迷える子どもたち
学校祭からあっという間に二ヶ月もの時が過ぎて、季節は暦上の秋を迎えた。
冬が近づくにつれ、確実に冷え込みは厳しくなっていたし、しかも時折強烈な吹雪にみまわれる悪天候がずいぶん長いことつづいている。
日中でさえ廊下を歩けば白い息が目立って、あたかも校内は窓という窓を取り払ってしまったようだった。
ここ最近のキリク・パーシヴァル教諭の手伝いといえばほとんど早朝で、眠気と寒さがシキに追い打ちをかけていた――。
「いま眠ったら、凍死しちゃうんじゃないかな……」
「パーシヴァルの雑用係もラクじゃねぇなー」
「まさか校内でコートを着るはめになるなんて思ってなかったよ……これじゃ真冬の外だ」
マフラーに首をひっこめて、シキがいう。
言霊学から二時間目薬草学の教室へ向かう、ごく短い距離でもぼやかずにはいられない。
「あーあ、いつまでこんなしばれがつづくんだべ? これじゃあホーネットもできねぇよ」
ウルトは廊下の窓から、バリバリに凍った校庭の土や中庭の庭木を恨めしそうに眺めた。
「図書室もけっこう寒いんじゃない? 廊下よりはマシだと思うけど」
「ああ」
対するユーリの返事はそっけない。ただ、この二ヶ月ずっとこんな調子だから、シキもそれ以上は求めなかった。
なにを聞いてもどこかうわの空で、ああ、うん、と生返事ばかりなのだ。
「ユーリのやつ、絶対どこか一本ネジが飛んだよな?」
「一本どころじゃないかもね」
「いえてる」
忍び笑いをする友は心配するどころか、むしろこんなユーリを面白がっていた。これでネジが一本飛んだのがフェイメルだったら、ウルトももっと真面目に考えてくれるはずなのに。
「でもよ、なにがあったんだべな?」
「うん……」
だがシキはユーリがそうなってしまった原因を知っている。
――アリア……。
学校祭が終ってからというもの、ユーリとアリアは言葉を交わすことが極端に減っていた。
アリアはふだんどおり明るく振る舞うけれど、時々ふっと影が落ちる姿を、シキは遠巻きに何度も見かけている。ただ、それはアリアに限ったことではない。
入学からいままでずっと学年トップを走りつづけてきたユーリが、学校祭からわずか一週間後に行われた模擬試験で、僅差ではあるものの、フェイメルにその座を明け渡したのだ。――もちろん快く譲ったわけではないだろうが。
どうしてユーリはあんなふうにアリアを拒絶したんだろう。
その問いかけはふたりの触れられたくない部分をこじ開けてしまうような気がして、ずっと疑問を飲み込んできた。飲み込むたびに、小石がひとつずつ増えていくような重苦しい圧迫感を体の裡に感じて、シキは本当に自分がのろまになっているんじゃないかと思うほどだった。
月に一度だけ会えるリジルがやって来ても、シキの気分はほとんど晴れることはなかった。
薬草学はガンブリアという毒草と、ゴリゴリの根を使った解毒剤を調合する授業である。五人一組で話し合い、授業が終るまでに解毒剤を完成させる、さほど難しくはない内容だというのに、シキらのグループはほとんどといっていいほど、進んでいない。
二ヶ月前までは、フェイメルとユーリ、ふたりのおかげで完璧な解毒剤ができていた。
それがいまはフェイメルだけの負担になっている。
「あっ」
アリアの短い悲鳴に、教室内の視線が一斉に集まった。
陶器の乳棒がガツン、と音をたてる。
幸い無傷のまま転がって、クラスのだれもがほっと胸をなでおろしたとき――今度こそ甲高い音が響き渡った。
それは、乳棒を拾い上げたユーリがアリアに手渡して、手と手が触れあった、一瞬の出来事である。
深々とした教室は、呼吸する音すら静寂が飲み込んでしまったかのようだ。
「ソロ君、拾わなくてけっこうですよ。破片が危ないですからね」
メメリコーレ先生の少しとんがった声が、魔法でザザーッと陶器のかけらをかき集める音と重なった。
それから五人はひと言も会話をせずに(しかも解毒剤をうまく調合できないまま)授業を終える――。
「このままじゃ、だめだ」
薬草学室を出て、廊下にひとり残ったシキはきっぱりとつぶやいた。――と、靴底がコツコツ床を打ち鳴らす音にひかれて、弾かれたように顔をあげた。
「どうしたんですか、シキ。メメリコーレ先生の授業は終ったのでしょう?」
「キリク先生……」
出席簿を片手にキリクが小首をかしげて現れた。
「二年生のきょうの授業はこれで終わりでしたね、なにか相談事があれば、聞きますよ?」
澄んだ青い目は、シキの心のなかまでも見抜いているような、不思議な光を宿している。品良くほほえんだキリクの前でシキはしばらく考え込んで、やっとの思いで「たとえば」と口火を切る――。
「……たしかに、当事者にとっては他人に触れられたくないことかもしれませんね。言葉というものは、目に見えない凶器ですから、もしかするとそのシキの友人の友人の……そのまた友人でしたか? その彼を傷つけてしまうかもしれません。ですが、本当に大切な友達なら、思うことを伝えるべきだと、私は思いますよ」
魔法学教務室に、さわやかな紅茶の香りが広がった。
キリク曰く、ネイブル・ストレートという種類で、柑橘系の香りがする茶葉。
――アリアの匂いと、ちょっと似てるかも。
「だれかを大切に想うことは、自分を弱くする原因ではありません。むしろ、自分ではないだれかを想うことで、人間は、もっともっと強くなれるのですよ」
指輪から自力で出てきたリュゼが、頭をかすめてブンブン飛びまわるブリキの昆虫を、短い手でバシッと払い落とした。
シキはカップを持ったまま、ただキリクの言葉を頭のなかで反芻する。
そしてシキは答えを探る。
目に見えないそれを、ゆっくりと、手探りで。
きっと、ユーリは恐れているんだ。
アリアを拒絶しなきゃいけないほど、恐れてる。
なにに?
……僕なら、失うのが怖い。
孤独が、怖い。
きっと、ユーリもそうなんだ。
失うそのときが、怖いんだ。
シキは紅茶のお礼をいって、リュゼを指輪に戻すと全速力で階段を駆け上がった。
「613!」
呼ぶと同時に、目の前にはシキらの部屋が扉を構えて待っていた。肩で息をし、呼吸を整えるよう努力する。
扉の前に立ち、静かに三度――。
コン、コン、コン。
ノックをする。
「ユーリ、いる? ウルトは?」
扉の奥からウルトはおらへんよ、と返事が返ってきた。
シキはもうひとつ深呼吸をして、部屋には入らず扉に背を預けてしゃがみ込んだ。
「ユーリ、そのまま聞いてもらえる?」
「なんや」
先ほどより近くで声がした。
ドアノブに手を伸ばす寸前だったのだろう。
「あのさ、ユーリはアリアのこと、嫌いなの?」
直球に返事はない。怒らせただろうか。
それでも、かまうものか。
「僕は、アリアと一緒にいるときのユーリがなんとなく柔らかい雰囲気で、好きだけど」
「お前、男に向かって好きとか――」
「だれかを好きになるってユーリには許されないこと?」
ユーリが二の句を継ぐまえに遮って鋭く切り込む。
息をのむ音が聞こえた気がした。
これにも返事はない。
一拍おいて、さらにつづける。
「ユーリに目標があるのは僕も知ってる……けど、目標のために自分の心を偽って、犠牲にしなきゃいけない? ユーリは『そうあるべきだ』って行動したんだろ? でも、心は認めなかった。だから苦しいんじゃない?」
だん、と扉が軋むほど強い音と衝撃が背中に伝わってきた。
ユーリの拳だ。
「黙りや! 俺は軍の幹部になるためやったら、なんやって犠牲にしたる! ここは軍に入るための踏み台でしかない! 金持ちで頭の悪いアバロンの連中みたいに、友情だの恋だのほざきよる奴らはその程度や! 俺にはそないな弱さ、必要ない! 目的のためやったら、なんかて切り捨てられる、シキ、必要やったら俺はお前とウルトかて蹴落としたる!」
まるで自分に言い聞かせるように、ユーリは怒鳴った。
やや押し黙ったのち、シキはドア越しにゆっくりとした口調で語りかける。
「……ユーリ、ちがう」
「なにがちがう――」
「ユーリの目的は“軍の幹部になる”じゃないよね。目標はそこだけど、目的は、本当の望みはその先にある“大切な人たちを――家族を守る”ことだろ?」
わずかな沈黙が流れた。
「大切な人たちだから自分を犠牲にしてでも守りたい、って思うからだろ? 軍の高官になれば、家族ごと第一セクターに移住できるってアリアから聞いた。ユーリはこの学校を踏み台っていうけど、そんなふうに思えないから、つらいんだろ?」
「お前になにがわかる言うんや……!」
扉の向こうから静かに怒りを孕んだ声が聞こえた。
「たしかにユーリのことをなんでもわかってるわけじゃない……でも、友達を想ったり、好きな人を想ったりすることって、自分の弱みなんかじゃないと思うんだ。失うときのことを考えるばっかりじゃ、強くはなれない。お互いに信頼しあって、助け合って、想い合うってことは、自分を強くしてくれる。強くなれる。僕は、ユーリやアリアがそうであってほしい」
扉の向こうからは、なんの音もしなかった。けれど思っていることを全部吐き出せて、シキはじゅうぶんやり尽くしたと思っているし、後悔もしていない。
たとえ伝わらなかったとしても、きっとユーリはなにかを感じてくれる――部屋から立ち去ろうと腰を浮かしたとき。
ばん、と急に扉が開いてシキは廊下につんのめった。
顔面を強打し、目の前に星がチカチカ回る。
「いででで……」
鼻を押さえて背後を仰ぎ見ると、そこには複雑な表情のユーリが立っていた。
「お前に――いわれんでも、その――わかっとったわ……」
ユーリにしてはめずらしく歯切れが悪い。
考えが上手くまとまらない様子だ。
「失ったとき、自分が傷つかんように自分自身を守ってただけやって、知っとった……。いままでだれかに言われたことはなかったけどな」
「……え?」
「まさかシキから説教されるとは、思わへんかったわ」
シキはぽかんとユーリを見た。
こんなふうに胸のうちを話してくれることなど、一度だってあっただろうか。
「アリアの気持ちに応えてしまえば、俺はもっと弱くなると思とった。失ったときの重みが、増えるやろ……だから、切り捨てたんや。まだ俺には家族かて守れる力もあらへんのに、これ以上大切なものを増やしたない。せやのに、お前は『強くなれる』ってはっきり言いよるんやな」
自嘲するようにふっと鼻で笑ったユーリが、手を差し出した。
シキには同い年のユーリがこんなに切羽詰った生き方をしているなんて、自身にこれほどまで厳しい枷をはめるなんて、まったく想像もしていなかった。
そんな友の手を握り返せば、力強く引き起こしてくれた。
「優秀すぎるのも問題だね」
シキはくすくす笑いながら、こぶしをユーリの胸にトン、とあてる。
目を丸めたユーリに、いつものクールな笑みが戻った。
シキの胸にドンッと強打が返ってきた。
「あだっ」
「『お前は逃げているだけや』って罵りでもしてくれたら、俺はシキを容赦なく切り捨てて、独りになれたんやけどなぁ」
それは、長い間ずっと共にあったものを手放すような、どこか少しさびしい笑顔のように、シキには思えた。




