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国軍のバッジ

 授業終了の鐘が鳴ると、クラスメイトたちは多目的室を出て散り散りになった。

 廊下でおしゃべりをする生徒、ヒュルヒュル寒風が踊る校庭へ向かう生徒は、ごく少数だ。大半は授業の終盤で気分が沈んだのか、早々に階段を駆けのぼっていった。


 ユーリが平板な口調で切り出したのは、シキが教室を一番最後に出た直後のことだ。

「あんな話をしたってことが魔法司法省にばれたら、バショカフのやつ、教師は即クビやな」

「告げ口したってバショカフ先生にばれたら、僕らもただじゃ済まなさそうだけどね」

「まあな、けど軍のほうはクビどころやなくて、死刑モンや」

「軍? なんで軍が関係あるの?」

 突飛な話にシキは目を大きくした。軍人でもあるまいし――と言いかけて言葉を飲み込む。

 視線の先でユーリが片眉をあげ、(さも得意げといった表情で)ふっと笑っていた。

「ローブの内側に階級バッジが見えた。国軍の紋章や」

「え、マジで? あのひげもじゃ、軍人なのかよ?」

 ウルトのすっとんきょうな声が廊下に反響する。数名の生徒が迷惑そうな視線を投げてきた。

「十中八九、間違いないな。現役やろ。クラス担任を受け持たへんかったら、講師として教鞭をとれる規則やし」

「うはは! まあ、たしかにあの体型じゃ教師より軍人ってほうがしっくりくるけどさぁ」

 ウルトは巨体を揺らして歩くバショカフの真似をしながら、周りのことなどお構いなしにケタケタ笑う。

 シキはぼんやりと学年首席のクールな横顔を眺めた。


――ユーリの頭の中はいったいどうなっているんだろう。


 そんな規則があるなんて、生徒はだれも知らないのではないか。

「それよか、バショカフには注意しとかなあかんかもな。軍の人間がなんで教師やってるかは知らんけど、北国のタブーを公然と破るやつや……」

「つまり――バショカフ先生はあまりよくない人かもしれないってこと?」

 ユーリは無言でむずかしい顔を作った。断言はできない、ということらしい。

「軍は国民のためにあるもんじゃねーの? オレ、軍人で悪いやつはいないと思ってたのになぁ」

 後頭部で手を組み、ウルトは残念そうにため息を落とした。そんなときだ。背後から三人を呼び止める声があった。

「おーい、これからホーネットするんだ、みんなで中庭いこうぜー!」

 一学年キャメロットの中で、リーダー格のハリスが叫ぶ。

 ウルトの目にきらきらとした輝きが戻った。

「オッケー! じゃ、コート取ってくるからあとで合流するわ!」

「俺は面倒やし、やれへんからな。審判だけやぞ」

 ぼやくユーリを横目に、シキは苦く笑って視線を落とした。

 ハリスは駆け寄ってくるなり、少しかがんでシキの背中をトンと叩く。

「シキもいこうぜ! 気にすんなって、みんなフォローするからよ」

 彼の、これでもかという白い歯が、シキの目にはよけいまぶしく映った。

 ボールに様々な妨害魔法をかけて、ゴールへシュートする屋外スポーツ。それが生徒に人気のホーネットである。

 手を使わずにゴールネットを揺らすシンプルなスポーツだとしても、魔法や魔術が使えなければ、ただの足手まといになるだけだ。

「ごめん、パーシヴァル先生の手伝いがあるんだ……」

「そっか、じゃあ、しかたねぇな……」

 ハリスとウルトの残念そうな顔に、不謹慎にも胸の奥がほんのりあたたかくなった。

「次は来るだけ来ぃや」

 軽く肩を叩くユーリの優しさが、胸の奥をさらにあたためる。


「みんな、ありがとう」

――僕にも魔力があれば一緒に遊べるのに。


 冷たい風を切って中庭へ飛び出す友人達を窓から見送って、シキは職員室へ向かった。



 そろりと扉を開ける。職員室の中を眺めてみても、そこにキリクの姿は見あたらなかった。

 整然と並ぶ机には、数名の教師がいるばかり。彼らは授業後の処理に追われているのか、しきりにペンを走らせていた。

「まだ授業から戻ってきてないのかな?」

「パーシヴァル先生なら三年生の授業があったみてえだから、戻るまでに少し時間がかかるかもしれねぇぜ」

 背後から気さくに話しかけてきたのは、先ほどのロエッタ・バショカフ教諭だった。あの狩人のような鋭い眼光はすでに消えている。

「ちょいとごめんよ――どっこいせ」

 入り口に一番近い机が彼の席らしく、備え付けの椅子がギシギシと苦しそうにうめいた。

「シキ・ヴァグナーだな? パーシヴァル先生の手伝いをやってるんだってかい? それは大変だろうさ!」

 がははと笑うバショカフに、シキはあいまいな相づちを打った。

 もちろん素直に大変だなんて言えるはずがない。

「おめえさんがここに来た初日、俺は職員室にいなかったから、会うのはきょうが初めてだな」

「はい、その――よろしくお願いします」

「ふうん、黒髪かい」

「……よく、いわれます……」

「そうだろうなあ、なにせ禁色きんしょく――黒竜王と同じ色だ」

 そういってバショカフはふたたび大口を開けて笑った。

 はじめて対面するほかの教師や生徒と違って、シキに対するバショカフの視線は、嫌悪や侮蔑などの不快な感情がなぜか込められていない。とても不思議ではあるが、まっすぐ見つめてくれる視線はやわらかく、やさしく、なにより心地がよかった。


――怖いかと思えば、すごく親しみやすいし……変な先生。


「歴史の授業は板書や読むだけで案外つまらねぇもんだろう。俺も学生の頃は歴史が嫌いだったからなぁ、よっくわかるぜ」

「……僕は字を書くのが苦手だから、魔術史は板書が多くて大変で……」

 本音がぽろりとこぼれた。

「がはは! マース先生は読む、書く! がすきだからなぁ!」

「まぁ! 教科書そっちのけのだれかさんにいわれては、マース先生もたまったもんじゃありませんわ!」

 少し離れた席で、プリントの束と格闘していたアザリーが、とうとう堪えきれずに話の輪に加わった。


 放課後の職員室は廊下の喧騒とは無縁に、ただただ、なごやかだった。

 そのなごみを逆手にとって、シキは思い切って切り出した。

「あの……ところでバショカフ先生は授業であんな――教科書に載っていないようなことを僕たちに教えて、その……いいんですか?」

「ああ、あれかい。軍にいいたかったらいいな。おらぁ嘘を教えるのはきらいなんだ。おまえさんたちには正しい知識が必要だ……ま、裁判沙汰になったら、そんときゃそんときよ!」

 大口を開けるものだから、やはり欠けた前歯が目につく。

 ふと、バショカフは思い出したようにバシンと拳を打った。

「そうそう、たしかおめえさん、東国の生まれと聞いたがな。言語は共通でも、東国固有の言葉が多いって話じゃあねぇか。発音も違ったりするんだってな。文字はもっと難しいだろう? たしか、横文字じゃなくて縦文字だったな?」

 シキはのろのろうなずく。

 実際は、東国でもあまり字を書く機会がなかったために、文字を書くこと自体が難しいのだ。

「北国の字はこの学校に入って練習を始めたから、まだへたくそなんです」

 何度もユーリから「ドヘタ」と言われて、それは自覚していた。

「あ、発音……僕もしかして、なまっていますか? 自分じゃよく分からなくて……」

 もしかしたらクラスのみんなは、あえて言わないでくれているのかもしれない。

 にわかにほほがカーッと熱くなる。

 そんなシキを気にするふうでもなく、バショカフはのんびり首を横にふった。

「いやいや、きれーな発音だ。まるでこの国出身みてえだぜ」

「――っ。……ありがとうございます」

 頬のみならず、耳までもが熱を帯びる。

 褒められることなんて久方すぎて、どんな顔をすればいいのか、すっかり忘れてしまっていた。

 そんなとき、教員室の扉が音もなく開いた。

「シキ、お待たせしてしまってすみませんでした」

 プリントの束を抱えて現れた人物は、おもむろに目を細めた。それはシキのすぐそばにいる、バショカフに気づいてのことだった。

 扉の前でキリク・パーシヴァルが優雅にほほえむ。

「ああ、ロエッタ。きょうは代理授業でしたか。あなたが研究室ではなく、こちらにいらっしゃるのは珍しい」

 束を半分シキに渡すと、バショカフに会釈をして職員室をすぐに出た。シキもキリクに倣って、あとにつづく。

「ずいぶん待たせてしまいましたか?」

 廊下を歩きながらキリクは申し訳なさそうに肩をすくめた。

「あ、いえ。僕もちょっと前に着いたんです」

 あわててかぶりをふると、キリクはすべてを見抜いているかのように、優しげに目をそっと細めた。

「三年生は卒業試験に向けてもう取り組んでいますから……ずいぶん長いこと捕まってしまって」

 卒業試験とは、一年、二年の期末試験と同じ時期に行われる、年明け早々の一大イベントである。

 まだずいぶん先のことだというのに、こんなに早く取りかからなければいけないのかと、シキの背筋がひやっと凍えた。その不安を払いのけるべく、頭を軽くふって違う話題を切りだした。

「そうだキリク先生、バショカフ先生ってすごく物知りなんですね。東国のこともずいぶん知ってるみたいだし……すごいな、って」

「……授業、面白かったですか?」

 キリクはくちびるをゆるめたまま、質問を質問で返した。

 シキはきょとんと目を丸める。やや考えてから「びみょうです」と返した。

 教壇で北国の黒い歴史さえ口にしなければ、素直にうなずいただろう。

「そうですか……マース先生の代理は彼が志願したんです。二年生になれば、また会うことになりますよ」

 魔法学教務室へ向かうキリクの背中を目で追って、シキは首を傾げた。


 *


「提督、やはりあの下級悪魔が連れて来た子どもは、悪魔のセンが強いでしょうな。もしかすると、強大な力を持つ悪魔のしもべかもしれません。そういうことなら、悪魔特有の気配を抑えることくらい造作もないでしょうぜ。ことが悪化する前に、手を打つべきです」

 深緑色のフード付きマントを頭からかぶった人物が、細長い鏡の前にひざをついて語りかけていた。

 薄暗く、せまく質素な小部屋。机と椅子と本棚、そして、金の装飾で縁取られた古めかしい壁掛け鏡が、部屋にある調度品ちょうどひんのすべてだ。

 学校中が寝静まる深夜二時。

 夜がとっぷりふけた時刻に、鏡からの返事を待つ。

『……そうか。ならばあの忌々しいパーシヴァルもろとも、早急に始末すべきであろう』

 返ってきた男の声には、年をじゅうぶんに経た渋みがある。むしろ、貫禄といっても過言ではない。

「ですが、生徒として潜り込んでいるのなら、学校の庇護ひごがあります」

『ううむ……あのガヴェインが隙を見せるとも思えんな。もしかすると、気づいていてかくまっているのかもしれん』

「まあ、提督にとっては好都合でしょう」

 フードの人物はあざ笑うように言った。

『うむ。あのばばあの――学校の不祥事さえあれば、第一権限を剥奪するのは簡単だ。しかし、シキ・ヴァグナーとやらの狙いがなんなのか知る必要がある。いましばらく探るのだ、バショカフよ』

「はっ、承知いたしました」

 鏡の中から響いた男の指令に、ひざをつく者――ロエッタ・バショカフは恭しく頭を下げた。

 それきり鏡はひと言も発することなく、部屋の暗がりだけを映して沈黙した。

 ほどなくして、バショカフが顔をあげたとき、頭からフードがはらりと落ち、厳めしい顔立ちと赤銅色の双眸が鏡の中に映りこんだ。普段とは真逆の、無機質な表情が張りついている。どこか、ひんやりとした瞳が鏡をじっと見据えていた。

 バショカフは立ち上がり、さっとマントがひるがえる一瞬、胸につけたバッジが鈍く光った。

 ここは古代文字研究室。彼以外にまったく出入りのない小部屋である。

 古い壁掛け鏡には、バショカフの大きな背中が映っていた。


 ネズミに変身したキリクは、天井のはりからバショカフが立ち去るまでを、そのまっ青な目で、つぶさに眺める――。


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