禁忌の魔術
底冷えする夏の冷気を確実に受け継いで、季節は厳寒の秋に移り変わった。当然空は相変わらずの鉛色で、双子の半月だけがぽっかり浮かんでいる。
『秋晴れ』などいう言葉が使われたのは、いまから百年以上も前のことだ。
そんな北国の憂いをあざ笑うように、今朝は一段と冷たい強風が吹き荒れている。もちろん、校舎に魔法がかかっていなければ、窓という窓がたちまち音をたてて砕け散っていることだろう。
そんな気もめいる天候もあいまってか、メリーニ・ブラッドは苛立たしげに、人差し指を教務机に打ちつけていた。
「なにをやってるんだ! 早いところあの小僧の化けの皮を剥がせと、いっただろう!」
部下のモリスに大量のつばが飛ぶ。
教頭のプレートが置かれた机の前で、生活指導教諭のモリスは小さくなって、上司の癇癪が過ぎ去るのを待った。そのあいだに、顔面に浴びたつばをぬぐう。
「あの、すかした! 下級の! 薄ら笑いがじつに陰険な――」
言葉を区切るごとに、ブラッドが机を平手で叩く。そのたびにおかっぱが揺れた。
「悪魔が連れて来た小僧が、ただの子供のはずがない!」
「ご、ごもっともです、教頭先生……」
「私は悪魔の存在を認めはしない! 悪魔は卑劣で、残虐で、もっとも愚かだ! 私の曽祖父も祖父も闇の力に殺された! 悪魔など、北国に必要ない!」
後半は私怨も混じって、もはや爆発寸前といった雰囲気だ。
ブラッドは肩でフーフー息をすると、浮き上がった腰をゆっくり椅子に下ろした。乱れた髪とちょび髭をなでつけ、ひとつ深呼吸。
そうしてやっと落ち着きを取り戻し、モリスに一瞥をくれる。
「必ずたくらみを暴いて退校処分にしてやる……! さっさと小僧の尻尾をつかめ、いいな、モリス!」
「は、はい……」
散々わめかれた挙句、教頭室から叩き出されたモリスは深く息を吐き出した。それから、後頭部が薄くなった髪をなであげる。
痩身の彼は、疲れているのか生まれつきなのか、背中を丸めてドアの前に立ちすくみ、もう一度ため息を落とした。
この魔法学校の全権限を持つガヴェイン校長と違って、教頭の権限は片手で足りてしまう。それゆえ、水面下では校長の座を狙っているとかなんとか。
ブラッドは悪魔の存在を認める北国において、悪魔拒絶者のひとりである。その彼は、下級とはいえ悪魔のキリクが連れて来た得体の知れない子供――シキを、当然ながら良く思っていない。
グレーゾーンの生徒の正体を暴くべく、部下を使って身辺を調べ上げる日々が続いていた。だが、いまのところ、これといった成果はないようだ。
モリスは言いつけどおり監視をするために、シキの姿を求めてとぼとぼと歩き出した。
「シキ・ワグナーが悪魔の手下だって? 悪魔だったら魔力があってとうぜんだっちゅうのに……あのヒゲナットウ、とうとうおかしくなっちまったんだべか……ただの子供にここまでするなんて、イカレとる」
ヒゲナットウ――もとい、ブラッド教頭に聞こえないよう、ぽつりとつぶやく。
もちろん、上司の半狂乱ぶりには、さすがのモリスもため息と愚痴がこぼれるようだ。
けれど、教頭の肩書きを持つブラッドに尻尾をふっておくほうが、彼にとってはおおいに都合がよかった。理由はきわめて簡単で、生徒たちを正当に口撃できるすばらしい役職を拝命するため――ということは、公然の事実である。
教頭室の扉の前でちょこんと座る青い目のネズミは、背中を丸めて立ち去る小男をしばらく眺めた。
「ふむ……モリス、あなたのほうがいい線をいっていますよ」
感心を多分に含んでうなずき、小さな指でぴんと伸びたひげを弄ぶ。
廊下の窓はガタゴト揺れ、風のぶつかる音が、不気味な叫び声に聞こえた。
だが、悪巧みをするにはぴったりの早朝に思えて、ネズミはチチッと声をあげて笑いだす――。
*
「なんで、いっつも、魔法学の授業って、こんなんばっか、なんだ、よっ……!」
ゼーゼー息を切らしてウルトがうめいた。
たしかに、このいまにも死にそうな友人を見れば、昼食前の持久走は地獄の仕打ちのように思える。しかも、汗をふくんだシャツと運動着が重たいのか、走る速度は亀並みだ。
きょうの魔法学の授業は、西塔のとなりにある競技場で、四十五分間ぶっつづけの耐久走である。
魔法などちょっとも、いや、まったく関係がない。
そもそも、シキが入校してから魔法学の授業では、魔法を使ったことなど一度もなかったし、こうしてずっと走らされたり、曇天を見上げて星座の授業を受けたり、ときには童謡を歌う日もあった。
ちなみに北国や黒竜王の歴史については、同じ内容を四回も聞かされている。
授業終了の十分前で、四十名の生徒はやっと床に倒れることを許された。
シキも仰向けになって天井を見つめる。電灯のまばゆい光に目を細めた。
ほかの生徒たちが喘ぐなか、シキひとりがほとんど息切れもなく、軽い汗を浮べる程度であった。
「どうしてキリク先生はただの運動なんてさせるんだろ……」
ぼんやり考えていると、隣に座るユーリが汗だくの顔をあげた。
「パーシヴァルが、こないな魔法と無関係なこと、させるとも思えへん……なんや裏があるはずや」
「ウソだね! 一度だって、魔法学らしい授業したことねーじゃん! 絶対、オレらをいたぶってるに違いないね!」
ウルトが大の字になったまま抗議する。こんな授業が続けば卑屈になるのも無理からぬことだ。
「僕は魔法とか使えないし、ラッキーだけど」
「なんで、シキはそんな体力あんだよ。反則だっつーの……昼飯前だぜ? オレもう腹減って死んじゃうよ……」
ぼやくウルトの腹の虫がとうとう騒ぎだした。
「はやく食堂いきてぇー……」
シキは空腹こそ感じてはいなかったけれど、ウルトの手前、なんとなくうなずいて応じた。ふいに、何者かの視線を感じて跳ね起きる。なにやらその視線がねっとり絡みついて、とても気味が悪かった。
「そういえば僕、今朝からずっとだれかに見られている気がするんだ……」
「んだよー……自慢かっつーの!」
「その髪の色やしな、あんま、かまへんほうがええ」
ウルトのつっこみをそれとなく流して、ユーリの言葉にうなずく。
「……そうだね、そうする」
念のため、こっそり周囲に目を配ったとき、少し離れた場所に座るアリアとフェイメルを偶然目にした。
フェイメルが青い顔でふらふらと立ち上がって、アリアに一言告げている。
ひとり競技場の扉から出ていくうしろ姿に、シキは妙な不安を覚えた。
――アリアが『給水所まで一緒に行こうか?』っていってくれたのに、フェイメルは、なんでひとりを選ぶんだろう……。
*
人気のない給水所のへりに手をかけて、彼女は苦しそうに嗚咽をもらしていた。それは、キリクが予想した通りの結果だった。
へりに手をかけたまま、フェイメル・モルガーナのひざが崩れ落ちる。
元々体力のあるほうではないが、顔面蒼白のうえ、尋常ではない大粒の汗が頬を伝っていた。胸を押さえる手に力がこもる。
――胸の刻印が熱を帯びているのだろう。
「この室内競技場の照明に、セルカークの光と、朝日を使っています。闇の魔力を持つ人間にはつらい環境でしょうね」
キリクが声をかけると、彼女の肩がびくりとはねた。ふり向いたフェイメルの表情は、普段の彼女には見ることのできない、ひどく怯えた――むしろ、絶望に近いものを孕んでいた。
「……パーシヴァル、先生……!」
ゆっくり近づいたとはいえ、気配を断っていたわけではない。ならば、背後の気配に気づかないほど苦しかったに違いない――とキリクは表情を曇らせた。
「この授業は闇の魔力に対する免疫力を高めるため、と授業前に説明しましたが、本当は光の力に対する免疫をつけるためです」
もちろんこれも嘘である。
「フェイメル・モルガーナ。貴女のそれは――胸に刻まれているものは、闇の呪いですね。一体なんの呪いです?」
ぎくり、とフェイメルは全身を硬直させた。胸を押さえる手が、かたかた震えだす。
そう、この授業は彼女に用意したものだった。それも、この瞬間のためだけに。
「……これは、ただの――」
「私も、闇の力をもつ悪魔のはしくれですよ」
キリクが自嘲気味にそう言うと、フェイメルは観念したように短く答えた。
「これは……死の――呪いです」
言って、硬く目を閉ざし、うつむく。
苦しみを抱えた彼女の境遇に、キリクはわずかながら哀れみを抱いた。
「……そうでしたか」
しゃがむ少女の肩に、そっと手を置いた。
死の呪いに抗うことは絶対にできない。すなわち、魔法や魔術で打ち消すことも、防ぐこともできない代物なのだ。呪いを解くことができるのは、かけた者のみ。それが闇の魔術の中でも禁忌のひとつ、死の呪い。
この北国では過去、悪魔や闇の魔術師によって罪なき多くの国民が呪いを受け、それは子孫にまで影響を及ぼしている。
「フェイメル、つねにこれを身につけていなさい」
ローブから取り出した銀色のロケットを握らせると、彼女ははっと目を見開いた。
「これは……この中に入っているのは……」
「そう、セルカークの光です。ただし、ロケットに魔法をかけているので、持っていてもさほど苦しくないでしょう?」
ふるえる手で握りしめ、フェイメルはこっくりうなずいた。銀の髪がさらりと肩から落ちる。
「闇の力に負けてはいけません……じきに光の力に対する免疫もつくでしょう」
「……ありがとう、ございます……」
小さくなってうずくまる少女に、ほかにかける言葉はみつからなかった。
汗とは異なるしずくが、一度だけ頬を伝って地面に――落ちる。
*
その日、すべての授業を終えて、ウルトとハリスからホーネットをしに中庭へ行こう、と誘われた矢先のことだった。
「シキ、お使いを頼まれてくれませんか?」
「あー……はい」
廊下でばったり出会ったキリクからそう言われて、シキは思わず口ごもった。
「知り合いから荷物を受け取ってきてほしいのです」
今度こそ行くだけ行こうと決めていただけに、できることなら断りたかった。が、キリクからの頼みごとを無下に断ることもできないし、嘘を言って断るなどもってのほかだ。
廊下の曲がり角でウルトとハリスが早く、と手をふる。
――ふたりとも、また誘ってくれるかな。
そう考えたところで、苦笑がこぼれた。
杞憂に過ぎない。
こんなことでのけ者にするような友人たちではないことくらい、とっくにわかっていたのだから。
「魔法学で使う教材を、第二セクターの知り合いの店まで、私の代理として取りに行ってほしいのです」
キリクと並んで歩くシキがぱっと顔を上げた。
外出は前日までに、担任と教頭の許可をもらわなければいけない規則だ。それに、生徒が第一セクターから出ることは原則的に禁止――帰省のみ認可――されている。
「キリク先生は行けないんですか?」
「ええ、私は一セクから出るときは軍の監視が付くのです。だから、シキに頼みたいのですが……」
「僕ひとりで、ですか?」
「ひとりで、です」
質問の意味を理解しての、返答だった。
「残念ながらリュゼは連れて行けません」
「そうですか……」
キリクがシキを見つめる目はひたすら優しい。
「……シキ、任せてもいいですか?」
リュゼに会えない寂しさを押し返して、シキは力強くうなずく。
「……はい、大丈夫です!」
なにより、キリクの期待に応えたかった。




