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カーテンの隙間から、濃密な夜をぼかす朝の光が、薄ぼんやりと射し込んでいた。
きょうはキリク先生の手伝いもないというのに、深い眠りから自然と覚めたのは本当に久しぶりのような気がする。それも、だれかがやさしく揺り起こすような、心地の良い目覚めだ。
シキは広々とした部屋をゆっくり見回すと、一番離れたベッドに目をとめた。
――いない……。
目覚ましがないにもかかわらず、毎朝きっかり六時半に起床するユーリが、いない。
おそろしく規則正しいユーリは自分に魔法をかけているか、だれかから呪われているんじゃないかと、シキはつねづね考えていた。だがどうだろう、なぜかベッドは空である。まだまだ六時半にはほど遠いというのに。
シキの隣のベッドでは、ガーガーいびきをかくウルトが寝返りを打った。
ユーリが呪われているわけじゃなくてよかった――そんなことを考えながら、カーテンからこぼれる薄い光をに、目を細めた。
ところが朝食の時間になってもユーリの姿は見えないままだった。
食堂をぐるっと眺めてみたものの、増えはじめた生徒のなかには見あたらない。
几帳面で時間にうるさい友人の不在に、いよいよ不安を覚えはじめたころ、フェイメルが一人きりでシキの前に現れた。
「シキ君、ウルト君、おはようございます」
「おはようフェイメルちゃん! マイスウィート天使!」
「おはよーフェイメル。アリアは?」
「朝起きたときにはもういませんでしたわ」
「そうなの? じつはユーリもいなくて――」
三人で席に着いたそのときだった。
「おはよ」
「よう、お前らずいぶん早いやないか」
「ユーリ! と、アリア……!」
まさかのふたりそろっての登場に、シキは酸欠の魚よろしく、口をパクパクさせつつ、目をまん丸にした。
「えっ、お前らケンカしてたんじゃねぇの?」
「ケンカしたとはひと言もいうてへんけど」
ちなみにウルトは天変地異を目のあたりにでもしたかのように、口をあんぐり開けたまま、あ然としている。
それもそのはず、ふたりはまるで二ヶ月前のように、ごく自然に並んでやってきたのだから。
きのうまでのぎこちなさが嘘のようではないか。
――ああ、そっか。
目の前に腰を下ろしたふたりを見て、シキは思う。
――きっともう何もかも、大丈夫だ。
それは、体の内側が小石でいっぱいだったあの圧迫感がいつの間にか消えて、あらゆることが軽くなっていく、そんな不思議な気分だった。まるで、東国の春めく感じの、ワクワクするような、ソワソワするような――。
「ちょっと、ウルトの寝ぐせ、爆発してるよ?」
「いつも以上やったぞ、寝相」
「げっ、まじで? シキ教えろよ、フェイメルちゃんいるんだからさぁ!」
「だっていつもだいたいそんな感じだよ、朝は」
「いつもどおり個性的ですわよ、ウルト君」
久方ぶりに訪れた、穏やかで楽しい朝のひととき。
五人で笑いあう、たったこれだけのことが、シキにとってたまらなく大切で尊い時間に思えた――。
*
国立魔法学校で生徒たちが食堂に集まる、およそ一時間前――。
「なんだと? 第三次隊と連絡がつかない?」
そろそろ夜が明けはじめる早朝六時、北国国軍の作戦会議室に怒号が飛んだ。
リントヴルム・トリスタン大佐は、会議室中央の長机に山岳地図をばさりと広げた。
袖を通さず、ひっかけただけの軍服を見れば、どれだけ事が性急であったかがうかがえる。
若き指揮官の眉間にくっきりと溝が生じた。
彼女の直属の部下、オーグ少尉の精悍で凛性に満ちた横顔にも、あきらかな焦燥が浮かんでいた。
「五時の定期連絡がなく、通信班が何度も交信を試みているそうですが……」
「あの山は――ホロン山は魔法や魔術を受けつけない死の山だ……無線機に頼るしかないというのに……!」
ソーナ・ペンドラゴン提督が十年前から始めた炎の泉の捜索は、本格的な冬季に入るまでが勝負といわれるが、今年は異常ともいえる、夏季での猛吹雪。そんな劣悪な環境で第一次、二次隊はそれぞれ一ヶ月の捜索にあたっていた。
第三次隊が入山してすでに一ヶ月が過ぎている。
食料はじき底をつき、精神面でも限界が近くなるはずだ。
「救助要請の発光弾も確認できていないとのことです」
「すぐに救助部隊を編成する、オーグ、兵を集めろ! それから騎乗できるコルイドもだ!」
「はっ!」
ホロン山は別名、死の山。それも踏まえて、今年はだれ一人欠けることなく生還できたのは、ただの偶然か、あるいは奇跡としかいいようがない。
上官の命に従って、迅速かつ冷静に行動を移した少尉の姿は、もう室内になかった。
彼が去ってから、不気味な静けさだけが不純物のように空気に漂う。
「くそっ……、三次隊は私の部下たちだぞ……!」
「無事であることを祈りましょう」
まるで天気の話でもするように、ごく気楽な反応がトリスタン大佐の手もとから返ってきた。
広げられた地図の上にちょんと座るネズミは、ひげをピーンと引っ張りながら他人事のように言った。いや、まさしく他人事ではあるのだが。
「……パーシヴァル卿、いつからここに?」
「通信室が慌ただしくなった、小一時間ほど前でしょうか?」
青い目のネズミをありったけ睨めつけ、トリスタン大佐はその美しい顔貌をゆがめて舌を打つ。
――これはこれは、いつも以上にご機嫌ななめのようで。
「提督に呼ばれていないはずだと思ったが?」
「おっしゃるとおりですね。まあ、ちょっとした散歩です」
「貴族階級には、国軍内部を散歩してもいいという特権まではないぞ?」
「おや、それは存じておりませんでした!」
「……なら、とっとと魔法使いの城へ戻るんだな」
「“氷の女王”さまは魔法使いもお嫌いですか……では、ひっ捕らえられる前においとまするとしましょう」
丸焼きか串刺しにしてやると言わんばかりの形相の彼女に、ネズミは恭しく一礼。
「では、彼によろしく」
机からひらりと飛んで、ポーズを決めて着地。それから小さな指をくるりと回した。
扉がキィと勝手に開く。
「ごきげんよう、トリスタン嬢」
ネズミは紳士の振る舞いで片腕を掲げた。
「……悪魔が」
扉が閉まる間際、己にもっともふさわしい台詞をネズミは聞いた。
*
二年次選択授業の卜占学は、特殊な水と器を使用する、『水盤占いの実践』という章に入った。
地下一階の教室はただでさえ強烈に寒いのに、水を使った授業をするのだから気が気ではない。シキはもちろん、大半の生徒は青白い顔をしている。
キャメロットとエクスカリバーの生徒は普段着ないベストをシャツの上に着て、なおかつカーディガンを羽織り、その上にブレザー、最後にぶ厚いコートを着込んだ。それでも身体はいうことをきかずに、ガタガタと震えている。
女子生徒は男子よりもなお寒そうに身をちぢこませていた。
ところが例外はアバロンの生徒である。
三十六名中、十三名が裕福層の象徴である毛皮のコートを身にまとって、キャメロットとエクスカリバーの生徒をせせら笑うのだ。
「へっ、嫌な連中だぜ」
ウルトが忌々しそうに毛皮の集団が座る、うしろのひとかたまりに向けて吐き捨てた。
「アバロンは親の七光りで入校してるから、実力はたいしたことないってユーリもいってたじゃん。目くじら立ててもしかたないって」
「あーゆう連中はほっとけばいいのよ」
相手にするだけムダ、と隣に座るアリアは辛らつだ。
「実力もねぇのに、でかい顔すんのが腹立つんだよ」
「それは言えてるかもだけど――」
「あ? んだと? もう一回言ってみろよ、貧乏人ども!」
ウルトが弾かれたように背後をふり返り、シキも声の先へ視線を投げた。
この幻想的で神秘に満ちあふれた卜占学には不釣合いな、高飛車な男子生徒と彼のとり巻きが剣呑な視線をこちらに向けている。
以前、シキを敵対視してきたアバロンの生徒、ヴァンブガー・ファクローだった。
黒髪で地味な装いのシキと違って、自己主張の強い雰囲気の少年――。
「さあ、みなさん席について」
その鶴のひと声で一触即発の空気が破られた。
卜占学の担当、グェネヴィア・キエ教諭である。
妖精さながらの美貌ととろける美声のせいか、生徒たちはおしゃべりをやめて、次々と席につきはじめた。
教壇に立つキエは二つ折りの出席簿をゆるりと開いて、ひとりづつ名前を読み上げていく。
名前を呼ばれたシキが返事をしたとき、だれかが露骨に鼻で笑った。もちろん、それがだれかを当てることは、けっして難しくはない。
四人掛けの細長の机に、水が張られた丸くて薄い器を、キエが人数分、置いてゆく。どうもこれが占いに使う水盤というものらしかった。
「では授業をはじめます」
ウルトはキエ先生の甘い吐息のような号令さえも聞こえないほどイライラしているようで、水盤を前にしても、コートのポケットに手をつっ込んだままだった。
当然、シキだって居心地が悪い。
というのも、いままでアバロンの生徒はただ寒いだけの座学をほとんど欠席している。ところが本格的な実践となるや否や、こうして都合よく出席してきたのだ。
それを許している学校の真意までは到底わからない。わからないが、キャメロットやエクスカリバーの生徒からすれば面白いはずがなかった。
「きょうから魔法具を使った実践ですわ。では、『第一項 未来を先読む術』からやりましょう。これはひじょうに難しい術です。さあ、みなさん、両手を水盤にかざしてください。心を静めて……目をつむって、ゆっくり息を吐いてください」
「ねえシキ、昨日ありがとうね」
「え?」
キエに気づかれないように、アリアは占うふりをしながら、そうささやいた。
「ユーリから聞いたの、ホントにありがとう……あたし、シキのこと大好き」
『大好き』――このひと言に、シキは思わず目を開けてしまいそうになって、せき払いでごまかす。
「……僕はなにもしてないよ。動いたのは、ユーリだ」
「それでもうれしかったよ。あたしにもなにか力になれることがあったら、いってね?」
「……うん」
目をつむっても、器に手をかざしても、心を静めても未来などシキにはまったく見えなかった。でもいま、まぶたの裏に映っているのは、確実な現実である。
まぶたの裏に、アリアのあのキラキラと輝くような笑顔が、シキには見えていた。
「みなさん」
この息も凍る地下教室にまったくちぐはぐな美声が、生徒全員に語りかけてきた。
「イメージが見えてきましたね? なにが見えますか? どのような未来が――」
最後列の席から、わっと叫び声があがった。
アバロンの生徒、ファクローが椅子をひっくり返して立ち上がる。
「見えた……悪魔の姿が見えた! この教室に悪魔がいる!」
ざわめく地下教室。
ファクローがシキのほうを見て、指をさす。
「パーシヴァルが連れてきたお前が原因だろ!」
「なっ……」
「この、悪魔が!」
「やめてよ! あんたの勝手な妄想でしょ!」
驚きで声を失ったシキの代わりに立ち上がったのは、アリアだった。彼女は周囲の奇異の視線をはねのけ、声を荒げる。それにつづいてウルトが猛然と立ち上がった。
「てめえ、それ以上言ってみろよ……ただじゃおかねえ!」
歯をむき出しにして、ファクローへ指を向けた。それも、左胸を。
対するファクローはウルトの凄まじい威圧をもろともせず、不敵な笑みを浮かべる。
「やってみろよ、三セクのサルが!」
「いい度胸じゃねぇの、脳なしのクソ野郎!」
「みなさん、落ち着いてください。リンデル君、授業中ですよ。さあ、みなさん席に着いてください」
キエは軽やかに二度、両手を打った。
どういうわけか、注意はウルトだけに向けたものだった。




