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凍てつく国

 暦の上では夏だというのに、肌を刺すような冷たく悲しい風がシキに吹きつけていた。

 東国ではコート一枚で冬をしのげたものだが、この国は夏にもかかわらず、凍死してしまいそうだった。歩けば寒風がコートの隙間を縫うように入り込んでくる。それでも、首に巻いた厚手のマフラーが、わずかな救いとなっていた。

 いままでシキがいた東国の夏は、汗ばむ陽気や肌を焦がす日差しがあり、快晴の空にまっ白な入道雲が目を楽しませてくれたし、首筋を吹き抜ける風は涼やかで心地がよかった。

 それにひきかえ、北国は季節が逆転しているのか、あるいは年中真冬のような気候なのか。

 一歩踏みしめるたびに、凍えた土がぱきぱき音をたてる。

 周囲に目を配ると、煉瓦レンガで組んだ簡素な家が身を寄せ合うように軒を連ねていた。商店らしきものや、施設のたぐいは数えるほどしか見当たらない。

 寂れた雰囲気が、町のいたるところに漂っていた。

 道行く人は右手で数えられるほどで、だれも彼も、疲れた顔でうつむき加減に歩いている。すれ違いざま、彼らは一様にうろんな視線をシキに投げかけ、すぐにまた顔を伏せて去ってゆく。まるで幽鬼が町をさまよっているみたいだった。

 街路樹、というには程遠い、痩せた野木の根元にふと目がいった。そこには布をかぶせて不自然に置かれた、塊。

 シキは目を凝らした。そして瞬時に理解した。

 からだの芯からこごえがはしる。さっと目をそらせば、今度は細い路地の隙間から痩せ細った白い足が飛び出しているのを、無意識に見つけてしまった。

 どこにも目をあてようがない。民家の軒先で座ったままぴくりとも動かない人が、いたるところにいるのだ。

 通り過ぎる人々は彼らに見向きもしなかった。

 シキはマフラーに首をうずめた。


 なんだ、この国……――。

 

 この北国の木々は灰色の幹と枝だけの、細く、いまにも折れてしまいそうなものばかり。生気を吸い取られて骨だけになったむくろに思えた。

 それは、人々も然り。

 だんだん不安になったシキは、コートの内側からコンパスを取り出し、丸いふたをぱちんと開けた。何度確かめても、ここが目指していた北だと針はいう。

 コンパスは、五年前に受け取った当時、金色にきらきら輝く高価な色味を放っていた。手のひらに納まるそれはシキと共に旅をして、すっかり薄汚れてしまったが、ガラスの中の北を指す磁石の針は、あの日のままのように生き生きと揺れている。

 ため息を落とし、コンパスを懐に戻した。

 五年の歳月をかけ、やっとのことで北国にたどり着いたというのに、思い描いていた理想は見事に崩れ去ってしまった。

 きっと、いつも隣を歩く大切な友とはぐれさえしなければ、これほど気分が滅入ることがなかったかもしれない。沈む気持ちを奮い立たせて、足早に約束の場所を目指す――。


「すみません、すみません」

 途方に暮れて足が止まってしまったシキは、勇気をふりしぼって小さな商店に声をかけた。軒先の棚には新聞や煙草、わずかな穀物と根菜が並ぶだけで、なんの店かはまったく見当がつかない。

「なにか欲しいものがあるのかい」

 奥から男の野太い声だけが響いてきた。

「いえ……あの、この町で一番背の高い建物はどこにありますか?」

「……旅人かい。そうさな、この通りのつき当たりを左に曲がったらすぐ役場がある。背が高い建物は役場しかねえな」

 ひげをたくわえた――というより、ひげを伸ばしっぱなしにした、大柄の男がぬっと顔を出した。屈強とは程遠い、疲れた顔をしている。どうやら彼がここの店主らしい。

 店主の顔色が変わったのは、シキの姿をみとめてからだった。

「……ボウズ、ひとりで旅してるのかい? いくつだ? それに、その黒い髪と目……どこから来たんだい」

「十五です。東国から来ました。あの、ここまで一緒に来た者がいたんですけど、山を降りるときに追いはぎに襲われて、はぐれてしまって……僕の格好、なにか変ですか? この国に来てからじろじろ見られているみたいなんですけど……」

 内面とは裏腹に、気の強そうな印象を与えるシキの顔立ちや鋭利な光を帯びる漆黒の瞳。そのせいだろう、はじめ店主は盗人か詐欺師かとでも怪しむように表情が硬かった。だが、話をしてみると意外に礼儀正しく穏やかな少年だと気づいて警戒を解いたらしい。

 どこかほっとしたように店主の肩の力が抜けた。

「ああいや、こんな若い旅人は珍しくてね。それに、北国に黒髪はいないからね。気を悪くしないでくれ。それはそうと、連れがいたのかい……それは大変なことになったな。でも、ここらじゃ野盗は珍しくないんだ。お連れさん、無事に見つかるといいが」

 やはり疲れた面持ちの店主に礼を述べて、シキは急いで役場へ足を向けた。

 約束の場所は目と鼻の先。

 祈るような気持ちで走った。

 角を曲がると、目に飛び込んできたのは二階建ての、とうてい役場とは思いがたい粗末な建物だった。


――こんなところが町で一番大きな建物だなんて……。


 民家と違って二階建てではあるが、やはり煉瓦造りで、いまにも崩れてしまいそうに思えた。

 ぐるりと周囲を見回しても、連れの姿は見当たらない。あたりはしんと静まり返っている。

「うそだろ……リュゼ、まさか、あの野盗たちに……」

 いままで堪えてきた恐怖が突然襲ってきた。

 五年間ずっと共に旅をしてきた大切な友達だ。父を失って、代わるように現れたリュゼ。何度も窮地に陥ったシキを助け、励まし、こうして北国にやって来ることができたのはリュゼのおかげだった。

 広大な砂漠を抜け出し、深い深い渓谷を通過し、河を越え、渓谷の絶壁を登り、荒涼とした大地を共にひた進んだ。

 「北国東国国境」とだけ書かれた、非常に簡素な立て看板だけがぽつんと荒地につきささっていたのを見たとき、どんなにふたりでよろこびあったことか。

 ところが、荒野を抜けてほどなく進むと、目の前に立ちはだかったのは険しい山々の連なり。

 北国に入った途端、天候は悪化した。

 魔物のような唸り声をあげて雪が吹き荒れ、シキとリュゼの侵入を堅く拒んだ。風雪吹きすさむ峻岳しゅんがくを越えられたのは、リュゼが励ましながらついてきてくれたからに他ならない。

 ――五年間、ずっと。

 やっと朝までには山裾の町へたどりつける、という夜半をまわった頃、突然、五人の男達に囲まれてしまった。

 野盗というにはいささか貧相な出で立ちだが、異臭を放つ毛皮を被り、短剣に鎌とランタンを手にした彼らは、ありったけの荷物を置いていけ、と脅してきたのだった。

 シキの荷物は、肩に下げる布袋ひとつしかないというのに。

「逃げろ、シキ!」

 かばってくれたのは、リュゼである。

 立ち上がるとシキの背丈をゆうに越す、狼に似た獣がシキの相棒、名前をリュゼという。群青色の被毛を除けば東国の魔物、餓狼ガロウそっくりの彼は、「そんなものと一緒にするな」とよく不満を口にし、仏頂面を作っていた。

 リュゼは、獣とも魔物とも違って、人間の言葉を解する。

ふもとの町の、背が一番高い場所で待っていろ、目印になるはずだ。必ず追いつく」――。

 強く叱責され、くちびるを噛みしめて一度もふり返らずに、一気に山をくだった。

 リュゼの言葉はいつもシキを裏切らなかった。だから、大丈夫、と言い聞かせて走りつづけた。

 しものおりる泥に沈んだ田畑、あぜ道に寂しく直立する枯れた古木。空は白み始めていた。リュゼと別れてから心細さが募っていったが、いまはそれ以上の死別という恐怖が、心臓を握りつぶさんとしているように思えた。

 リュゼさえも失ってしまうのかと、体がふるえていた。



「リュゼ、どこにいるんだ……」

 閑散とした役場の入り口の前で背を丸めてしゃがみ込み、疲労からうとうとしていたシキは、はっと目を覚ました。気配に敏感な体質のため、なにかの動きを感じて、すぐさままどろみの世界から飛び起きた。

「リュゼ?」

 あわてて立ち上がり、辺りを見回す。だが、役場の周辺には犬猫の影すら見当たらなかった。

 肩を落としかけたとき、背後からぽん、とその肩を叩かれた。驚きのあまり、一瞬呼吸が止まった。

 ぎょっとしてふり返ると、見知らぬ男がにこりとほほえんでいるではないか。肩を叩いたのは紛れもなくこの男のようだが、いましがたあたりを見回したときには、近くに人がいる様子はなかった。

 まさか妖術や仙術の類だろうか?

「はじめまして、お待たせしてしまって申し訳ありません」

 男は大きな身振りで胸もとへ手をあてがうと、優雅に会釈をした。すっと持ち上がった顔を間近で目にして、シキは驚かされることになる。

 目元にわずかなしわこそ見てとれるが、とてもハンサムで、思わず目をみはった。東国の人々と違って彫が深く、目の色も鮮やかで宝石のようだ。

 顔立ちには、この寂れた町に似つかわしくない品格めいたものがあり、旅の中で父から読み聞かせてもらった本の中に登場する“紳士”という単語が、ぴたりとあてはまる気がした。

 キャラメル色の髪に同色の柳眉りゅうび。シキを見つめる青い双眸そうぼうは蒼穹そのもの。この国に足を踏み入れてから曇天しかお目にかかっていないが、まさしく空色の目だ。

 両耳の、片手で収まらない数の色とりどりの耳飾ピアスは、美しい所作と上品な笑みの彼に調和しない気がした。

 首に巻いた厚手のマフラーと、くるぶしまで達する暗灰色のなめらかな外套マント。一見するとただの不審人物に思えるが、不思議と危険なにおいがしなかった。

 彼からは表現のしようがない、不思議な香りがする。だれをも酔わせてしまうような、強くこ惑的な匂いをシキは感じ取った。

 意識すると、人の気配を匂いとして感じ取る不思議な力を持つために、本当に匂いに酔ってしまいそうだった。

 突如現れた謎の紳士を呆けた顔で眺めていると、ずっと笑いを堪えていたらしい彼は、がまんしきれず、破顔した。

「ははは! 安心なさい。なにもきみをそそのかして地獄へ連れて行こうってわけじゃありませんよ」

 くつくつと肩をゆらしながら、白い手袋をはめた手を差しのべる。

「きみを迎えに来ました。ようこそ、北国へ。私の名はキリク・パーシヴァル。歓迎しますよ、シキくん」


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