歴史Ⅰ
「『国軍は黒竜王のために命を捧げ、国の危機を回避するために置かれる北国唯一の武力である。』」
『北国における竜王と軍の関係第 三章』の冒頭。
本来マース先生が今日の授業で教えるはずだった章を、バショカフが突然大音声でとなえた。
衝撃波がせまい教室を駆け抜けていく。
ギャッと悲鳴があがったのは、そんなときだった。
シキはぎょっとしてあたりを見回してみたけれど、だれも叫んだ生徒はいないように思えた。
「さすがに教室も不意打ちだとびびるよなぁ」
となりの席で忍び笑いをこぼしながら、ウルトが言った。
「いまのって……教室が叫んだの?」
当然だろ、と言いたげなニヤニヤ顔を見ているうちに、シキははたと思い出した。
そういえば、613号室――僕らの寮も、意思みたいのがあるんだっけ。
「いいか、北国国軍はおめえさん達が知っているように、王不在の百三年間この国を守りつづけている。わが校の校長、ガヴェインを筆頭に秩序を守っているのはわかるな?」
クラスメイトの数人がうなずく。
「だがな、もしかすると、黒竜王の復活はまだまだ先になるかもしれねぇわけだ。だからこそ、より強大で強靭な軍隊が必要なのさ。そのために優秀な魔法使い、魔術師を俺たち教師が育てる。生徒がそれに応えてくれるのが、なにより喜ばしい!」
軍の重要性を真面目にとなえたあと、バショカフは表情をころりと変えてまたもや笑い出した。
手前の座席に座っていたシキとウルトは、大男の前歯が一本欠けていることに気づいてしまって、笑いを堪えるのにひと苦労だった。
「さてさて、教科書に載ってるこたぁ、寮に戻ってから復習すりゃあいい。せっかく歴史の授業なんだ。おめえさん達には教科書から省かれた歴史を教えてやろうじゃねえか」
教鞭を大きくごつごつした手のひらに打ちつけ、全員を見渡すバショカフの赤銅色の目がぎらりと光る。
まるで獲物を狙う狩人のように。
生徒全員がしんと静まり返った。
「教科書ってのは、いいことしか書いてねえ。黒竜王を卑下する内容なんざ、もってのほかだ。魔法魔術教育委員会と軍が検討して、毎年教科書に載せる内容を決めているからな」
くだらない、といって、歴史Ⅰをぶんぶん振ってみせる。
「どの本にだって、北国の竜王は五国のなかで、もっとも優れていると書いてある。だがな、真実は語り継がれているとおり、ちがう」
真実を知らないシキも、となりで青ざめるウルトを見ればバショカフがこれからなにを言わんとしているのか、理解できた。
「いいか、黒竜王はこの五国が開闢されたときから、どの代も最低のくそったれ――俺にいわせりゃ悪竜だ!」
教室内にさざなみが立った。
学校の教師がこんなことを言うなど、間違ってもないはずだからだ。なにより、国民が自国の竜王を悪く言うことはタブーとされていた。
公になれば、魔法司法省から厳しい処罰を受けると博識なユーリから聞いていたために、シキも体中がざわめきだす。
「はっは! 安心しな、だれかが密告でもしねぇかぎり悪口がばれるこたぁねぇよ」
教壇から脅すような視線が刺さってきて、だれもかれもが居心地悪そうにうつむいている。
「生まれてくる黒竜王はみな、残虐で冷酷な、五竜の中でもっとも最悪の悪竜だ。それは黒竜王の性質で、変えようがないって話だ。過去の賢人達は歴代の黒竜王がやったすばらしい行いを、すべて隠してきた。いや、闇に葬ってきた。だから俺らが語り継ぐしかねぇのさ」
バショカフのにやりと笑った顔に、シキは寒気を覚えた。
それは、ホランド先生とは異なる種類の怖さに思えた。声質が明朗闊達なものから、遠雷のような重低音に変わったことも一因だろう。
「いいか、初代黒竜王は一人の人間だけを寵愛し、それ以外の国民を死の淵に追いやった」
宙に教鞭がくるくる踊る。複雑ななにかが描かれていった。
まもなく教卓の上に白い煙がもうもうと現れ、それは手のひらほどの小さな人間をかたどった。
次に、翼のある竜ができあがった。
「初代黒竜王は人間の女を愛した」
白煙の竜が動いて、愛する彼女の手をとった。
そこに、べつの煙が出現する。三人の人間だ。
「黒竜王は、歯向かう大臣の首を次々はねた」
遠雷がよりいっそう低さと重さを増すと同時に、教室の空気も確実に息苦しくなっていった。
竜が前脚を払えば、三人の大臣の首から上が一瞬で霧散した。
教鞭がもう一度宙を走る。そこで教卓の白煙はすべて炎に変わって、生徒全員が目を見開いているうちに、ボンッと小さな爆発を起して消えうせた。
痛いくらいの無音が充満する中で、教鞭を置く音が、シキの鼓膜を震わせる。
それは、体中を這い回る虫のような、ぞわぞわした感触にかなり近かった。
「三代目の黒竜王は税を滞納した国民すべてを一度に火であぶったし、四代目の黒竜王はグールの餌に生きた囚人を使った。十代目の黒竜王は魔法立法長官に悪魔を任命したことで、非難をしてきた国民を逆さに縛って木に吊るしまくった。とうとう北国には、人間をぶら下げるいい枝がなくなっちまった」
淡々とした口調と、残虐非道の行いにシキの腕が粟立つ。
「十二代目の黒竜王は、専属のコックに人肉料理を作らせた。肉の柔らかい、若い女から生きたまま心臓を抜き取って、ソテーにして食ったのさ。そんで、骨だけが残った」
女子生徒の一人が口に手を当てて教室から飛び出す。
バショカフはほんの少し視線を走らせただだった。
「……竜王は食事をしなくてもいい生き物だっちゅうのにな」
シキも胃の中がむかむかして、いますぐにでもトイレに駆け込みたかった。ちらりとまわりの様子を窺うと、おそらくだれもがそんなふうに思っているのだろう、いまにもむせ込みそうな表情を浮かべている。
ウルトにいたっては完全に血の気が失せていた。
「竜王の復活はだれもが望む――けどな、黒竜王はうまれる前から嫌悪の対象だ」
そう、バショカフは無表情で宣言した。
――これが残酷な「物語」ではなく、現実だなんて。
自分のまったく知らなかった北国の真実。
――そんな最低のやつがこの国の頂点に立つ王……。
十五年間生きてきて、国の成り立ちや竜王の存在する意味など、一度だって考えたことはなかった。
なぜなら考える必要も、そしてひまもなかったからだ。
真後ろの席から質問があがったのはそんなときだった。
「バショカフ先生、黒竜王は、必ず生まれるんですか? もしこのまま生まれなかったら北国はどうなるんですか……?」
アリアの質問は国民の不安を代弁している。
黒竜王が生まれなければ、分厚い雲は太陽を奪いつづけ、風は氷を吹きつける。国軍の施しを受けられない第二、三セクターの住民はどうなるだろう。
――考えたくない。
バショカフが小さな双眸をじっとアリアに向け、そして口火を切った。
「竜王の代替わりは期間も年数も様々だ。二百年余り君臨した黒竜王もあれば、わずか三十年足らずで逝去した黒竜王もいる。先代黒竜王が第十二代なのは知ってるな」
「……はい」
「竜王が不在の間は疫病、飢饉、天災がつづき、国民は数を減らしつづける。ちょうどいまがそうだ。黒竜王の復活は待ち遠しい。だがな、北国に竜王が復活すれば、国民は餓死せずとも殺される運命の者が計り知れないほどになるだろうよ」
シキがバショカフの小さな目を盗み見たとき、ぱちりと視線がぶつかった。
奇妙なほど、おだやかな色をその赤い目に映していた。黒い髪と黒い瞳の少年をはじめて目にしたとき、だれもが嫌悪のまなざしを向けるというのに。
だが、ぶつかった視線はすぐにそれて、四十名の生徒へ注がれる。
「十三代目の黒竜王はかならず目覚める。けどな、それでも俺たちは理に抗って生きにゃならん。希望だけは捨てちゃあいけねぇ」
先程のすさまじく響く声音でも、低く重たい声でもない。それはまるで新雪が降り注ぐやわらかな音。
アリアからの質問はそれ以上なかった。
教室は雪原の中に佇んでいるような静寂に包まれた。
シキの脳裏に、父の声がよみがえる。
『人々を苦しめていた王様は勇者によってたおされました』
かつて父が読み聞かせてくれた物語は、悪事を働いた王がみごと勇者に倒され、勇者が王となって国は平和を取り戻す。そんな素晴らしいお話だった。
――どうして王様なのに悪いことをしたの?
ひざの上から父を見上げると、暗紫色の瞳がシキの視線に気づいた。目があう。父はちょっと悲しそうに目を伏せた。
『王様の願いはなんでも叶うし、どんな命令もできるんだ。だから色々なのぞみを叶えてみたくなったんだよ。王様はたくさんの民にたくさん命令して、反抗する者にはおそろしい罰を与えた』
王様は悪者なんだ、というと父は苦笑した。
シキの頭に手を乗せ、そうだなあ、とつぶやく。
『王様になった人間は……いいや、すべての者は生まれたときからそういう気持ちを備えているんだよ。それを思いのまま吐きだすか、がまんすることができるか……その違いなんだ。とくに、だれかの上に立って世界を見下ろすと、いままで優しかった気持ちがどんどん薄れていくんだろうね』
――王様なんていなければいいのにね。
くちびるを尖らせてもう一度、見上げる。父はまた苦笑した。
『そうだね、でも王様がいなければ、民は生きていくのがたいへんになる。シキ、おまえは優しい男でいるんだぞ』
そう言ってふわりとほほえみ、大きな手のひらで頭を撫でてくれたのだ。
いまなら父が苦笑した意味がわかる。
シキは教科書の百十二ページを指でなぞった。
『それでも黒竜王は君臨しなければならない。この世界において竜王不在は国の緩慢なる死を意味するからである』