学年末試験(2)
「う、わあぁ!」
受け身など取れるはずもなく、シキは埃っぽい地面に背中をしたたか打ちつけた。
首筋を伝う生ぬるいものと、ジンジン疼くような痛み。それに気づいて、発作のように傷口を手で覆った。
「鈍いな。そんなにどんくさければ、あっという間に死んでしまうぞ」
「――な、なっ……」
「試験時間は四十五分あるんだ、それまであがいてみせろ」
冷徹な視線が容赦なくシキに突き刺さると同時に、この魔法学校で到底不必要と思われるものが、シキの眼前に降ってきた。
「それをとって、立て」
シキの腕の長さはあろうかという剣が、地面に突き立てられていた。
――冗談だろ?
見上げたベルガモットはあくまで冷ややかだ。
「さっさとしないと、からだ中がハチの巣になるぞ」
「ふざけ――」
動揺を遮って、第二波が空気を切り裂いた。
転げて剣戟をギリギリのところで逃れる。判断が遅ければ、正真正銘、ハチの巣になっていただろう。
圧倒的な力の差に、シキは剣を握るどころか、逃げ回るだけで精一杯だった。
――学年末試験でどうしてこんな危険なことをするんだ?
――どうしてベルガモット先生が僕を襲うんだ?
「なんで、こんなことするんですか!」
わきあがる冷水のような汗に震えながら、シキがようやく吠えた。
「いま理由をいうのは簡単だが、そう安易に教えてやるほど俺はいい人間じゃない。生きて学友に会いたければ、俺を殺してここを出るんだな」
フッと笑った顔が、ユーリとも、ジン・ホランド教諭とも違ったニュアンスを含んでいるように思える。これは、ひとを傷つけることになんらためらいのない、顔だ。
剣光がシキの頬をかすめた。額に大粒の汗がにじむ。
対する幻魔獣生態学の教諭は涼しい表情を浮かべ、もてあそぶようにくるりと剣を回して構えた。
「どうだ、なかなか楽しい試験だろう?」
「くそっ……!」
心臓はいやおうなく、早鐘を打ち鳴らしていた。
距離をとろうにも、シキが一歩下がればベルガモットは一歩半詰めてくる。
獲物を追い詰める狩人は楽しんでいるのだろう、皮膚の手前ですべての剣閃がかすめていった。
追われる恐怖のせいで酸素が欠乏している。心臓はいまにも爆発してしまいそうだ。
「そろろそ体力切れか……。まあ、よく耐えたほうだ。ほめてやろう、シキ・ヴァグナー」
冷笑を浮かべ、濃紺のマントをばさりと翻すその姿が、見る見るうちに変化してゆく。メキッメキッと、不気味な音をたてて変貌してゆくその光景を、シキはぼう然と見つめた。
人間の姿から、灰色とも銀色ともつかない妖しい光を放つ被毛をまとった巨躯へ。耳は尖り、鼻は伸び、太く鋭利な牙が凶悪な口腔からちらりと覗けた。手足の爪はさながら刃物のよう。
どすん、と四肢を地面に下ろした姿は、巨大な灰色狼のそれだった。
「これが俺の四脚の姿だ」
「魔獣……! 先生は、僕らをだましてたんですか?」
「くく、幼稚くさいことをいうものだな」
グルル、とベルガモットの喉が低い音をたてた。
「ひとおもいに、のど笛を掻き切ってやる」
凶悪めいた獣は全身のあらゆる筋肉をちぢめて、それをバネのように解放したと思った時には、すでにシキの真上に跳躍していた。獲物めがけて爪牙をふりおろす。
刹那。
シキの体内から、突如不可思議な命令がわいた。ひどく乱暴で、体を揺さぶるような衝動と共に。
『軽くいなして、首をひきちぎれ』
全身がピリピリしびれるような緊張感につつまれたとき、シキは野獣のような動きでもって、ベルガモットから距離をとった。
「試験場所を分けるなんて、まさかみんなに、なにかしたんですか!」
――ウルトは無事だろうか。まさか今頃、罠にかかって……?
なにか、ドロドロとした熱い感情が腹の底から沸き起こり、昂ぶり、沸騰した血が冷静を奪い取ろうとしている。
「ふん。だったらどうだというんだ?」
めくれ上がった口唇から獰猛な牙がむき出しになる。それをとらえたときにはもう、シキの本能は動き出していた。
「……ベルガモット!」
怒りとも焦燥ともつかない感情が、ベルガモットに刃を向ける原動力だった。
だが、獣は高らかに笑って軽々とすり抜けてゆく。
もちろんこのまま逃がすわけにはいかない。
瞬時に剣を逆手に持ち替え、真横に凪ぐ。腕の筋肉は久々の酷使にギシギシ音をたて、奥歯に力を込めた拍子にいやな音が鼓膜を打ち、鉄さびたしぶみが口いっぱいにじわりと広がった。しかし、痛みは感じない。それを凌ぐ感情がシキを支配しているのだ――。
なんとしてでも、ベルガモットに刃を届ける。
ただそれだけを考えて。
すると、いままでどこか退屈そうに剣戟をかわしていたベルガモットが、うれしそうに喉を鳴らした。
「ほう、よく鍛錬された剣技だ。いったいだれに教わった?」
「あなたには関係ない!」
片足を軸に身体を反転させ、軽やかに追撃をかわすベルガモットへ鋭い一閃を放つ。己の身と、大切なひとを守るために振るえと父から教わったこの剣術。
友のためなら、ためらう必要はなかった。
「どうやらこれが地雷か」
言葉の端に状況を楽しむような色がにじんでいる。
ベルガモットが足を引こうとする一瞬を逃さず、シキは懐に飛び込んだ。
緑の双眸は驚きに彩られ、危機的状況にもかかわらず輝きがいっそう増した。
「おっと」
「詰みだ!」
ベルガモットの眉間に切先を突きつける。
厳寒の雪原に立ち尽くすような、あるいはジリジリ肌を焦がす砂漠に立っているような。
呼吸をすることすら命取りに思える、重厚な静寂。
互いに微動だにしなくなって、シキにはそれが何分にも、何十分にも感じられた。
「……どうした、詰んだんだろう? 斬らないのか?」
氷のような汗が額ににじんだ。急所に狙いを定めたまま、無言でくちびるを噛む。
それを見とめたベルガモットの唇に、冷ややかな笑みが浮かんだ。
「この好機を逃せば、もう、のぞみはないぞ」
獣はちらりと闘技場の壁かけ時計に目をやる。いまだ魔力で動き続ける針を確認すると、なぜか、呆れたようにため息をついた。
「まったく、手こずらせてくれるな……」
そんなときだった。
「なにしてんだよ、シキ! どこに行ったのかって、心配してたんだぜ!」
突然わいて出た、この場にそぐわぬ突飛な明るい声。それはシキがよく知る人物の――。
「……ウルト! どうしてここに――」
言い終わるか否か、わずかな隙をついてベルガモットが刃をするりとかわした。
緑の眼光がウルトへ向く。狙いを変えて、前足がしなやかに動いた。
殺気に満ちた獣の後ろ姿を見た瞬間、またもや伝令が体内の血管に広がるように、全身を満たす。
『エサに食いついたところを、斬れ』
――だめだ!
「逃げろ!」
シキは手にしていた剣を投げ捨て、ぽかんと目を丸めるウルトのもとへ全力で駆け出した。
ウルトを抱き込むように覆いかぶさる。唸りをあげて牙をむく獣が、いまにも自分を八つ裂きにするんじゃないかと、全身が震えた。
それでも、ここを動くわけにはいかない。
見捨てて逃げることなんて、できない。
ふたたび、静寂。
なぜベルガモットより早くウルトのもとへたどりつけたのか、そもそもなぜあの魔獣を背後から斬らずに、身をていしてウルトをかばっているのか。
考える余裕のないまま、シキはぎゅっと目をつむっていた。衝撃と痛みに備え、体をこわばらせて。
「……くく、はははっ!」
深閑とした闘技場に響き渡る哄笑。
そっと目を開け、ゆっくり顔を上げると、すでに人の姿に戻ったベルガモットがシキを見下ろしていた。にやりと口角が上がっている。
「キミはたいした馬鹿者だな。なぜ剣を捨てた?」
「……え、……え?」
「理由は?」
「あの、それは、とっさに……」
わけもわからず、シキは目を白黒させる。
「敵の前で得物を捨てては、生きることを放棄するのと同じだぞ」
「そう、かもしれません……でも、先生は敵じゃないでしょう……?」
「なに?」
「理由があったと思ってたから……」
「……ああ、それであのとき斬らなかったのか?」
あきれた、と言わんばかりにベルガモットが肩をすくめた。そして落ちていた自分の剣をひょいと拾い上げ、軽く二、三度振れば、それはもとの教鞭に形を変えてしまう。それと同時に、シキが投げ捨てた剣も、ただの木の枝に変わった。
けれど、シキがなにより肝をつぶしたのは、いままで抱きかかえていたウルトがこつ然と姿を消したことだった。
手のひらから、人型の紙切れがはらりと地面に落ちる。
「……紙、だったのか……」
「なんだ、思ったより驚かないんだな。これがキミの友人に姿を変えていたのは知っていたのか?」
「いえ。でもウルトじゃないのは分りました。……ウルトの匂いが、なかったから」
「それを知っていながら身体を張ってかばったのか?」
「てっきり、べつのだれかが魔法でウルトに変身しているんだと、思ったんです」
「俺はキミを本気で殺そうとしていたというのに、たいしたもんだ」
ベルガモットの顔を見れば、ほめられているわけでないことが一目瞭然である。
「先生は本気でそんなことする人じゃない、って思ってます」
「わかっていないな……」
「人じゃなくて、魔獣だった、ってことが?」
シキの挑発にベルガモットが苦笑をこぼした。
「魔獣は幻影術を使えんよ。俺は幻獣だ。高貴な獣は二脚と四脚に転じることができると、授業で教えなかったかな?」
「……あっ」
幻魔獣生態学の教諭は、片眉を上げて試すようににやりと笑う。
そういえば先週の授業中、重要な部分なのでしっかり覚えておくように、と強調していた……ような気がする。今度はシキが苦く笑う番だった。
どうやらすっかりだまされていたようだ。
「『俺はいい人間じゃない』ってそういう意味だったんですね」
「ちょっとしたヒントだよ。そこに気づくとはなかなか見どころがある。俺はだれの使役獣でもないが、校長先生と意見が合ってここで教鞭をとっているんだ。キミのような生徒に出会えるのも楽しいものだな」
先ほどの冷徹な微笑はどこへいったものか、ベルガモットはやわらかい、真綿のような笑みを浮かべた。
「いままでずっと怖い先生だって思ってました。みんなからも評判ですよ」
「それはいいな」
「でも、全部演技だったんですね」
「多少怖いほうが授業に集中できるだろう?」
授業中は“多少”などという怖さと緊張ではなかったはずだ。けれど、そんな幻魔獣生態学の教諭がなんだかすこし近くに感じて、シキの胸にぎっしり詰まっていたものが、どこかへ失せたように思えた。
「あの、でも理由って?」
「ああ。なぜあんなことをしたかって、理由か。キミに魔力が本当にないのか、別の力の有無、それから、キミの勇気を試す。この三つはガヴェインからの指示でね」
「校長先生からの?」
驚くシキにベルガモットが軽い調子でうなずく。
「やり方は俺に一任されていた。ま、痛い目にあわせてすまなかった……俺の幻影術は実体を伴うから、怪我をさせることになったな」
実体をともなう術。まぼろしを本物に変える、術。
シキには魔法魔術と、この幻影術の違いがまだよく理解できなくて、まるで手品師を前にしているような気分になっていた。
「この術にかかれば、棒切れだって切れ味鋭い剣に見えてしまう。キミが持っていたのは最初から棒切れだ。が、幻影術で本物だと錯覚させればキミを傷つける凶器になる。小さなロウソクの火を大火にすることだって可能だ。まあ、なにはともあれ、あとで保健医のアイゼンに治療してもらわないとな。じゃないとキリクになにこそいわれるか……」
最後に付け足した言葉はやれやれと、迷惑そうな口調だった。
ぼろぼろになったシキを気遣って、ベルガモットが肩にぽんと手を置く。シキはあわてて首筋を隠すように手をあてた。
「あ、ありがとうございます。でももう血は止まったみたいですから……」
「そうか? ま、念のためアイゼンのところに行きなさい。ついでに破れた制服も直してもらうといい」
シキが「はい」と素直に返事をすれば、満足そうにベルガモットがうなずいた。
シキの前に差し出された手は、ごつごつして厳格な印象なのに、握ってみるととてもぬくもりがある。優しく引き起こされて、不本意にもお姫様になった気分だ。
「さて、そろそろ試験終了の鐘が鳴るころだな」
そういったそばから終了のベルが響いた。
「先生、みんなは無事に試験を終えたんですか? これ、僕だけ試験してないことになるんじゃ」
「受験人数が多くて部屋を分けただけだから、安心しなさい。ほかの生徒はふつうに筆記試験を受けたよ。キミは俺の攻撃によく耐えたってことで、70点というところだが……プラス5点、おまけしてやろう」
シキとベルガモット、互いにくすりと笑みがこぼれた。
「では試験終了だ。また授業で会おう、シキ・ヴァグナー」
ベルガモットの声がしたかと思うと、気づいたときには目の前に保健室の扉があった。これも幻影術のひとつなのだろうか?
それとも、はじめから闘技場になど行っていなかったのだろうか?
首をかしげてシキは保健室のプレートを見上げた。
「それにしても、あのとき頭の中に聞こえた声、なんだったんだ……」
奇妙にも、自分の声に似ている気がした。だが、あれきり聞こえてくることはない。
自分はやはりふつうの人間とは少し、違うのだろう。
首筋にあてた手をそっとはずす。
「これだって、たとえベルガモット先生でも僕を気味悪がるよな……」
首の傷はどこにもなく、まったくの元通りになっていた。斬られた痕跡すら、見当たらない。
シキは手のひらについた黒い血を見つめ――
「やっぱ、父さんにいわれたとおり、秘密にしておこう」
拳をつくると、そのままポケットに滑り込ませた。




