェインは万が一にもいわない。それは彼女のおおらかな性格とは別に、“ひとを信じる”ゆるぎない信念があるからだということを、キリクはじゅうぶん知っていた。

 ゆえにセラフィト・ガヴェインはだれかを責めることを嫌う。ただし、旧知の仲であり悪魔であるキリクにはそうとも限らないのかもしれないが……。

「まったく魔力がない以上、消えるなんてまず自分じゃできない。だから協力者は必ず学校にいるはずなんです……」

「疑っているのじゃな、彼女と同じ、軍属の彼を――バショカフ先生を」

「……はい。ですがあの男には不審な点がいっさいないんです。もしいままでキエと接触があったなら、巧妙に、それでいて計算高く私の目から逃れていたことになります。そんなこと、できるはずが……先生は、なにかご存じですか?」

「……そうじゃな……」

 ガヴェインの金色の目がごくわずかに動いた。

 感覚の鋭いジンでさえ見て取れないほどの、たった一度きりの微細な眼振がんしんだった。

 それが何を意味するかは、キリクだけが知っている。

 キリクはごく自然であるふうを装って、パチンと指を弾いた。

 そして朗らかにこう言う。

「それは厄介ですね」

 それは愉快ですね、といかにも聞こえるように。

「おい、このクソ悪魔! なに悠長なこといってんだ! てめーの子分が狙われたんだぞ! わかってんのか、あと一歩で死ぬとこだった――」

 キリクに掴みかかるすんでのところで、ジンは伸ばした手を素早く引っ込めた。それは、うわべにはわからぬ冷気を感じてか、あるいは悪魔独特のプレッシャーを感じてだろうか。

 いずれにしても、ガヴェインの目配せどおり、一時的にこの場の流れを変えることは成功したようだった。

「重々承知です」

「……だったら、お前はこれからどうするつもりだよ」

「簡単です」

 紳士たる者、いつなんときたりとも上質な微笑を絶やしてはいけない。

 それが紳士のたしなみ――それゆえに、キリクはにこやかにほほえんだ。

「この学校に害なすソーナ・ペンドラゴン北国国軍提督を、偽りの玉座から引きずりおろすだけです」

 そう断言し、双子の月にもっとも近いこの九階の窓から、ぶ厚い雲にうめつくされた夜の空へ、青空色の眼を投じた。

 ほんの少し視線を下げるだけで、雪雲によって頂が隠れたホロン山が飛び込んでくる。そこからさらに視線を下げた中腹に、荘厳たるたたずまいで横へ横へと広がる建物を射るように見つめた。

 それこそ北国唯一の武力と称えられる、北国国軍本部基地。いわばペンドラゴンの城である。

 ただ、軍基地の背後にそびえる真の王の城はいまだに空のままだった――。



 消灯時間を過ぎた二十三時半。

 校長室の半分を占める書架しょかの本という本が、部屋の中央に植わる巨木の明かりで赤々と燃えているように映った。

 枝だけの樹木の先に釣り下がるあまたのランプが、総じて橙色の炎を宿している。その炎のぬくもりを、キリクは白い手套グローブを通じて肌に感じた。


「ところでルキフェル」

「なんでしょう」

 これは小言をいわれるにちがいない。

 彼女の声のトーンですぐに察しがついたけれど、そしらぬふうにキリクは応じた。

「あの子が本当に食べられてしまったら、どうするつもりだったのです?」

「ははは! どうもこうも、食べられるなんてルートはありませんよ!」

 さも盤上のゲームを得意顔で解説する評論家のように、キリクが笑う。

 それをガヴェインは「またこれじゃ」とつぶやいて、ため息ついでに軽く頭をふった。

「……わたくしは譲ると言ったときに、必ず側で守ってくれたら、と条件をつけたはずですが?」

「そういえばそんな約束でしたね……いやはや、失礼いたしました!」

「あの子がいかに大切か、あなた自身がよくご存じのはずじゃ」

 キリクは言葉の意味を噛んで砕くように、じっくりと逡巡しゅんじゅんした。

「……大切、そうですね、たしかに大切です」

「北国の民にとってあの子は唯一無二の――」

「私にとってシキは、」


 次なるひと言に、ガヴェインは言葉もろとも息をのむ。

「宝物です」


 ――そう。

 はじめはキリクにとって、北国の歯車のひとつでしかなかった存在だった。しかも不安定で、信ずるに値しないものだった。

 それをよく知っているからこそ、彼女はこうして絶句するのだろう。

 ガヴェインはしいて言及することはしなかった。

 ただただ、奇妙なモノを前にしたように目をみはるだけ――。

「シキは気づいていないでしょうが、竜王には内に宿す炎のほかに、絶対的な力がもうひとつ――」

「言葉による服従、ですね」

 校長が間髪入れず二の句をつぐ。

「地獄の三王を除く生き物を、竜王は命じることによって意のままに屈服させることができる……」

「竜王の炎だけ(・・)を封じたのは、そういうことでしたか」

「おのれが生きぬくための術を残したまで……でもまさか、キエ先生を襲え、とまで命じるとは思いませんでしたよ! まあ、本人としては意図して命じたわけではないでしょうが」

「ルキフェル、あなたの博打ばくちのようなやり方にはいつもヒヤヒヤさせられる……もう少しわたくしを労わってほしいものじゃ」

「またまた、そこまでご老体ではないでしょう!」

 声をあげて笑いながら、マダムたちがするように、片手をひらひらあおいでみせる。

 淑女の怒りを買うとも知らずに。

「レディにむかって老体とは……! 減給されたいのですか、パーシヴァル先生?」

「はっはっは! 冗談です、冗談ですから減給だけはやめてください……!」

 あわてふためくキリクを尻目に、ガヴェインは外した眼鏡を机の上にコツンと置いた。これは暗にそろそろ話を切り上げたいという、彼女の意思表示だった。

「あの男の側近を排除できたのはよいとして……やはりあの子にキマイラと戦わせたのはちと気の毒でした」

「軍のスパイを追い出せて、なおかつシキには自分の力で危険を乗り越える経験ができたのです、一石二鳥ではありませんか!」

「わたくしは自分のペットをこの手で分解するはめになりましたけどね」

「……なんなら私がもっとステキなペットをプレゼントしてさしあげましょうか?」

「けっこう」

 機嫌を損ねるわけでもなく、むしろあきれ果てたようにガヴェインがやれやれ、と軽くため息をついた。

「衷心より感謝していますよ、ガヴェイン校長先生」

 両手を優雅に広げてから、左手は後腰、右手を胸にぴったり添える。敬愛の念をもってして深く腰を折った。

「……もう夜は深い。よい夢を、パーシヴァル先生」

「では、キマイラによろしくお伝えください」

 

 きわめて精緻せいちな木彫りの扉が、音もなく開いたのち、またしても音もなく閉じる。

 こうして魔法学校の最上階は夜のしじまを取り戻した――。


 *


 暦はめぐり、シキの十七回目の誕生日がいよいよ間近に迫ってきた。

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